城郭探訪

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近江 旗本札

2016年02月15日 | 番外編

旗本札(はたもとさつ)は、

    江戸時代に知行地を持つ旗本が自領内において独自に発行した紙幣である。

近江国

近江国における旗本札発行旗本の特徴としては、交代寄合または寄合といった大身旗本が発行元となっている点が挙げられる。

高島郡朽木(現・滋賀県高島市朽木野尻)の朽木氏(交代寄合表御礼衆)は福知山藩朽木家の本家筋で、足利将軍家が有事の際にしばしば頼った名家である。

蒲生郡大森(現・東近江市大森町)の最上氏は、出羽国の名族で山形城主であった最上氏が御家騒動により減知のうえ転封し、のち更に減知により国主格のままで交代寄合表御礼衆となった。

神崎郡伊庭(現・東近江市伊庭町)の三枝氏は、甲斐国の名族で武田氏の重臣であった家である。

蒲生郡中山(現・蒲生郡日野町中山)の関氏は、伊勢国亀山城主や伯耆国黒坂城主を歴任した大名であったが、御家騒動により領地を没収され、養子が改めて旗本として取り立てられて成立した家である。

蒲生郡老蘇(現・近江八幡市安土町東老蘇)の根来氏は、紀伊国の根来寺に所属して豊臣秀吉の根来寺攻撃に抵抗し、のちに徳川家に属した成真院盛重の後裔である。

 近江国の旗本札の特徴としては、銀建て、銭建ての札で、紙幣として使用されることが前提のものでありながら、朽木氏の炭切手伊庭三枝氏の種切手中山関氏の豆切手老蘇根来氏の豆手形大森最上氏の茶切手というように、いずれも商品切手(商品券)の名目をとっている点がある。

近江国では、彦根藩、、膳所藩、水口藩、大溝藩など、江戸期に発行された同国諸藩の藩札も同様の特徴を有している場合が多い。

老蘇根来氏は、陣屋を構えていた老蘇のほかに、大和国宇智郡の知行地においても札面が類似した様式の紙幣を発行した。

参考資料:ウィキペディア

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新海道(杣海道)とも。

2016年02月15日 | 山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

杣街道(そまかいどう)は、江戸時代に滋賀県(近江国)甲賀郡に存在した街道。杣海道、新海道とも

歴史

杣川沿いのこのルートは近江朝時代の東海道で「倉歴(くらぶ)道」ともいう。壬申の乱後に一旦廃れたが、平安時代にも886年(仁和2年)に鈴鹿峠経由で関に至る「阿須波(あすは)越」に変更されるまで東海道として利用された。

その後も、湖南から伊賀に抜ける「伊賀道」として、伊勢参宮の間道として、山伏の道として、杣谷の人々にとっての主要道として重要な道であった。

 江戸時代に入って17世紀には三雲から東海道と分れて伊賀へ至る現在のルートの大要が確認でき、1742年(寛保2年)の資料には「杣海道」の名称が確認できる。現在のルートが整えられたのは明治20年代のことで、当時これを「新海道」と称した。1889年、沿線に関西鉄道が開通。1907年に国有化され、現在のJR草津線となっている。

経路

三雲(滋賀県湖南市三雲) → 三本柳(滋賀県甲賀市水口町) → 深川市場(甲賀市甲南町深川市場) → 寺庄(甲賀市甲南町寺庄) → 大原市場(甲賀市甲賀町大原市場) → 上野(甲賀市甲賀町上野) → 柘植(三重県伊賀市柘植町)<大和街道に合流> → 加太市場(亀山市) → 関(亀山市関地区)


今郷城(おばん城)    近江国(水口)

2016年02月15日 | 丘陵城

踏査図・・・中井 均氏

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)水口町今郷町 map:http://yahoo.jp/fMlJzn

目標地:丘陵下の新道・・御城山の土山マラソン標識・甲賀市土山 オー・デュ・プール

別 称:おばん城

区 分:丘城 

標 高:215m  比高差:10m 

現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀・土橋

築城期:室町期

築城者:嶬峨氏・大野氏か?

駐車場:丘陵にため池の手前に駐車可

訪城日:2016.2.3

中世城館 おばん城址(今郷城)

お城の概要

東海道土山宿と水口宿の中間【現在では、土山町と水口町の境】の丘陵、城はあった。丘陵の森の中に鉄塔が建つ、北から鉄塔で東に送電線がⅬ字敷かれている。この鉄塔が主郭に建つ!

 丘陵下の県道182号線添い。国道1号線と平行道、水口町今郷と土山町大野の境に丘陵に鉄塔が見えます。この鉄塔が主郭、貯水池の東側が城跡です。

地元の有志が整備しているが、東側の一部が未整備

甲賀郡今郷村地券総絵図(明治12年)今在家村と小里村が合併して今郷村に

お城の歴史

  • 近江興地史略(享保19年3月15日(1734))に、「今郷城 水口地帯となる。井戸、濠残る」とある。
  • 甲賀郡志・・大正15年(1926)6月10日に「城址 大野村大字今郷、大字大野元標より12町を距つる北方字「おばん」の高地にあり。東方なるは東西30間南北25間を有し築堤尚在し高1間半乃至り2間、南隅に2個の古井あり、雑草汚水の中に生じ深さ2尺余あり。北方に濠跡、1間半乃至2間を在す。また西方に方20間の城址あり出丸の如し。その西は断崖にして高さ18間余その下は即ち周濠にして今は耕地となる。南方は総て断崖を削るが如く濠跡は現時溝と相連り田用水となる。東跡は雑樹灌奔業生し西跡は開墾して畑地となす。」と記す。
  • 私たちの今郷・・・昭和55年(1980)9月 今郷の北のおばん、小字の名、姥が淵の高台に東西2地区に分かれて城址があって、東の方は面積二反、高さ2間の築堤がり、西方は一反の広さでありました。だれの城か不明です。元弘・建武(1331~1336)のころ、嶬峨氏の城か、または甲賀武士大野中務入道が永享年間(1429~1441)大野城へ移る前に住んでいた城とも言われています。
  •  甲賀市史【第七巻】甲賀の城(P475)に、188今郷城(今郷小字崩谷) 丘陵・曲廓・土塁・堀 良好 山林 「城址」(郡志)。今郷集落の北方丘陵上にあり。3方土塁で囲まれた方形城館・・・とある

 

現地解説の安土城考古博物館の細川学芸課長

鉄塔のヘンスの中にも土塁

未整備の空堀

中世の城館跡みつかる 城密集地、専門家驚き「まだあった」 産経新聞 2014.4.18

 中世(16世紀頃)の城館跡とみられる土塁や堀が、甲賀市水口町今郷(いまごう)の小高い山の中でみつかった。地元で郷土史の研究やまちおこしを手がけるグループ「今郷好日会」が発見し、方形の土塁などの特徴から、中世城郭に詳しい中井均・県立大人間文化学部教授は「今郷城」跡とみる。戦国時代の甲賀市域は全国屈指の城密集地域で、メンバーらは「地域活性化につながる観光資源として生かしたい」と話している。

