城郭探訪

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一時間でわかる平家物語

2013年01月23日 | 番外編

 

一時間でわかる平家物語




巻一
(清盛の登場から比叡山の紛争まで)

巻二
(鹿ケ谷の反平家グループの捕縛と処罰)

巻三
(安徳天皇の誕生から重盛の死と清盛による公卿の更迭、法皇の軟禁まで)

巻四
(源 頼政と以仁王の叛乱)

巻五
(福原遷都から頼朝挙兵、富士川合戦、奈良炎上まで)

巻六
(高倉上皇崩御、義仲挙兵、清盛の死)

巻七から巻十二・灌頂巻はこちら

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【巻一】
[祇園精舎…殿上闇討…鱸…禿髪…吾身栄花…祇王…二代后…額打論…清水寺炎上…東宮立…殿下乗合…鹿谷…俊寛沙汰 鵜川軍…願立…御輿振…内裏炎上]

 常なるものなどなにもなく、権勢を誇っているものもやがては滅びの道に向かうものである。そのような者は和漢数多いるが、平清盛には及ばなかった。

 平家は桓武天皇の子孫であるが、長らく殿上の交わりから遠のいていた。それが清盛の父、忠盛が鳥羽上皇に気に入られたことから繁栄が始まった。成り上がりものの忠盛に対し、貴族達は策略をめぐらすが、忠盛は機転を利かし潜り抜ける。そんな男の息子、清盛もまた出世街道を突っ走ることになる。当時大流行していた熊野詣の途中で鱸が船に飛び込んできたのも熊野のご利益を示していたのであろうか。清盛は太政大臣にまで上り詰めたのであった。反面、子供達をスパイとして京中に派遣し反乱分子の芽を摘むことも忘れなかった。こうして平家一族は息子も娘もとりどりに栄華を誇ったのである。

 その栄華に溺れたのか、人の噂をよそに清盛は祇王という白拍子を侍らせていたのだが、同じく白拍子の仏に気が移って祇王を追い出してしまう事件を起こした。しかも仏も無常を感じ祇王とともに後世を祈る姿に身をやつしてしまう。

 一方、末世の前兆か、皇室においても、二条天皇と後白河法皇が親子でありながら憎みあっていた。しかも二条天皇は前代の故近衛天皇の皇后を所望し、強引に入内させてしまった。しかしそんな二条天皇も病により若くして命を失ってしまう。次代には皇子が就く。六条天皇、御歳二歳である。そして事件は二条天皇の葬儀で起こった。葬儀の参列で興福寺の悪僧達が比叡山の葬送に乱入したのである。怒った比叡山の大衆達は興福寺の末寺、清水寺を焼いたのであった。

 こうした中、六条天皇に代わって平家一族を皇后にもつ皇太子が即位する。高倉天皇である。とうとう平家は天皇の外戚となったのであった。

 そんな平家の驕りが事件を引き起こしてしまう。摂政藤原基房に対して清盛の孫、資盛が狼藉をはたらき、逆にやり込まれてしまったのである。これを聞いた清盛は激怒、基房に対して復讐を行う。一方清盛の息子重盛はこれを聞き、息子の資盛を叱るとともに基房に対し謝罪をするがこのことは平家の悪行の始めとなってしまった。

 このような平家の傍若無人振りが反感を呼ばないわけにはいかない。藤原成親や平康頼、西光、俊寛といった後白河法皇の近臣たちは、俊寛の別荘鹿ケ谷にて法皇をも巻き込んで平家打倒の謀をなしていたのである。そのメンバーの一人の西光の息子が任国加賀で白山の宗徒と揉め事を起こす。しかも事件は白山の本寺比叡山をも巻き込み、比叡山大衆の強訴に及ぶ。是に対し朝廷は源平両家に内裏の警備を命ずる。大衆達は平家の大軍を避けて保元・平治の乱で勢いを失った少勢の源氏の守る部分に押しかけようとするが、源氏の大将源三位入道頼政の和歌の徳により回避、結果大衆達は平家の方から突っ込もうとし、散々にやり込められほうほうの体で退散したのであった。

 ただし、比叡山の強訴を無視できないのも現実であり、平時忠の大衆への慰撫と共に、事件の当事者である西光の息子や強訴を妨害した平家の侍らが処罰されたのであった。こうして一段落ついたときにそれは起こった。大火事である。火事は内裏をも巻き込む勢いであった。大極殿も焼けてしまったが、このような末代、これ以後再建されることは無かったのである。



【巻二】
[座主流…一行阿闍梨之沙汰…西光被斬…小教訓…少将乞請…教訓状…烽火之沙汰…大納言流罪…阿古屋之松…大納言死去…徳大寺之沙汰…山門滅亡 堂衆合戦…山門滅亡…善光寺炎上…康頼祝詞…卒塔婆流…蘇武]

