城郭探訪

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楢崎氏館   近江国(多賀)

2017年11月07日 | 居館
お城のデータ
所在地:犬上郡多賀町楢崎 map:http://yahoo.jp/fYrh5J
現 状:圃場・宅地
区 分:居館
遺 構:唯一の土塁の中の祠
築城期:室町期
築城者:楢崎氏
廃城者:織田信長
目標地:高源寺
駐車場:高源寺駐車場3台
訪城日:2013.7.13

お城の概要
平成8年度には、多賀町教育委員会により発掘調査が行われ、室町~戦国時代の館跡が発見されている。
  発掘調査で発見された楢崎氏館跡は、高源寺の北側(山裾の微高地)に位置し、背後に山がひかえ、前面は幅2.4m、深さ1.2mの堀をめぐらし、堀の内側を板塀や柵列などで囲い、そのなかに井戸や建物が存在していた。さらに屋敷地の中には池状遺構(庭園?)や墓地も発見され、軍事的機能だけでなく生活空間も伴っていた。
 楢崎氏館の近くに正楽寺集落には、京極道誉が拠点とした山城の勝楽寺城や館があり、この地は犬上川扇状地の要に位置し、軍事拠点として重要な地域であったことが窺える。
 なお、楢崎氏館に詰城は、高源寺の背後の犬上川に突き出した、山腹に現存する。

 お城の歴史
楢崎氏は観音寺城の繖山の三角点近くに山上屋敷がある。
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「犬上郡 楢崎城主 住 佐々木旗頭 〇楢崎内蔵介 同 楢崎太郎左衛門弼高」の名を記す。 
 樽崎氏は、楢崎を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にも記されている。
永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。
 
門前の石積み
左は土塁が一部残って!土塁の中に祠が!
 
楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺(現:高源寺)
 
佐和山城の切通し口の門を移築
 
宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。
 永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。

楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺(現:高源寺)
高源寺の総門は、石田三成の居城であった佐和山城の裏門(切通し口の門)を移したものと云われ、また、宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。

参考資料:多賀町発掘調査報告書、『江州佐々木南北諸氏帳』、高源寺HP
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