 中世の近江国は1300の城があったとされる。このうち甲賀市では約200の城跡が確認され、今郷地区にも、中世の城館「今郷城」があったと言い伝えられるが、どこに誰が造ったかなどは分かっていない。推定地はあったが場所の特定には至っていない。

 このため、同会が昨年2月、推定地周辺の丘陵地を調べたところ、人工的に掘られた溝や土塁のようなものを発見した。

 そして今月3日、中井教授とともに現地を調査。この結果、高さ6メートルの土塁が1辺30メートルの長さで方形に巡らされ、その周囲には幅2~3メートルの堀が築かれていたことが分かった。一部は、送電線の鉄塔が建ち、破壊されていた。

 中井教授によると、方形に巡らされた土塁の形は「単郭方形」と呼ばれ、甲賀地域で多くみられる中世城館の構造。土塁の内側には、集落を治めた地侍(甲賀衆)らの居館が建ち、有事の際は住民を避難させる場所として使われたとみられる。

 中井教授は「市内の城館跡は調査し尽くされたと考えていたので、『まだあったのか』と驚いた。元々は集落を守るために築かれた城。今度は地域の人々の手で大切に守ってほしい」と話している。

 今郷好日会は、平成22年に今郷地区の住民らで結成。市の補助を受け、現在21人が史跡調査をはじめ、地区を通る旧東海道の案内板設置や景観美化などの活動を手がけている。今郷城跡についても、今後周辺の樹木を伐採したり案内板を設置したりして、観光スポットとして整備する。同会の福野憲二事務局長(59)は「地域の誇りとして史跡を守り、魅力発信に結びつけたい」と話している。

 

facebook【今郷好日会(いまごうこうじつかい)】に「緊急告知です!「おんば城(今郷城)見学会」 参加者募集中」1月16日
安土城考古博物館でのおんば城(今郷城)整備活動紹介パネルの展示を記念して来る2/14(日)城址の見学会と整備体験会を実施します。安土城考古博物館の学芸課長さまの解説もあります。興味をお持ちのみなさま是非ご一報ください。

今郷好日会(いまごうこうじつかい)さんの写真
 現地集合ですが駐車場は農免道路沿いの圃場の道路です。当日はスタッフが案内しますのでご安心ください。
甲賀市水口町今郷字山ノ中1663番で検索してください。
城跡は向いの丘陵地にあります。雨天の場合も現地見学と細川さまの解説はあります。また、豚汁のサービスもありますので是非ご参加ください。お待ちしております。
 

参考資料:甲賀郡志、甲賀市史(甲賀の城)、見学会レジュメ、今郷好日会(facebook)

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石田三成を知って!

2016年02月14日 | 武将

人情味ある三成を知って! 滋賀県が特設サイト

滋賀県が「石田三成の魅力を発信したい」と立ち上げたインターネットの特設サイト(大津市・県庁)

 冷酷な策士ではなく、真っすぐな人物だった-。滋賀県がこのほど、湖国ゆかりの戦国武将石田三成の魅力を知ってもらおうと、インターネットに特設サイトを立ち上げた。小説などでは悪人に描かれがちだったが、近年は人情味のある人物像へ光があたる。

 NHKの大河ドラマ「真田丸」でも活躍が期待されるなか、サイトでは人柄を表すエピソードや、県内のゆかりの地を紹介。県は「好機を捉え、魅力を発信したい。地域に残る逸話にこそ、本当の人物像がある」とする。

 三成は現在の長浜市出身で、豊臣秀吉を支えた側近として知られる。関ケ原の合戦では敗軍の将となり、江戸時代以降は悪役として冷酷なイメージが強調されたともいわれる。近年、人物像の再評価が進む一方、戦国武将を扱ったテレビゲームでは端正なマスクのキャラクターとして登場し、人気が出始めている。

 サイトでは、大阪城での茶会のエピソードなどを紹介。皮膚病を患っていた大谷吉継が飲んだ濃茶の茶わんでも、親友思いの三成が「のどが渇いて仕方ない」と一息で飲み干したという話や、実直な性格を示す逸話などを並べ、当時の人物相関図も載せている。

 県内では2014年に、長浜と米原、彦根の3市などが「三成会議」を発足。ゆかりの名所を巡る「三成タクシー」などを企画しており、県広報課は「今後、三成のように『補佐役』として取り組みをバックアップしたい」とする。

 3月にはサイトでオリジナル動画の公開を予定し、

3月5日には東京都内で「真田丸」で三成を演じる俳優山本耕史さんのトークショーを企画する。また、

3月26日には彦根市の県立大交流センターで「三成フェス」を開催、歴史学者の基調講演など多彩に催す。フェスは参加無料で、事前申し込みが必要。問い合わせは県広報課TEL077(528)3041。

資料:京都新聞


鳥羽上城 近江国(長浜)

2016年02月13日 | 陣城

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡山東町)菅江町~長浜市鳥羽上町 map:http://yahoo.jp/mJezEZ

目標地:新横山トンネル・八幡神社

区 分:陣城

標高:270m  ⑤比高:150m 

現 状:山林

遺 構:郭?・堀切?

築城期:室町期

目標地:新横山トンネル・八幡神社

駐車城:八幡神社の向かい空地 http://yahoo.jp/2LqNmC

訪城日:2016.2.11

お城の概要

 城域、城の状態がよくわかりませんが、。長浜側・山東側を同時に監視出来る要所、陣城には最適のようだ。

登り口から尾根まで登ると「切通し」のような箇所に出ます。

右手の尾根は崩落していて危険で、一騎駆けのような細尾根を超えると切り岸えを登ると平坦地に出るここが主郭。

左手を登って行くと平坦地があるんですが郭跡かは不明。この城は一時的な陣城として、堅固な構築物は無かったが。

お城の歴史

京極高延の家臣の荒尾三郎左衛門尉が六角氏の侵攻に備えて陣をはったとされるようです

切り通し

切通から主郭

長浜側

山東側

伊吹山

登り口に戻ります

旧トンネル登り口前のスペース

鳥羽上城・・・遠景(駐車位置から)

トンネル出口・・・長浜側

八幡神社の鳥居

駐車スペース http://yahoo.jp/2LqNmC

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

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佐和山城 近江国(彦根)

