城郭探訪

yamaziro

多喜北城 近江国(甲賀)

2015年05月08日 | 丘陵城

主郭に、後世の「炭窯」が残る城

滋賀県城郭分布調査報告10(平成4年)には、確認さていない。

甲賀市史7巻で多喜北城は「多喜城に変更され」、新たに200m南西に「多喜北城」。

登城口に滋賀県教育員会の

主郭虎口へ

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧:甲賀郡)甲賀町滝字滝迫    map:http://yahoo.jp/AXtXuW

区 分:丘陵城

現 状:山林

築城年:鎌倉中期(1280年)頃

築城者:多喜彦太郎家継

遺 構 :土塁、堀切、竪堀、櫓台、虎口

標 高:230m    比高:30m

目標地:中出組集会所 

駐車場:多喜北城への農道http://yahoo.jp/k0r7rh

訪城日:2015.5.8

 http://yahoo.jp/k0r7rh獣害フェンスを入り30m先倒木を右に登り口

主郭は方形土塁で囲う 

主郭の北側虎口 解りにくいが炭窯

お城の概要

多喜北城・・・・は、甲賀町滝の南方、多喜城の南西200m・梅垣城の南東200mにあり、丘陵から北に張出す尾根先端部に築かれている。

南東に続く尾根筋を主郭から70m程離れた所の小さな丘を越えた鞍部に堀切を設け遮断しているが、堀切から主郭南東隅までの尾根筋はほぼ自然地形で、主郭南東隅を占める丘を土塁と一体化させ一段高い東西7m、南北4mの平場を持つ櫓台とし、また、南西隅から竪堀を落として、背後への備えとしている。

主郭は、東西25m、南北20m程で四周に土塁がめぐり、東と南面が分厚く高くなっている。

北面の東端に虎口が開口しており、20m下方の尾根先端へと通路を下ると東西25m、南北20m程の腰郭に至る。

腰郭の中央部には、東西で段差があり、二段築成となっている。山麓へは腰郭の北東隅から南東へと下っていく。

歴 史

多喜北城・・・・の城主は、多喜氏と伝わるが、詳細は不明である。

鎌倉中期(1280年)頃、多喜彦太郎家継が築城したといわれる。家継が多喜氏の祖で、多喜氏は伴四党(大原氏・上野氏・伴氏・多喜氏)の一つといわれる。

多喜氏は、伴四党(大原、上野、伴、多喜)とともに、鎌倉-室町時代に甲賀東部に勢力を持った大伴姓富永一族で、伴家継(多喜彦太郎)が祖とされる。

多喜勘八俊兼は、室町幕府による六角征伐である長享の乱(1487)で六角方として戦功をあげ、甲賀五十三家の一家に数えられる家である。

多喜家一族の著名な人物として、山岡道阿弥や中村一氏(水口岡山城初代城主)などの大名がいる。

甲賀市甲賀町滝には、弘安7年(1284)に多喜彦太郎家継によって築かれたと伝わる多喜城には、五つの支城(多喜北城、多喜南城、梅垣城、青木城(東城・西城))があり、多喜城が戦国時代の本城と云われている。

<甲賀二十一家>の一つ

 山中家 伴家 美濃部家 黒川家 頓宮家 大野家 岩室家 茶川家 隠岐家 佐治家 神保家 大河原家 大原家 和田家 上野家 高嶺家 池田家 多喜(滝)家 鵜飼家 内貴家 服部家 

多喜俊兼は長享の乱(1487年)で武勇をあげ、叔父の由旭は油日神社の再建運動の指揮をとった人物という。

滋賀県城郭分布調査報告10(平成4年)には、確認さていない。

    甲賀市史7巻で「多喜北城は多喜城に変更」、新たに南西200mに「多喜北城」。

多喜北城(梅垣城・・東200m遠望) 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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