 比叡山強訴の処罰に対し後白河法皇が激怒した。自分の息子が処罰された西光の讒言であった。比叡山の座主明雲は罷免され還俗の上流罪となる。唐の一行阿闍梨という人も皇帝の逆鱗に触れて流罪の憂き目に遭ったのだが、明雲もまさしくそのとおりであった。しかし、明雲を慕う大衆達は僉議の上、配流先に向かう明雲を取り返したのであった。この行動に対する法皇からの報復は無かった。

 この騒ぎのため一時活動を停止していた、鹿ケ谷に集う反平家一党は活動を再開する。平家に出世を越された藤原成親は、武力を補うべく多田行綱を買収するが、これが裏目に出てしまった。恐れをなした行綱が清盛に密告したのである。計画を知った清盛は激昂、すぐさま計画の首謀者達が捕縛された。西光は清盛の前で悪口の限りを尽くし、拷問の末惨殺。成親は捕縛の上打擲の憂き目に遭う。息子の成経も逮捕されてしまった。それでも、成親と血縁がある重盛、成経の義父である教経(清盛の弟)らの必死の説得により、成親父子は一命を取り留めたのである。とりわけ重盛は、弁雑巧みに父清盛の無礼を咎め、様々な先例を以って教訓する。そして平家の郎党に集合命令をかけ、平家一門における影響力を見せつけたのである。

 結果、成親は備中に、成経、平康頼、俊寛の三名は鬼界が島へと流罪が決定した。それぞれ家族と別れを惜しみ配所先に向かうのだが、なかでも成経の妻は身重であり、一家の悲しみは相当なものであった。しかも成経が父成親の配流先への日数を問うたところ、執行を担当した清盛の腹心難波兼遠は、態と日数がかかるように言う始末。その厳戒態勢を潜り抜けて主人成親を慕った家人が成親の元、備中有木にやってくる。その姿を見た成親は感激すると共に自ら髻を切って出家し、家人は髪の一部と共に消息を都に持ち帰る。

 ところが成親は配流先で殺害されてしまう。刺股を仕込ませた場所に崖から突き落とされたのである。

 このような平家一門のみの繁栄に諦めかけた徳大寺実定は、部下の入れ知恵で平家の信奉する厳島へ参詣の上、そこの巫女を丁重にもてなす。それに感激した清盛は実定に位を与えたのだが、そのやり方は成親とは対照的であった。
 
 一方、比叡山では新たな混乱に突入していた。先ず、後白河法皇が伝法灌頂を三井寺で行おうとし比叡山の大衆達が憤慨し、三井寺を焼き払おうとした。これは結局天王寺で灌頂を行うこで決着がついたのであるが、今度は比叡山の内部で内乱が起こる。教義を極める上級の学侶と建物を管理する下級の堂衆が対立し、堂衆が勝利すると学侶方は朝廷に泣きついた。朝廷は清盛に加勢を命じたが学侶と先陣をもめてまたしても堂衆に敗退した。このような比叡山は次第に荒廃し、行法を続ける者もいない有様であった。それに併せて信濃の善光寺が炎上。この仏法の荒廃は平家滅亡の序曲であるのだろうか。

 果てなる鬼界島では藤原成経・平康頼・俊寛の流人が何とか暮らしていた。熊野信仰の深い康頼はあちこちを熊野に見立てて礼拝し、帰還の願を掛け、成経もそれに同調したが、俊寛は一人は反対していた。この願が通じたのか、木切れに書いて流した和歌の一つが厳島に流れ着いたのである。早速このことは京に報告され関係者は胸をなでおろすのであった。かかる流人らの様子は中国において十年以上も北方民族の地に拘留されていた蘇武の話を髣髴させるものであった。



【巻三】
[赦文…足摺…御産…公卿揃…大塔建立…頼豪…少将都帰…有王…僧都死去…辻風…意思問答…無文…燈爐之沙汰…金渡…法印問答…大臣流罪…行隆沙汰…法皇被流…城南離宮]

 高倉天皇の后は清盛の次女、後の建礼門院である。その建礼門院が懐妊したと聞けば平家一門の喜びは如何程のものであろうか。早速各種祈祷が始まるが建礼門院は今ひとつ調子が良くない。怨霊の仕業かもしれないと判断した清盛は、惨殺された藤原成親の息子成経らを鬼界が島より召還することに同意する。しかし、その召喚状には俊寛の名は見えなかった。俊寛は一人足摺をして歎くがどうしようもなく、成親と平康頼を乗せた船は次第に遠ざかってゆくのであった。

 この赦免の甲斐あってか、建礼門院の皇子、後の安徳天皇が無事誕生した。修法に関わった人々には多量の褒美が出され、公卿たちは我先にと参上した。かかる果報は清盛夫婦の厳島への信仰のなせるわざである。その信仰の端緒は鳥羽院の命による高野山の大塔再建の落成時に見た霊夢にあった。