2016年02月13日 | 山城

鎌倉時代初期に「佐々木定綱の六男の佐保時綱」が築城、姉川の合戦時「磯野丹波守員昌・員昌父子」が城代として入城 

後に、1586年に「石田三成」がはいったが関ヶ原の戦いで落城。

翌年、「井伊直正」が入城したがすでに山城では城下の経営に不便なことから彦根築城により廃城

①本丸 ②本丸南東遺構 ③本丸北東遺構 ④二の丸 ⑤三の丸 ⑥美濃殿丸 
⑦八幡山遺構 ⑧太鼓丸 ⑨法華丸 ⑩西の丸 ⑪西の丸北西遺構 
⑫嶋左近屋敷 ⑬石田三成屋敷碑 ⑭石田三成屋敷 ⑮丸郭 ⑯奥ノ谷の出丸

所在地:彦根市鳥居本・佐和山町・古沢町 map:

別 称:佐保城

区 分:山城

築城期:鎌倉期 建久年間(1185-99)

築城者:佐保時綱

標 高:213m 比高差:145m

遺 構:曲輪跡・移築城門・掘

訪城日:2012.9.27・2016.2.13
【歴   史】
鎌倉時代に近江守護となった佐々木定綱の6男・佐保時綱が築いた。
戦国時代後期には湖南の佐々木六角氏、湖北の浅井氏が強い勢力をもっており、この佐和山城をめぐって激しい攻防を繰り返した。
寛正から応仁年間(1460-69)にかけて六角氏の武将である小川左近太夫が在城していたが、浅井氏の攻撃を受けて落城すると、浅井氏の家臣磯野員吉・員昌父子が城代として入城。元亀元年(1570)姉川の合戦で浅井氏が織田軍の敗れると、員昌は戦場より急いで佐和山城に帰り籠城。織田軍佐和山城は、交通の要衝に築かれた城で、鎌倉時代の建久年間に佐保時綱によって築かれたと云われている。

 室町時代には、観音寺城主佐々木(六角)定頼の持城となり、大永年間には重臣小川左右大輔を城主にしている。

 戦国時代になると、小谷城主浅井氏の持城となり、磯野昌吉・員昌が城将となり、元亀元年~天正10年にかけて織田信長と戦い、そしてついに開城した。 

 本能寺の変後、豊臣秀吉はこの城の立地条件から有力武将を城主に配置した。 天正11年に堀秀政が5万石で城主となり、天正13年に堀尾吉晴が城主となり近世城郭へと改修が始められた。

 天正18年、石田三成が194,000石(後に21万石)を領して城主となった。 三成は、改めて城と城下町の整備を行ったが、慶長5年の関ヶ原の合戦に敗れ、居城佐和山城も東軍に攻められ落城した。の重臣丹羽長秀に説得され8ヶ月後に開城。員昌は城から退去した。
天正10年(1582)信長が本能寺に倒れると羽柴秀吉が後継者となり、翌年掘秀政を入城させたが、’85年越前北ノ庄に移封され、坂本城の堀尾吉晴が封じられた。’90吉晴が浜松城へ移ると石田三成が入城した。三成は豊臣政権の奉行として、伏見や大坂に詰めていたので、領内の統治にあたっていたのは父正継であった。
慶長5年(1600)三成と徳川家康の間で「関ヶ原合戦」が起こり、三成は敗れて敗走。のちに捉えられ処刑される。佐和山城には徳川方の軍勢が押し寄せ、激戦の末落城した。
翌年、井伊直正が入城したがすでに山城では城下の経営に不便なことから彦根城を新たに築いた。このとき佐和山城の建物は取り壊され、彦根城の資材として使われたという。

 

 

宗安寺移築門        彦根市本町2丁目3-7 MAP

宗安寺の赤い山門が特徴的だが、これは佐和山城の表門を移築したとされている。

  京橋通りにある浄土宗の寺。佐和山城の正門を移築されたと伝えられています。大坂夏の陣で戦死した、豊臣家の忠臣として名高い木村長門守重成を偲んで、重成忌が行われます。
 井伊道政の正室東梅院の父母の菩提を弔うため上野国箕輪(みのわ)に建立された安国寺は、佐和山(232.5m)山麓へ移され、宗安寺と改名、その後彦根城築城のさい現在の地へ再度移転されました。元禄の大火で、「赤門(あかもん)」と呼ばれる朱塗りの佐和山城大手門を移築した表門が唯一焼け残り、現在の本堂は江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したものです。また、本尊の阿弥陀如来立像は、大坂夏の陣の時、淀君の念持仏(ねんじぶつ)と思われる仏像を持ち帰ったもので、鎌倉時代の作といわれています。その他、墓所には木村重成の首塚、唐人門、鐘楼、白砂に巨石を配した庭園があります。
 また、徳川の将軍が替わるごとに祝賀のため朝鮮国から来朝した朝鮮通信使節団高官の彦根での宿泊所であり、朝鮮王像が残されています。

 高源寺移築門        犬上郡多賀町楢崎374 

高源寺総門は、佐和山城の裏門を移築したものだとされている。門に敷居がない構造は馬に乗ったまま城内に出入りするための設計だと言われている。

 元は天台宗に属し、十福寺と呼ばれていましたが、戦国時代に廃寺となり江戸初期に再興され、天徳山高源寺とし、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っています。最盛期には書院三十坪、仏殿二十五坪、奥殿三十坪、禅堂三十二坪などを要する大寺院で、常に五十有余人が住した湖東における名刹でありました。しかし、明治九年の火災により石田三成の居城であった佐和山城の裏門を移したものである総門以外はすべて焼失しています。またこの寺には、幕末、開国論を実行するため主役を演じた大老井伊直弼と、それを助けた長野主膳、この悲劇の二人に献身して、二人の死後、六十八歳で死ぬまで、直弼主膳の菩提を弔い続けた村山たかの肖像画があります。

 

蓮成寺        彦根市栄町一丁目5-11 

日蓮宗蓮成寺は、開基は永禄2年(1559)で、慶長7年(1602)に佐和山城法華丸から移した寺であるといわれる。三成の念持仏といわれる鬼子母神像が安置されている。

妙立山蓮成寺が彦根城を望むこの地に建立されたのは1602年のことです。前身は石田三成公の居城佐和山城にありました。1559年、当時の城主磯崎丹波守員昌(かずまさ)が織田信長の命により法華丸を建立したのが始まりです。佐和山城主はその後、丹羽長秀、堀秀政、堀尾吉晴、石田三成と代わりましたが、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成公が敗れると、法華丸も廃寺となりました。しかし、彦根藩初代藩主(彦根城の築城までは佐和山城に居城)井伊直正公の命令により現在の地に蓮成寺として再建されました。蓮成寺はかっての彦根城外堀(昭和の初めに埋め立てられ現在は県道になっています。)を背に建てられました。蓮成寺の正面側には彦根藩の足軽屋敷が立ち並び彼らの檀那寺である蓮成寺とともにともに彦根城を守っていました。しかし1741年彦根城東中島(現在の馬場一丁目)から出火した火災により焼失しました。当寺に祀られている鬼子母神の信仰篤かった彦根藩主奥方より用材の寄進等があり1743年から1746年頃に再建立したものと考えられます。

