官兵衛に指示秀吉の文書 長浜城歴博が発見
- 秀吉が賤ケ岳合戦の戦い方を指示した文書
豊臣秀吉の天下統一の足掛かりとなった賤ケ岳合戦(1583年)で、秀吉が部下の黒田官兵衛らに戦い方を具体的に指示した文書が初めて見つかったと長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。同博物館は「秀吉の戦略が垣間見られ、貴重」としている。
■賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け
長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。
自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命じている。同博物館が京都市内の古美術商から購入した。
賤ケ岳合戦は長浜市北部の余呉湖周辺で展開され、秀吉が同じ織田信長家臣の柴田勝家を破って天下人へ踏み出した戦い。秀吉の7人の部下「七本槍(やり)」の活躍で知られる。
これまで合戦の内容を直接示す文書はなかった。同博物館は「小屋撤去の意図が攻撃のためか挑発かは不明だが、秀吉の具体的な考えが見られる」と評価する。また、合戦に官兵衛が参加したことが分かる点も貴重という。
戦国史に詳しい小和田哲男静岡大名誉教授は「江戸時代の軍記物でしか知られていなかった砦の存在が史料で裏付けされ、官兵衛の参戦が確実となった点に価値がある」と話している。
11日から同博物館で公開する。
(京都新聞 2013.5.11)
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