 翌年、成親と康頼は、故成親の墓所を巡りつつとうとう京に戻ってきた。しかしその中に俊寛の姿を見つけることが出来なかった俊寛の僕、有王は単身鬼界が島に向かう。ところが、そこで有王が見たものはかつての姿から想像もつかぬぐらい変わり果てた主の姿であった。主従二人は再会を喜び合う。有王は都に帰ることを希望するが、死期を悟った俊寛は次第に衰弱し、有王の見守る中息を引き取った。悲しみに暮れる有王は主人の骨を高野山に納め、諸国巡業の旅をして、無き主人の後世を祈ったのであった。

 かかる悲劇を生み出した平家の行く末はどうなるのであろうか、俊寛の死に呼応するかのように大風が京を襲い、甚大なる被害を残していった。占い師たちははこの大風を戦乱の前兆と判断したのである。

 その前兆たる第一歩が起こった。清盛の横暴を度々諌めてきた長男重盛は熊野詣の際、自分の命と引き換えに平家の繁盛を祈ったのだが、帰還後病の床に伏せることになったのである。慌てた清盛は中国から名医を呼ぶが死期を悟った重盛は治療を拒否しやがて死を迎える。そんな重盛は平家の行く末を霊夢で知る能力の持ち主であった。そんな死期を悟った際、嫡子維盛に葬式用の無紋の太刀を渡すということがあったのである。また、重盛は東山に盛大なる燈篭供養をしたり、中国の寺院にお布施を届けるなどと仏法を深く信じる人であった。

 重盛の死後、地震が起き、陰陽師安倍泰親は戦乱の前兆と占い波紋を生んでいた。その一方で清盛の不満は後白河法皇へと向けられていった。法皇は重盛の死をさほど感じでいないし、そもそも鹿ケ谷の反平家の宴に参加した人物であると判断したのである。これを察知した法皇は弁の立つ静憲に弁明をさせる。しかし、清盛の怒りは収まらず、先ず手始めに摂政以下四十三人の官職を停止し、流罪を課す。一方で不遇であった藤原行隆が抜擢されるがその栄華は如何程のものであろうか。

 そして、とうとう清盛は法皇を鳥羽の離宮に遷し、軟禁したのである。これには法皇のみならず高倉天皇も嘆き、消息を遣わし法皇はそれに涙したのであるが、こうして治承三年は暮れ行き、戦乱の治承四年を迎えるのであった。



【巻四】
[厳島御幸…還御…源氏揃…鼬之沙汰…信連…競…山門牒状…南都牒状 返牒…永僉議…橋合戦…宮御最後…若宮出家…通乗沙汰…[空鳥]…三井寺炎上]

 公卿らを流し、法皇をも軟禁した平家は高倉天皇に代わって安徳天皇を位につけようとした。健康上の問題も無いのに退位させられる高倉天皇の心は如何なるものであったのだろうか。そして三月には、比叡山の反対をよそに、高倉上皇を連れて厳島御幸を決行する。帰還の後四月には正式に安徳天皇が位についた。

 その安徳天皇に比べ、平家から冷遇されている後白河法皇の第二皇子、以仁王は三〇になってもはかばかしい動きは無く、不遇をかこっていたのであるが、そこにある人物が反乱計画を持ちかける。源頼政であった。頼政は各地に根をおろす源氏の多勢を説き、反平家の旗揚げを促したのである。当初は躊躇していた以仁王であったが、頼政の説得や藤原伊長の人相見により計画に賛同、熊野に潜む源行家を家人として、各地の源氏に反乱の令旨を遣わすことにしたのである。

 そうとも知らないで軟禁されていた法皇のもとで、五月、イタチが騒ぎまわる事件がおきた。これを陰陽師安倍泰親は幸福と不幸の前兆と捉えたが、かくして様子を聞いた清盛がようやく考え直して、法皇は軟禁を解かれたのであるが、他方で聞こえてきたのは以仁王反乱のうわさであった。反乱計画が露見し、追捕の軍勢が押し寄せる以仁王の屋敷、臣下の長谷部信連が一計で以仁王は女装してこの場を逃れる。信連は屋敷を守り追捕の軍勢に斬りかかるが多勢に無勢捕縛され連行され、その剛肝さゆえ死一等を減ぜられ流罪となった。以仁王の方はなれぬ歩行に足を血で染めながら三井寺に駆け込む。翌日事件が京中に知れ渡り、みな、泰親の占いが当たった事を理解したのである。

 頼政がこんな反乱を決意した背景には清盛の次男宗盛の横暴が背景にあった。頼政の息子仲綱が名馬を所有している噂を聞いた宗盛は、早速名馬を提供するように使いを出したが、仲綱に余りに渋られたのでやっとのことで献上されたその馬に「仲綱」と名づけて焼印を施して馬鹿にしたのである。それに比べて亡き重盛の方は、御所に忍び込んだ蛇を仲綱が処理した褒美に名馬を与えたので大変好対照である。