 

妙源寺        彦根市河原三丁目4-32 

 

祖師堂

祖師堂
彦根藩八代藩主・井伊直定候が真如院の病気回復を礼に寄進されたもの。以前は旧本堂と廊下でつながっていた。

日蓮宗妙源寺は、蓮成寺と同じく佐和山城法華丸にあったと言われている。
門は佐和山城内にあった城門であったと伝わり、柱材には無数の矢穴痕と思われる跡が残る。
本堂は近年建て替えられたが、それ以前の本堂と庫裏は三成の佐和山御殿を移築したものとされていた。

日蓮宗妙源寺は文禄元年(1592)開基で、元禄年間(1688-1704)頃に佐和山よりこの地へ移転した。
三成ゆかりの寺院ということで、毎年石田家らの法要を行っているらしい。

 

龍潭寺   彦根市古沢町1104 

 

 井伊氏の始祖、藤原共保(ともやす)以来の井伊家の菩提寺で、奈良時代行基(ぎょうき)によって遠江国(現静岡県)井伊谷に開基された、臨済宗妙心寺派の寺院です。井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)が佐和山(232.5m)山麓に移築しました。近郊に多くの末寺をかかえ、学僧が学ぶ大道場でした。

 

参考HP:お城のとびら/滋賀県の城/もっと佐和山城

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鹿背山城跡 山城国(木津川)

2016年02月13日 | 山城

城の半鐘どこまで聞こえた? 京都・木津川で実験

ポール先端の発煙筒から煙を出して実施したのろしの実験。今年はのろしを合図に半鐘をつき、届く範囲を確かめる(昨年2月1日、木津川市鹿背山・鹿背山城跡)

中世の情報伝達を調べている京都府木津川市の市民グループ「木津の文化財と緑を守る会」が2月14日、同市鹿背山の鹿背山城跡から「半鐘」がどこまで聞こえるか実験する。「のろし」を上げた昨年の実験に続く第2弾で、小中学生に協力を求めている。

 昨年は、約9・5キロ離れた京田辺市まで、のろしが確認できた。一方、会員から「雨や風の日に緊急事態があったらどうするのだろう」とのろしへの疑問の声が上がり、半鐘実験が決まった。

 当日は午前9時から2回に分け、半鐘を鳴らす。音が届き4種類のリズムを聞き分けられるかどうか、城跡すぐ近くの木津小鹿背山分校や府立南山城支援学校(精華町)など約3キロ以内にある21カ所で確認する。

 このほかの地点で調べるため、同会は小4~中3を対象に実験参加者を募っている。岩井照芳会長(67)は「子どもに鹿背山城にも興味をもってほしい」と話す。希望者は岩井さん宅ファクス0774(72)0014へ連絡先や住所を書いて申し込む。

 同日午後1時半から木津川市役所で実験報告会や中井均・滋賀県立大教授の講演がある。

資料:京都新聞


尊野城 近江国(浅井)

2016年02月12日 | 平城

大日池(湧水池)

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町)尊野町  map:http://yahoo.jp/9XLOgP

現 状:集落、宅地、畑地

区 分:平城

遺 構:曲廓・堀・土塁

築城期:室町期

築城者:伊藤氏

標 高:105m    比高差:ー

城 域:50m×100m

目標地:日吉神社・法音寺

駐車場:日吉神社・バス停周辺空地

訪城日:2016.2.11

お城の概要

尊野集落全体が城址と言えるようです。小字「にしやしき」の東が伊藤氏の居館だったようだ。「やしき」と言う城郭地名が残っている。資料で集落の東端の方にL字に土塁が残っていたようだが、木も伐採し、土塁も破壊されたようた。比定地は、畑地となっている。

浅井町南西平野部に位置する大字尊野集落は、東の口、西の口といった小字名の地区が存在するとともに、北と西の水路は外を遮断する様相である。

 尊野集落は、集落全体が城域だったようだ。集落の中央部には、東西に蛇行する道路があり、尊野城の主要路であった可能性があり、”東の口”はそれを物語っている。

 長浜市文化財調査センターの尊野城遺跡第4次調査(尊野町)で、中世の土坑・須恵器・中世の土師器・磁器・瓦・柱の確認http://www.city.nagahama.shiga.jp/index.cfm/12,17453,c,html/189/009841-000001.pdf#search='%E5%B0%8A%E9%87%8E%E5%9F%8E'

 

法音寺:滋賀県長浜市尊野町149

 

 

お城の歴史

 『淡海国小間攫』には「浅井郡 尊野村 古此所ニ伊藤太兵衛ト伊藤小兵衛等ノ武士居住セリト云、宅地ノ跡残レリ」とし、『佐々木南北諸士帳』には、「尊野村、住、伊藤斎六、同 住 同太兵尉、同 住 同小兵尉」とあり、伊藤氏なる土豪が同字に居住していたことが記されている。

 

 

 

以前は、このような土塁が残っているようだ。(写真をクリックすると拡大します)

  

参考資料:滋賀県城郭分布調査、淡海の城、長浜市文化財調査センターの尊野城遺跡第4次調査(尊野町)

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平塚城(平塚館)   近江国(浅井)

2016年02月12日 | 平城

小谷城の裏門(移築門)

城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町)平塚町149 map:http://yahoo.jp/3v4-CD

別 称:平塚館

区 分:平城(居館)

現 状:寺院・神社・宅地・田畑

遺 構:郭・土塁・庭園・類似説明板

築城期:室町期

築城者:平塚左近助

標 高:107m 比高差:-

目標地:実宰院

駐車場:実宰院の門前

訪城日:2016.2.11

お城の概要

 平塚城はは集落全体は城域であったようだ。

集落の南端に曹洞宗実宰院が在る。この寺院はかって実才庵と呼ばれ天台宗に属していたが、後に”小谷山実宰院”と改め曹洞院宗に属した。

 現在は約60m×60mで三方に土塁が巡り館の構えを呈しているが、浅井氏とのかかわりをもつ寺院である。

一方、羽柴秀吉が城主になった折、当寺に与えられた50石の朱印状が残っている。山門は小谷城の裏門と言われ、当初の位置は現在よりも南にあり、そこまで土塁が伸びていたと思われる。 

 現在の本堂は徳川秀忠に嫁いだ「お依与(おごう)」(葵の紋)が再建したものである。

 平塚集落全体で見てみると、北西に鎮守の天神社が祀られ、実宰院が南に位置している。この社寺に囲まれた一区画(東西約120m、南北約80m)は、東・南・西を水路で遮断だれている。

この一画に、平塚左近助の末裔平塚家が位置するが、浅井久政から同氏への書状から推し、同氏が平塚に居住する在地土豪であったと思われる。

室町時代の庭園

歴 史

浅井長政の姉にあたる阿久姫が昌安見久尼と称して出家した庵。寺は小谷山実宰院と改称され宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っています。

 実宰院は浅井長政の姉の見久尼が中興した寺とされ、小谷城が落城後に浅井三姉妹がここに匿われたという伝承があります。見久尼は相当に大きな方だったようで、三姉妹を探索した織田方に対して、三姉妹を衣の中に隠して難を逃れたとされます

 

開基昌庵見久庵主顕著碑

室町期の庭園

寺院土塁

天神社と土塁

 参考資料:滋賀県城郭分布調査、戦国の姫たちの越前・若狭、現地説明板

  本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


実宰院 (長浜市平塚町 149)
浅井長政の姉ゆかりの寺で、お市・三姉妹の避難伝承地

 実宰院は、平塚という小集落の中ほどにある。寺伝では、鎌倉時代以前に創建された実才庵という天台宗の寺で、長政の姉にあたる阿久姫が出家して昌安見久尼と称した際に、当地の庄屋を務めていた平野左近助をして庵を再興させたと伝えられている。寺は小谷山実宰院と改称され宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っている。

 この寺が最近注目されているのは、お市と三姉妹に関係する。
 お市と三姉妹は小谷城落城の際、織田軍に救出され、その後伯父の織田信包のもと伊勢上野城(後清洲城)で暮らしていたとされる。上野城や清州城で生活していたことはほぼ間違いないであろうが、落城の際、どのようにして城を脱出したのかについては資料によって異なり、また一番信用性の高い肝心の『信長公記』には全く触れられておらず、実態は不明である。

 地元では実宰院にまつわる伝承として、通説とは異なる経過が伝わる。
 それによれば、長政は落城の際、姉である見久尼に三姉妹の養育を依頼。三姉妹と母のお市はともに城を脱出し、実宰院の見久尼を頼り、ここに匿われたとされている。
 この話が全く無視できないのは、実宰院が浅井長政の姉にあたる見久尼を中興の祖とし、後の秀吉時代には三姉妹との関係で豊臣政権との深い関係があったことを伺わせる文書が残っているからである。
 三姉妹がこの寺に拘わった理由、それはここが三姉妹の避難先であったからと解しても、そう無理ではないように思われる。

 見久尼は、非常に大柄な女性であったと伝えられ、信長軍が残党狩りで実宰院に侵入した時には、三姉妹を大きな法衣の袖の中に入れて隠したという話も伝わるが、これは伝承に尾ヒレがついたものであろう。

 なお、実宰院昌安見久尼天正13年(1585)に49才で死去している

浅井家侍女の墓 (長浜市北野町)
お市・三姉妹の小谷城脱出に関わった侍女の墓

 実宰院には、浅井長政が小谷城落城の際、姉である見久尼に三姉妹の養育を依頼し、三姉妹と母のお市はともに城を脱出し、実宰院見久尼(長政姉)を頼り、ここに匿われたとされてる伝承が残っているが、この時、3人の侍女が随行したとされ、そのうちの1人とされる侍女の墓とされるものが残っている。

 場所は小谷城址東にあたる北野町で、「五先賢の館」から少し北に行ったところにある。現在も住民によって大切に管理されており、大河ドラマの影響であろうか、案内看板まで設置されている。

 この侍女の名は「盛秀」といい、脱出に際して母娘を古い野良着に着替えさせて実宰院まで無事届けたとされる。盛秀はその後、北野で生涯をおくったとされる。

 解説板によると、「盛秀」「禅定尼」「元亀四癸酉年」「四月四日」などの文字が刻まれているとのことである。落城が元亀4年9月1日であるから、伝承と日時があわない。江戸時代に著された地誌「淡海国木間攫」には「浅井長政北ノ方の墓ナリト」と図入りで記されているとされている。脱出に関わった侍女の墓かどうかは別にして、昔から浅井家とのかかわりが指摘されてきた墓石であることは間違いない。

 今日まで残っているのはそのことの裏付けているように思える。

DSC00659.JPG「侍女の墓」全景DSC00666.JPG道路にも標識が出ている


大依山城  近江国(浅井)

2016年02月11日 | 陣城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町)大依町 map:http://yahoo.jp/170v3j

別 称:大依山の陣

築城期:織豊期・・元亀元年(1570)

築城者:浅井氏

初城主:浅見実勝

区 分:陣城

陣 主:浅井氏・朝倉氏

遺 構:削平地、土塁、竪堀、犬走り

城 域 : -

標高 252~365m

訪城日:2016.2.11

お城の概要

 大依山は古墳が7つある、なだらかな斜面が東西に連なる山塊大依山という。稜線はなだらかであるが、南斜面(大依町側)あるいは北斜面(木尾町側)とも急斜面のうえ尾根幅は狭く、いわば屏風のような山である。

 滋賀県中生城郭分布調査の資料によると大依山城は、大依地区の秋葉神社背後の山と、東側舌状尾根の2カ所を指しているが、今回は秋葉神社背後の尾根一帯の遺構。

 八幡神社への参道を登る、ハイキングコース、後はひたすら急斜面を登ると約25分で尾根筋に出る。尾根筋に出たところで広い範囲に削平地を発見する。ここから標高365mの大依山山頂まで、この尾根筋に陣城の削平地を確認する。

 信長公記によれば、浅井・朝倉軍はこの大依山には4日間程しか滞陣していないためあまり削平されていないことも頷ける。

 浅井・朝倉軍は、織田軍に襲われ孤立している横山城まで2㎞の距離にあるここ大依山に陣を置き、合戦直前の4日間(元亀元年(1570年)6月24日~6月27日)をこの山中で過ごしている。そのことが、『信長公記』に明確に記載されているのだ。

 

最初にこの山に陣取ったのが朝倉の8,000人である。そこに浅井の5,000人が加わり、合計13,000人もの大軍がこの山に4日間も帯陣していたことになる。


 木尾地区及び郷野地区から出ている林道はほぼ稜線走っているため、車で上ると比較的容易に遺構を確認することが出来る。しかし遺構の全貌を見るためには歩いて廻ることをお勧!