 頼政らは自分の屋敷に火をかけて三井寺へと向った。郎等の渡辺競は宗盛にも仕えている者であったので、宗盛のもとに行き、頼政捕縛の為にと馬を請い、まんまと名馬を賜る。そのまま三井寺に参上し、宗盛の名馬のたてがみを剃りあげて「宗盛入道」と金焼きして宗盛のもとに馬を帰したのである。宗盛は怒り心頭に達したがどうにも成らなかった。

 以仁王と頼政に加勢することになった三井寺の大衆たちは、僉議の上比叡山と興福寺に助成を願うべく手紙を書いたのだが、比叡山はその内容に腹を立て返事もよこさなかった。そればかりか清盛の援助物資をありがたく頂戴していたのである。興福寺の方は加勢の旨を述べた返事をよこしたものの未だその軍勢は現れる気配が無かった。その為善後策を練るべく僉議が催されたのだが、急進派の慶秀と実は平家と通じている真海と対立。真海は時を稼ごうとしたのだが、慶秀の雄弁に圧されてとうとう発向が決定した。しかし、長らくの僉議の為、すでに夜が明けようとしている。これでは仲綱が計画した夜討ちは叶わないとして、僉議を延ばした真海を追放して、結局三井寺から興福寺に向うことになったのであった。

 しかし、以仁王は慣れぬ乗馬に落馬の連続で宇治平等院にて一旦休憩することとなったが、そこに宇治川の向こうから平家の軍勢が駆けつける。頼政の軍勢もこれに応戦、競を始めとした渡辺党や慶秀の弟子一来が橋の上で防戦に努め、平家の軍勢はなかなか宇治川を越えることが出来ない。そこで侍大将の藤原忠清が迂回を提案したが、頼政の勢が興福寺に入ったら厄介なことになると思った足利忠綱は渡河を強行し東国勢は見事対岸に至った。

 東国勢の渡河の様子を見た総大将平知盛は全軍に渡河を命じるが東国勢に比べて伊勢伊賀の平家の侍は次々とおぼれてゆく。それでも渡河した連中が平等院を攻めあげ、頼政は混乱のさなか以仁王を興福寺へ遣って防戦するも、長男仲綱、次男兼綱も死亡したなか、郎等渡辺党の唱を介錯に七〇の命を散らしたのである。橋の上で活躍した競の方も生け捕りにされるべく攻め立てられたが、宇治川に飛び込んで得意の水練に物を言わせて逃亡に成功した。

 一方、奈良の興福寺へと逃亡するのを感知した藤原景家は追跡を開始し、三〇騎ばかりに守られた以仁王を補足した。そこに誰が射たかは判らぬが以仁王の脇腹に矢が刺さり落馬、やがて首をとられてしまったのである。興福寺の大衆達は以仁王を迎えるべく木津のあたりまで迎えに上がっていたが、事の次第を聞いて泣く泣く戻っていったのである。 こうして宇治川の戦いが終わり、平家の軍勢は五百の首を掲げて凱旋したのだが、その中に頼政の首は無かった。唱がその首を宇治川深く沈めたからである。それに対して大路に掲げられた以仁王の首を見た関係者は悲嘆に暮れる。以仁王は多くの女房を持ち、皇子もいたので、清盛は連行するように命じるが、皇子をいとおしく思った宗盛によって死罪は免れ、皇子は仁和寺の僧となることになった。また、奈良にも皇子がいたがこれも出家させられることになった。この宮は後に木曽義仲が政権を握ったときに傀儡として利用されることになる。

 平安時代の通教という人相見は人相見の専門ではなかったものの、外れることは無かったが、この度の以仁王の反乱の失敗は藤原伊信の占いが外れてしまったのであろうか、たとえそうだとしても、過去の分別のある皇子はたとえ不遇であっても身の処し方を誤る事は無かったのである。

 また、頼政は、親類を見捨てながらも保元・平治の乱を生き抜き、老体でありながらも三位まで上り詰めた人物であった。しかも、和歌の道にも優れ、武の道においても、宮中に跳梁する鵺という化け物を退治した人物である。そんな人物にも関わらずつまらぬ反乱を企てて以仁王諸共、身を滅ぼしてしまったことはなんとも情けないことである。

 そして、五月の末、反乱に荷担した三井寺も焼討ちの憂き目に遭ったのである。人々はこのような天下の乱れは平家の世が末になってきたことの現れではないかと噂し合った。



【巻五】
[都遷…月見…物怪之沙汰…大庭早馬…朝敵揃…咸陽宮…文覚荒行…勧進帳…文覚被流…福原院宣…富士川…五節之沙汰…都帰…奈良炎上]

 六月に移り、福原(神戸)遷都の噂が現実的となった。天皇ばかりではなく、折角鳥羽の軟禁から解かれた後白河法皇も先の以仁王の反乱により再び監禁の憂き目を見るに至る。平家の悪行は此処に極まったのであるが、実際、遷都というのは過去を振り返るに数十回行われている。ところが桓武天皇が将軍塚を設置し、平安京を定めてからと言うもの、喩え天皇と雖も遷すこと能わざるに、かかる所業をなした平家は末恐ろしいものである。