歴 史

 

『信長公記』 巻三元 亀元年 8、姉川  あね川合戦の事

 越前より朝倉孫三郎景健率いる八千の援軍が到着し、小谷城の城東に位置する大依山①に陣を張った。待ちわびた援兵の来着を知った浅井長政は、城を出て朝倉勢との合流を果たした。
 朝倉勢八千に五千の浅井勢が加わり、都合一万三千の軍勢となった浅井・朝倉勢は、6月27日払暁大依山の陣を払って行動を開始した。陣を捨てて退却するものとも考えられたが、事実は相違した。出撃のための陣払いであった。

 28日未明、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田村の郷に移り、二手に分かれて軍勢を立て備えた。これに対し織田・徳川連合軍②は、西の三田村口に位置した朝倉勢には徳川家康が向かい、東の野村口に展開した浅井勢には信長公直率の将士と美濃三人衆が相対した。

 卯の刻(午前6時)、織田・徳川軍は敵勢ひしめく丑寅の方角へ向かって一斉に駆け出した。敵勢も姉川を越えて突撃し、ここに姉川合戦の火蓋が切られた。戦闘は双方が押しつ押されつの大乱戦となり、戦場には黒煙と土埃が巻き立ち、鍔が割れ槍が交差する音がこだました。そして後世に語り継がれるであろう数々の武功が生まれ、そのたびに名のある武者が命を落としていった。

 数刻にわたる激闘は、最後に織田・徳川軍が浅井勢を追い崩して終わった③。浅井勢は青木所右衛門に討ち取られた真柄十郎左衛門や竹中久作に討ち取られた遠藤喜右衛門をはじめ、前波新八・黒坂備中・浅井雅楽助ら他国まで名の聞こえた将の多くを失った。この戦で織田勢が討ち取った首の数は、面立ったものだけでも千百余にのぼった。

 織田勢は退却してゆく浅井勢を追撃して小谷までの五十町を駆け抜け、小谷では山麓へ火を放った。しかし小谷城そのものは切り立った高山の上に立つ難攻の城であったため、信長公は城攻めまでは無理と見て追撃をそこで打ち切り、横山城の攻囲にまわった。横山城はひとたまりもなく開城した

 信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは7月1日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。佐和山では四方に鹿垣をめぐらし城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。

 7月6日④、信長公は数騎の馬廻のみを引き連れて京へ入り、公方様へ戦勝の報告をおこなった。京には数日滞在して戦勝参賀の使者の応対などをし、8日に岐阜へ帰還を果たした。

 ①現滋賀県浅井町内 ②徳川家康は24日に来援して織田軍と合流 ③合戦の内容については、織田勢が劣勢だったためか『信長公記』はあまり詳しく触れていない。 ④正しくは7月4日

「信長公記」には、元亀元年(1570)6月に姉川の戦いを前に、龍ヶ鼻に陣取った信長・家康軍に対し、小谷城を出た朝倉孫三郎(景健)が八千、浅井長政が五千の兵を率い大依山に陣取ったとある。

姉川の向こうに横山城

狼煙穴か?

目標地:浅井文化スポーツ公園

鳥居横に駐車場

参考資料:滋賀県城郭分布調査、信長公記、淡海の城

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近衛政家邸(大興寺) 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月10日 | 居館

大光寺

山門

歴 史

以前は、現在の南側の谷に所在する大光寺の前身である大興寺があったと云われ、

応仁の乱を避け信楽庄に避難した近衛政家がこの寺に応仁2年(1468)8月19日から10月19日の二ヶ月間にわたり滞在したとの記録が残り

政家の対面の場となった「清故庵」は、城の東、丘陵先端部にある清光寺の位置と伝えられている。

鎌倉時代の公卿・近衛家基は右大臣を経て、1289年関白となり、1291年に関白を辞して信楽荘小川に隠居し1296年この地で亡くなっている。家基の孫がこの地の豪族・多羅尾氏の始祖になる。大光寺には近衛家基の墓があり菩提寺となっている。

大光寺は737年行基によって開創されたと伝わる古刹である。

・寺名:大光寺(だいこうじ) 

・住所:甲賀市信楽町小川1137 map:http://yahoo.jp/VMr-VC
・山号:現聖山

・宗派:真言宗智山派
・開基:行基 

・開創:737年 

・本尊:地蔵菩薩
・境内:市指定史跡

・庭園:小堀遠州作

訪城日:2016.2.8

大興寺遺構

大光寺へ下りた。

多羅尾氏の墓所

近衛家の墓所

本坊

参考資料:滋賀県城郭分布調査、遺跡ウォーカー、大光寺説明板

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家康の「伊賀越え」、宿泊は妙福寺

2016年02月10日 | 武将

家康の「伊賀越え」の宿泊は寺 滋賀・甲賀の郷土史家、資料新発見

「伊賀越え」で徳川家康が妙福寺に泊まっていたことを示す記述を見つけた相良さんと関連資料(甲賀市信楽町小川出)

 1582(天正10)年6月の「本能寺の変」で、徳川家康が滞在先の河内国四條畷から本拠地の岡崎城へ逃げ帰った「伊賀越え」の際、小川村(甲賀市信楽町)の妙福寺に泊まったことを示す記述が浄土宗寺院の資料にあることが、郷土史家の相楽貞喜さん(82)=同市信楽町小川出=の調査で分かった。通説では家康の警護をした地元の武将多羅尾氏の小川城に泊まったとされてきたが、専門家も「極めて信頼性が高い」と評価している。

 資料は増上寺(東京都港区)の「増上寺史科集」(1980年発行)と、知恩院(京都市東山区)の「浄土宗全書」(78年発行)。両書は1696(元禄9)年に徳川幕府が全国の浄土宗寺院に提出させた「浄土宗寺院由緒書」が基になっており、国内の東を増上寺、西を知恩院が分担して調査結果をまとめて幕府に提出し、同じものを一部ずつ両寺が所蔵した。

 この中で「阿彌陀寺末寺 江州甲賀郡信樂小川村 妙寺 天正十年六月此寺ニ権現様御一行宿」との記述があった。「権現様」は家康のことで、「天正十年六月」とあることから、伊賀越えでの宿泊とみてほぼ間違いないという。

 相楽さんは、地元の菩提(ぼだい)寺である清光寺の沿革を2013年2月から2年以上にわたり調べていて偶然、記述を見つけた。妙福寺は現存しないが、複数の資料から存在したことは確実で、地元の観音堂には1846(弘化3)年奉納の妙福寺と書かれた額もある。

 本能寺の変は、家康にとって生涯最大の危機とされる。小川城は山城だが、多羅尾氏の城だったことから家康の宿泊先と伝えられたとみられ、歴史書やガイド本でも紹介されている。

小川村集落は城の北側の麓にあった。相楽さんは「山城に泊まるとみせかけて麓に泊まる家康の慎重な性格がうかがえる」と話し、資料について簡単な冊子にまとめ、知人らに配布した。

 小川城跡を調査したことがある中井均滋賀県立大教授(日本城郭史)は「中世の山城で人が生活できる場所はないため家康は泊まっていないと思っていた。戦国武将が寺に臨時に泊まるのは当たり前だった。幕府が命じて作られた資料なので極めて信頼性は高く、貴重な発見だ」と話している。

京都新聞2015年12月31日 16時40分

清光寺

住所: 滋賀県 甲賀市 信楽町小川 1081
電話番号: 0748-82-1522

参考資料:遺跡ウォーカー、京都新聞

 

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小川城(小川鶴見城) 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月10日 | 山城

県道沿いの案内板

この林道を進む

お城のデータ

別 称:小川鶴見城 

所在地:甲賀市信楽町小川(旧:甲賀郡信楽町小川) map: http://yahoo.jp/ba8ETw 

区 分:山城

標 高:470m   比高差:120m 

現 状:山林・公園

遺 構:曲郭・土塁・堀切・石垣・説明板

築城期:室町期・・嘉吉三年(1305)

改築期:織豊期(天正年間)

築城者:鶴見伊予守定則(道宗)

改築者:多羅尾光俊

廃 城:文禄四年(1595)

駐車城:主郭すぐ5分

目標地:林道の入口は県道138号線天満宮の鳥居のやや北東側に小川城の道標が出いる。

訪問日:2012.8.31・2016.2.8

お城の概要

車で林道を進み5分程度登りますが、(対向車のないこと祈りながら)。山頂の主郭のすぐ下まで林道があり、普通車クラスなら車で登ることができる。林道の入口は県道138号線天満宮の鳥居のやや北東側に小川城の道標が出ており、これにしたがって林道を進めばよい。

小川城は小川集落の南東にある標高470.4mの通称城山山頂に築かれている。

 主郭は南西から北東方向に伸びた山頂部に築かれており、南西端に櫓台を設けた土塁で囲まれた曲輪で、北西側に虎口があり力石がある。土塁が屈折した形状で草で覆われ確認できないが、礎石が残されているという。北東側は土塁で区画された削平、小段と続き、南西側は堀切で区画され東屋の建つ曲輪がある。南へ続く尾根は堀切で遮断され、北西の中之城に続く尾根にも一郭あり、尾根は土塁と堀切で遮断されている。

大光寺には近衛家基とその子経平そして多羅尾氏の祖となった高山太郎師俊の墓があり、多羅尾氏の墓所もある。

城址は整備され、思った以上の規模と遺構に満足。主郭は土塁が巡り、遠くから主郭を見ると半地下状に見えて印象的です。また、僅かですが土塁の内側に石垣も見ることができます。さらに、南側の谷を挟んだピークに出丸と思われる箇所も認められます。城址よりは信楽中心部が見渡せ、眺望がとてもいいです。

中の城へも案内が!。案内板には中の城と小川城の間は1.5Km(中の城と県道までは500m)と表記ありますが、ここもそんなに長い距離とは思えません。途中には小郭が二箇所、堀切が数箇所認められ、本城と支城の間の連絡道が完存してる支城と本城との繋ぎ道。

歴 史

小川城は嘉吉三年(1305)に鶴見伊予守長実によって、あるいは、富永俊盛によって築城されたと伝えられる。

しかし、山頂城址からの出土品などによって、正安二年(1300)に鶴見伊予守定則(道宗)の築いたとするのが 定説となっている。

永享元年(1487)、鶴見氏を逐った多羅尾氏の拠るところとなり、天正年間、多羅尾光俊が 改築したものがいまに残る城址という。


天正十年(1582)、本能寺の変に際して甲賀から伊賀を通って三河へ逃げ帰った徳川家康が、甲賀で一夜を 明かしたもは本城であったとも伝えられている

信長死後、豊臣政権に生き残った多羅尾氏であったが、 文禄四年(1595)、豊臣秀次の罪に連坐した多羅尾氏は没落、 小川城も廃城となった。

城址を歩くと土塁、堀切、虎口などがよく保存・整備され、石垣もわずかだが残っている。 城址からの展望は抜群で、登山の疲れを一気に吹き飛ばしてくれる風景が広がる。 

・小川城主郭からの素晴らしい展望

永禄11年(1568)、織田信長からの近江路案内役の依頼を断った佐々木氏は、信長に居城・支城をことごとく攻略されてしまう。そして天正9年(1581)、信長は安土城に4万6千の大軍を集め、全滅作戦「天正伊賀の乱」を決行したのである。こうして近江の雄、佐々木氏の時代は去っていったのだが、この時、甲賀忍者集団が積極的に佐々木氏を支援しなかったのが大きな敗因でもあった。

 実はこの裏では、徳川家康が動いていた。家康は早くから忍者の実力に目を付け、永禄元年(1558)には甲賀・伊賀の忍者を合わせて270名雇い入れていたという。信長の佐々木氏攻めに甲賀忍者が動かなかったのは、佐々木氏に加担しないことを条件に、家康が甲賀攻めを回避したからだといわれている

 もともと甲賀忍者の生き方は、決して攻撃的なものではない。あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきた。

 今までは近江の一大勢力であった佐々木氏と手を結び、協力することが必要であると判断してきたが、佐々木氏の衰退を見た忍者たちは、信長寄りの姿勢を固めていったといえる。信長の力の前に甲賀忍者は屈したが、信長には内心は反発していたようだ。その実力・手腕を認めながらも、強引なやり方には反感を持っていたし、また信長も甲賀忍者には警戒の目を向けていた。

「天正伊賀の乱」からわずか8ヶ月後の天正10年(1582)、本能寺の変が起こる。信長の家臣・明智光秀が、京都四条の本能寺において、信長の不意を襲って自害に追い込んだのである。この時、信長の招きで都見物に来ていた家康は旅先でこの大事件を聞き、一刻も早く本拠三河に帰ろうとしたが光秀勢に帰路を阻まれ窮地に追い込まれていた。

 しかし甲賀忍者の好意的な援護により、宇治田原から信楽へ入り、甲賀53家の1人・多羅尾家で一泊した。その先は、服部半蔵ら伊賀忍者等に護られ、伊賀から加太(かぶと)越えし伊勢の白子浜に着き、そこから海路で三河まで逃れることができた。この「伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、伊賀二百人組が組織された。

このように先の見通しを早くから察知して、天下の成り行きを十分把握していたのが忍者の活躍の特徴である。信長・秀吉・家康、この3人の実力者の内、時の流れの一歩先を見越して、最後に天下を取るのは三河の家康であろうと見通していたかのように思われる。また戦国大名の中では、家康が一番見事に忍者を活用していたといえよう。

 甲賀の忍者たちが江戸に移り住むようになるのは寛永11年(1634)で、伊賀忍者たちの江戸移住よりおよそ50年程後になってからのことである。というのも、甲賀忍者は合議制の伝統が続いていたこともあって、先祖代々の土地を離れて江戸に移住することに反対するものも多かったためである。しかし将軍の度々の勧めを断り続けるわけにもいかず、ようやく大原氏以下数人の者が江戸移住を決意したことで、甲賀百人組もようやく江戸に舞台を移すことになった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、

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小川西ノ城 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月10日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町小川小字伊吹谷 map:http://yahoo.jp/UvSxeh