 旧都の京の都は荒れ放題、かといって新都の整備は未だ進捗はかばかしくなく、清盛は大金持ちの藤原邦綱に命じて内裏の造営が行われたが、大嘗会などの大事な行事を差し置いてどうして相応しいものが出来るのだろか。

 そんな中、徳大寺実定は密かに福原から京に帰り妹の邸を訪ねる。彼の妹は例の近衛・二条両天皇の皇后となった人物であるが、この時琵琶を弾いてその様子は源氏物語の一節を想起させるものであった。そこに待よひという女房が参上し、実定は古き都を偲んで和歌や今様を詠じたのであった。

 更に新都福原では奇怪な現象が横行した。怪物や天狗の跳梁や清盛の目前での髑髏塚の出現。そして東国からの名馬の尾に鼠が住み着き一晩で子供を成したこと。これには流石に清盛は恐れを成して陰陽師に占わせてみると謹むべきとの結果が出た。日本書記においてもこのような現象が起こった時には反乱が起きるとの旨が書かれているのである。

 そういえば源雅頼の侍が見たという夢も奇怪であった。かの夢は、平家に味方する厳島大明神が追い立てられ、将軍として天皇から授かる刀を八幡大菩薩が源頼朝に与える。そして春日大明神がその次に、と乞う夢であった。この夢の噂は人々に波紋を呼び、様々な解釈がなされたのであった。


 そして九月二日。東国の大庭景親から頼朝反乱の知らせが入ったのである。新都造営の騒ぎは何処へやら。都じゅうが騒ぎと噂で持ちきりとなった。頼朝挙兵は何かの間違いであるとかいう者も居たが、大方は天下の大事が起こるとの見方である。そんな中清盛の怒りは頂点に達した。それというのも、平治の乱で死罪にするつもりであったのに、義母の宥めで流罪に和らげてあげた頼朝が、その恩を忘れて反乱を起こしたと思ったからである。

 大体朝敵と呼ばれる者は過去に数多居たが素懐を遂げる者は一人もいない。しかし、このような末世に至って、王の威厳も地に落ち宣旨の威力もかつての程ではなくなった今、頼朝の反乱はどうなるのであろうか。あの傲慢な秦の始皇帝であっても、燕の丹太子が企んだ暗殺計画は失敗に終わった。この事例を持ち出して頼朝の反乱もかくの如くになるとの予想をした者もいた。

 伊豆で流人の暮らしをしていた頼朝のに反乱を持ちかけたのは文覚という僧であった。文覚は渡辺(大阪)の侍であったが十九にして出家し、各地を廻り、毒虫の中に七日余り居るなどという激しい修行を重ねた人物である。なかでも厳冬の那智の滝に二十一日間打たれる修行の程は凄まじいものであった。仮死状態になった文覚を不動明王の使いである童子が助けても、それでもまた滝に打たれ、とうとう結願したというのである。

 文覚はその後も日本全国の山岳修行の道場を巡り修行を続けたのだが、ある時、京都の北、高雄の神護寺の荒廃を目の当たりにした時、再興を決意して勧進してまわることになったのだが、いかなることも憚らない文覚は後白河法皇の住居である法住寺にもずかずかと押し込み、宴会の最中にも拘わらず手にした勧進帳を大声で読み上げて宴会をぶちこわしにしたのである。しかも取り押さえに来た警護の武士達を逆にやりこめる始末であった。やっとのことで取り押さえられ獄に繋がれた文覚であるが、恩赦を受けて解放された後も悪口を吐くことをやめず、とうとう伊豆に流罪と相成ったのであるが、その行程にても、護送の検非違使を馬鹿にし、津から乗船後嵐に遭った時も大声で龍神を叱りつけ海を穏やかにさせたという有様であった。しかも驚くことに乗船中三十日間一食も取らず、それでいて血色も変わらなかったのである。

 こうして配流先の伊豆にて頼朝と文覚は対面するに至るのであるが、文覚の反乱の催促対する頼朝の躊躇に、文覚は頼朝の父義朝の髑髏と称するものを取り出し決意を促す。それでも勅勘に身を理由に、まだ躊躇する頼朝に対し、文覚は福原まで三日の早さで登り、つてを使って後白河法皇の院宣を取り付けることに成功。此処において頼朝の反乱の決意は固いものとなったのである。

 この頼朝反乱の知らせを受けて二週間余り後、早速追討軍が組織された。平維盛を大将軍に都合三万騎。副将軍である平忠度は年頃通っていた女房との別れを惜しんでの出陣である。福原の都では三月の厳島御幸が以仁王の反乱を鎮めたとのことから再び高倉上皇をかついで厳島に行幸した。

 その中で追討軍は道中国々から集まる兵を併せて七万にもなった。維盛はこのまま足柄の関を越えて関東まで攻め上ろうと考えたが、清盛直々に軍の監督を命ぜられた藤原忠清の進言により富士川の辺りで小休止する事となった。

 そうしている内に頼朝の軍勢は足柄山を越えて駿河の国に入ってきた。その軍勢が二十万と言うことを知った忠清は、自分の進言の誤りを後悔したがどうしようもなかった。更に、東国の侍に詳しい斉藤実盛の東国の侍の勇猛果敢さを語りに西国出身の平家の侍達は震え上がったのである。

 源平両軍は富士川を挟んで対峙したまま一月が過ぎ、十月も半ばを過ぎた二十四日に開戦となった。その前夜、源氏の焚く篝火の多さに震えるなか、どうしたことか、水鳥の大群が一斉に飛び立つ。平家の軍勢はこれを源氏の来襲であり、きっとあの大軍に囲まれるに違いないと思い、その心理は軍を瓦解させるに十分であった。あっさりした勝利に対して頼朝は八幡大菩薩のご加護と理解し、東国に引き上げていった。平家相手にしていた遊女達は平家の腰抜けぶりを和歌で散々に歌い上げたのであった。

 十一月に入って平家の敗軍は福原に帰還する。清盛は維盛に対し激怒し、誤った進言をした忠清に対して評定が行われたが、かつての功績を鑑みて罪には問われなかった。それどころか維盛は報償として出世したのである。これには皆疑問を抱いたが、かつて平将門の乱の鎮圧後、後発の為戦に参加できなかった藤原忠文と清原滋藤も報償を与えるかどうか問題になったとき、藤原師輔は賛成したものの、藤原実頼がの反対した為、忠文は実頼を恨んで餓死すると言うことがあった。そのおかげで実頼の子孫は絶えて、弟の師輔の方に実権が移ったのである。

 さて、この十一月には福原の内裏が完成し、大嘗会が行われる予定であったが、福原の内裏ははかばかしい設備もなく、結句元の京の都で、大幅に縮小された形で決行されただけであった。

 十二月に入り潮風が吹き付ける福原の気候に高倉天皇の具合が悪くなり、結局京の都に戻ることになった。この物憂い福原に誰が残るであろうか、人々は一斉にこの福原を引き上げたのである。このような無残な結果に終わった福原遷都であったが清盛の算段には、度々政治を妨害する比叡山や興福寺の連中の影響を逃れることができるという事があったのである。

 この月の終わりには近江の源氏が蜂起する。対して平家は平知盛、忠度を総大将に二万騎を以て討伐に向った。今度は平家が勝利を収め、そのまま、美濃、尾張へと進軍していった。

 また、都では、先の以仁王の乱に加勢したとして三井寺に次いで興福寺をも攻めるべき噂が登った。これに興福寺の大衆たち抗議してきたのに対し、摂政藤原基通は状況を収めるべく使者を派遣するが、大衆たちは余計に騒いで、藤原氏の学問所であった勧学院の雑用のもとどりを切ったり、ギッチョウの鞠を清盛の首と名付けてはやし立てた。言葉を慎まないのは禍の元であるが、天皇の親戚である清盛をこのように罵倒したというのは天魔の所為としか言いようがない。

 さっそく、瀬尾兼康率いる五百の警備兵が非武装で奈良に入ったが、大衆はそれの首を取り猿沢の池に並べ立てるという行動に出たのである。

 これには清盛も腹を立て、平重衡を大将軍に四万の兵が奈良に向かう。防戦するは興福寺大衆七千人、興福寺の北、奈良坂と般若寺に陣を構える。騎射攻勢に出る平家の軍勢に対し、悪僧坂永覚が奮闘するも空しく敗退、大衆たちは南を指して逃げて行く。戦いは夜陰に及び、平家の軍は燈火の為に近隣の家に火を付ける。老人や子供、女性は南の大仏殿の二階に逃げ込み軍勢を入れまいと階段を引いてしまった。そこに追ってきたのが風向きが変わって伽藍の方に移ってきた先の火。大仏殿の中は地獄のようであった。こうして東大寺の大仏をはじめ藤原氏の氏寺である興福寺も焼け落ち、みな伽藍までも焼いてしまった所業に嘆いていたが、一人清盛だけは喜んでいた。その昔、聖武天皇は寺の運命と天下の運命は一体であると言ったが、そうであったら天下が衰えることは疑いがないだろう。

 こうして憂きことばかりが続いた治承四年が暮れ、五年へと突入するのであった。



【巻六】
[新院崩御…紅葉…葵前…小督…廻文…飛脚到来…入道死去…築嶋…慈心房…祇園女御…墨俣合戦…嗄声…横田河原合戦]


 明くる治承五年の正月は興福寺炎上もあいまって、誠にさびしいものであった。興福寺を始め奈良の僧達は公職を停止されたのだが、いつも奈良の僧の役目である御斉会の法会の結構の問題が起きたが、外の僧が代わりをすることにいかなく勘修寺に難を逃れた奈良の学僧を召し出して行ったのであった。

 高倉上皇は法皇の軟禁、以仁王の叛乱、福原遷都という天下の乱れにより調子を逸ているところにかかる奈良の悲劇が起こり、その病は一層重くなって行き、十五日、遂に崩御となった。

 高倉上皇はまことに優美で優しい方であった。紅葉の季節、小役人が誤って紅葉が敷き詰めるところを朝の掃除で掃き清めてしまい、周囲は逆鱗に触れるだろうと思っていたところ、上皇はこの様子に『和漢朗詠集』の詩を想起され、怒るどころか誉めたのである。 また、寒さが厳しい夜更けに、盗賊に主人の着物を奪われて路頭に迷っている母娘に対て憐れみ、衣を与えたた上、主人の家まで警護の兵をつけて送って遣ったことも有った なかでも、情趣が深かったことには、高倉天皇の中宮、後の建礼門院お付の女房が召し使っている葵の前という女童が、たまたま上皇の目にとまることがあり、上皇はこの女童を大変寵愛したのであるが、噂が立ってしまい、その後は会うことも控えてしまったのである。そして憂鬱な日々を送っている中、当時の関白藤原基房がかの女童を自分の養女とする案を持ちかけたが、上皇は後代の謗りを恐れて断ったのである。それでも忘れられない上皇は、歌に託して女童に送ったところ彼女はこれを見て五六日して亡くなってしまう。

 この寂しさを紛らわせるため、上皇は琴の名人との美人小督殿という女房を求めたのであるが、この小督殿、藤原隆房と付き合っており、板ばさみの状態となっていた。そこに清盛が自分の娘で、中宮の建礼門院を差し置いてかかる女房に寵愛を移す事を怒り、小督殿を殺そうとしたのであるが、これを知った小督殿内裏を退出し行方知れずとなった。歎き悲しむ上皇は源仲国に命じて小督殿の行方を捜索させる。仲国は小督殿が嵯峨に隠棲しているとの噂を聞きつけ、琴の音を頼りに見つけ出し何とかして内裏に連れもどす。こうして小督殿と上皇の間に姫宮が生まれた。それを聞いた清盛は小督殿を強引に尼にしてしまう。このような事に加え、天下の乱れが病の種となって崩御に至ったのである。

 高倉上皇の崩御で、父後白河法皇は嘆きの連続であった。第一皇子二条天皇と孫六条天皇を亡くし、最愛の建春門院も亡くし、去年は第二皇子の以仁王が討たれたうえ、今度の崩御である。清盛は流石に今までの振る舞いを振り返り、法皇の慰めにと、清盛と厳島の巫女との間の娘を差し上げたが、人々は上皇が亡くなって間もないのにけしからんことだと言い合ったのである。


 さて、その頃、信濃国に木曽義仲という源氏がいた。保元の乱で親を亡くし、信濃の木曽兼遠がこれを育て上げたのであったが、まこと力が強く武術に長けていた。先の頼朝の挙兵に触発されて兵を上げ、信濃国中に文を巡らし、味方を増やしていった。

 頼朝に続いて、都にそう遠くない木曽という地にての叛乱は平家を驚かせ、清盛は二月に入り、越後の城助長を越後守にして討伐に向わせる。ところが九日には河内石川の源氏の者達が頼朝と気脈を通じ関東に落ち延びようとした。そこで源季定ら三千の兵を以ってこれを鎮圧する。と、そこに十二日には九州より緒方三郎、臼杵、戸次、松浦党までもが叛乱を起したとの飛脚が到来、更に十六日には河野通清が叛乱を起して鎮圧されたが、息子河野通信が雪辱を果たし、四国中が河野氏の元、平家に反旗を翻したとの知らせが舞い込んできた。熊野の別当湛増も平家を見限ったとの噂が広まる。このように日本国中に叛乱の火の手が上がったことを平家のみならず心のある人は悲しんだ。

 二十三日には平宗盛を大将軍に東国の征討軍が組織されたのであるが、そんな矢先二十七、清盛の身体に異変が起きた。体中が熱くなり、水をかけた瞬間から火となって燃え上がる具合である。そんな中で清盛の妻二位殿は大仏を焼いた罪で地獄から迎いの使いが来た夢を見て驚き、財宝を擲って祈ったのだが効果は無く、頼朝の首を孝養とせよと遺言した後翌月閏二月の四日、遂に熱病で死んでしまった。日頃の悪行が獄卒となって迎えに来たのだろうか。かかる栄華を誇った清盛も摂津国経の島の浜の砂と化してしまったのである。

 この清盛の葬送には異変が多く発生した。清盛の住居西八条殿が不審火で出火したのである。加えて屋敷の南では二三十人で舞い踊り騒ぎ立てる事件がおきた。天狗の所為かとも思われたこの事件、結局は法皇の留守を預かる者達の酔い騒ぎであることがわかったのだが、平家の一族はこれより後は戦いの日々が続いたので、果果しい仏事も出来ずにいることになる。

 とはいえ、清盛は一方で信仰深い人であり、各地の神社仏閣に寄進を欠かさぬ人であった。また摂津に経の島を築き、船の往来を安らかにしたのだが、これは当初人柱を立てる予定であったのを清盛が哀れんでお経を代わりにした島であった。

 古老が言うには、清盛は悪人と思われるが実は比叡山の高僧慈恵僧正の再誕であった。その訳は摂津国清澄寺に住む僧が、閻魔庁の招きで地獄に法華供養をしに言ったのであるが、そこで清盛が神戸の和田岬で仏道修行者達をもてなしているとの旨を述べると閻魔大王は清盛が慈恵の再誕であるからとのことを述べたからである。

 また清盛は白河天皇の落胤でもあった。その訳は清盛の父忠盛が宮中の化け物の正体を見破った際、白河院の寵愛を受けていた祇園女御という女房を賜ったのだが、その時既に孕んでおり、その子が清盛であったからである。

 二十日にはその清盛と縁が深かった藤原邦綱が死去する。邦綱は文章生に及第した後、蔵人所の下働きをしていたのだが、近衛天皇の時、才覚を現して出世の糸口を掴んだ人物で、清盛のことを親友とし、経済的援助に加えて一人の息子を清盛の養子としたのである。それに加え邦綱は詩文の造詣も深かった。また、中納言どまりであろうと予測していたのを、母の祈りによって大納言まで昇進したという経緯もあった人物である。

 二十二日、法皇はもとの住居法住寺に戻ることが出来た。

 翌月三月一日は公職を停止されていた奈良の僧達が赦され、霊夢により藤原行隆が大仏再建の奉行となった。ところが十日には東国の源氏が尾張国まで迫ったことを飛脚が告げる、すぐに平知盛らを大将として三万騎なる征討軍が組織され木曽川を挟んで対峙。十六日から十七日にかけて、源行家を中心とした都合六千の軍勢との戦いが始まった。

 渡河してきた源氏に平家は弓を散々に射、源氏は総崩れとなったのである。やっとのことで逃げ出した行家は三河国矢矧川にて再起を図るが、これも平家によって破られてしまう。ところが、そのまま攻めつづければ東海地方の武士達も味方につくというのに大将の知盛は病気になって帰京してしまった。平家は源氏の第一陣を破ったものの残りを平らげることをせず、結果出陣の効果もたいしたことにならなかったのである。

 一昨年の重盛、今年の清盛と中心人物を失い、衰微が決定的となった平家に付く人は無く、東国は草木もみな源氏になびく有様であった。

 そうして六月の半ば、木曽義仲追討軍として越後守に任命された城助長が三万騎を率いて出陣しようとしたとき、身の毛もよだつ声で、仏敵である平家に味方するものを呪詛する音声が聞こえてきた。周囲のものは出陣を諌めたが助長は強行したところ、黒雲が助長の上に取り巻いて落馬し、六時間後に死亡した。これには平家の人々も大騒ぎである。

 七月に入り十四日、治承から養和に改元された。当日、平貞能が九州の征討軍として発向した。また、改元に伴い、一昨年清盛が流罪にした公卿たちが恩赦となって帰京した。音曲に長けた妙音院師長は早速後白河法皇に召されて今様を披露したのであった。

 八月九月と将門・純友の乱より続く調伏の儀式を執り行ったがスムーズに行われない。それどころか、平家調伏の僧まで現れる次第である。

 こうして、十二月も暮れの二十四日、故高倉天皇中宮に建礼門院の院号が下されて、養和二年となってゆくのであった。

 この年は二月に天文の異変が起き、三月には除目で平家の人々が出世と進んだが、四月に法皇が比叡山の麓日吉社に赴いたのは、比叡山に平家追討の宣旨を出す為とのの噂が立ち、平重衡を始めとして三千の軍勢が法皇を迎え取る。結局根も葉もない噂であった。また四月臨時に全国二十二社対して官幣使が派遣された。これは飢饉と疫病のためである。

 その結果五月二十四日には改元があって、寿永となった。この日、越後の城助茂は兄の急死を恐れて辞退したものの、結局拒否できず越後守に任命される。助茂は長茂改名する。

 九月には助茂改め長茂は越後、出羽、会津の兵四万を率いて木曽追討に信濃国に発向する千曲川のほとり横田河原にて迎え撃つは木曽の三千騎。劣勢ながら木曽方は一計を巡らせて勝利を収める。そんなことを物ともせず十六日、都では宗盛が大納言に再任、十月三日には内大臣と成った。

 こうして、この年は暮れ行き、寿永も二年となったのであるが、この年の二月には宗盛は前年就任した内大臣の職に辞表を提出した。兵乱の責任による謹慎との事である。

 比叡山も奈良も、熊野も金峰山も、伊勢の神官までもが平家を背き、源氏に味方している有様で、幾ら宣旨を出しても、みな平家が一枚噛んでいると知っているので、これに従うものなどいないのであった。


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