現 状:山林

区 分:丘陵城

築城期:室町期

築城者:鶴見(小川)行俊

標 高:370m  比高差:40m

遺 構:堀切、空堀、土塁、畝状竪堀、井戸

目 標:清光寺

駐車場:清光寺の登り口駐車城

甲賀市指定史跡

訪城日:2016.2.8

小川西の城 近江国(甲賀・信楽)

お城の概要

小川集落にあり、清光寺西側の丘陵部に位置している。中手川を隔てた南東の丘陵部には小川中ノ城が、また、小川中ノ城の東南東の山上には小川城が所在している。
小川の地は、京都から伊賀・伊勢方面への交通の要衝に位置し、勢力をのばした多羅尾氏が多羅尾からこの地に支配の拠点を移した。城の遺構も甲賀・伊賀方式から脱皮した構造が見られる。
 この城が築かれる以前は、現在、城の北側の谷に所在する大光寺の前身である大興寺があったと云われ、応仁の乱を避け信楽庄に避難した近衛政家がこの寺に応仁2年(1468)8月19日から10月19日の二ヶ月間にわたり滞在したとの記録が残り、政家の対面の場となった「清故庵」は、城の東、丘陵先端部にある清光寺の位置と伝えられている。

城の構造は、南側の東へ伸びる尾根に築かれた東城と、西から北東方向に伸びる尾根に築かれた西城とに分けることができる。東城は丘陵頂部に主郭、その東側に空堀で区画しされた二郭、三郭が続く。西城は北東と北西の尾根筋を二条ずつの堀切で遮断し、北から南西に四郭、五郭、六郭が配される。両城とも連郭となっており、単郭方形を基本とする甲賀方式とは異なる構造である。
主郭は、東西70m、南北50mで南側を除く三方に土塁の痕跡が残存し、東から北側に空堀がめぐる。虎口は南側に開口している。東斜面には畝状竪堀も見られる。空堀を隔てた東側が二郭で、東西35m、南北30m、北面と東面の一部に土塁が残り、東側を除く三方に空堀がめぐる。さらに空堀を隔てた東側に三郭があり、西面を除く三方を土塁で囲繞され、西面に虎口が開口し、空堀を通路としている。これら三つの郭は、南北軸より少しずつずらせてあり、横矢が効く様にしている。なお、南側の下方に東西に細長い平坦地が付帯しているがどの部分まで城域か判断出来ないようである。
東城の北西端の鞍部を隔てて西城となる。西城は、西端頂部に東西15m、南北20mの櫓台状の六郭を置き、東側と西側に堀切を敷設している。西側の堀切の北西外50m程にもう一条堀切を設け、それらを横堀で結び「エ」の字状とする特異な形態となっている。東側の堀切を隔てて西面に櫓台状の土塁を伴った郭があり、その北東一段下がって東西35m、南北50m程の西面と北面に低土塁が残る四郭を配している。五郭は、六郭東側の堀切を南に通り抜けた南側に設けられている。四郭の北東方向60m間隔で二条の堀切を穿ち尾根続きを遮断している。

清光寺の背後の丘陵上が城跡で、(案内板ある)石段左手の坂道を上り突き当たりから山に入る。

歴 史

 築城年代は定かでないが小川氏によって築かれたと伝わる。その後、近衛家領信楽荘の荘官の多羅尾氏が整備したと考えられている。
なお、同氏は、15世紀代に信楽庄を支配して中央に進出し、三好氏の被官になった一族がいたと考えられ、河内国の守護代となり、永禄6年(1566)6月松永久秀に与して、淀城に籠った多羅尾常陸介は同族と見られている。

鶴見長実の子、鶴見行俊は小川氏を称して代々続いたが、長享元年(1487年)に多羅尾和泉守に敗れた小川成俊は山城国和束庄へ逃れ、以降は多羅尾氏の所領となった。

 天正10年(1582年)本能寺の変によって織田信長が倒れた際、堺見物をしていた徳川家康が伊賀越えで所領に戻る際に設楽で一夜を明かしたのが、この小川と伝えられる。 文禄4年(1595年)に多羅尾光太の娘が豊臣秀次に嫁いでいたことから、秀次に連座して改易された。

その後に徳川家康に召し出されて旗本となり、江戸時代には多羅尾代官陣屋を構えている。これは多羅尾光俊・光太父子が守護した恩に報いたものといわれる。

天満宮から

小川城・・・遠景中ノ城

大光寺へ下りた。四ツ目結

大光寺の裏山・・・遠景

県道沿いの駐車場・・・西ノ城の案内板がある

登城道・・案内板正面が登城道(清光寺駐車場)

天満神社

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、武家家伝多羅尾氏、

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広徳寺砦(庚申城) 近江国(甲賀・水口)

2016年02月09日 | 陣城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)水口町山上988 map:  http://yahoo.jp/V_xpqf

別 称:庚申城

現 状:寺院・森林

区 分:陣城

創建期:延暦2年(783)

開基者:最澄

中興期:元和2年(1616)

     寺伝によると、日本で最初に真鍮を作り出したとさせる籐左衛門が元和2年(1616)に本堂を寄進し、その後金物商の信仰を集めている。

築陣期:北朝の争乱・・・建武5年(1238)

陣 主:頓宮弥九郎

目標地:広徳寺

駐車場:山頂駐車場

訪城日:2016.2.8

お城の概要

霊峰飯道山の南東の尾根につながる庚申山は、瑞応山竜華院広徳寺がある信仰の山。町内の人からは「庚申さん」と呼ばれ親しまれています。ハイキングコースが整備され、展望台もあります。秋は山全体が紅葉で覆われ、眺望も一段と見事になります。
広徳寺は、最澄が開いたお寺です。真鍮製造の始まりとなった伝説に由来して、各地から参拝者が訪れます。

尚、2013年の山火事で本堂は全焼してしまいました。

広徳寺は庚申山の山頂に、登山口から20分もあれば登れる山で、お寺には展望台があって、遠くは美濃の山まで肉眼で見えるほど景色。鈴鹿山脈の北の端から南の端まで、一列に山を並べたように見え圧巻、望遠鏡もある。寺があるので水道、トイレも、山頂付近は散策道。
登山道は良く整備されています。小野登山口から舗装された林道が山頂まで車で(足に自信がない人でも)林道は、一部桜や楓並木に。

城郭史

『甲賀郡志』によると、南北朝の動乱の際。建武5年(1238)に頓宮弥九郎が南朝方として「金剛童子峰」に籠ったとある。

「金剛童子」とは、広徳寺の本尊である青面金剛童子に由来する。

南北朝の動乱
頓宮という地名が出てくるのは、文治6(1190)4月の伊勢内宮役夫工作料未納について書き上げた注文の中に「頓宮」の名が見えるのが地名としての初見とされている。
「頓宮文書」には,建武3(1336)正月2日の近江国頓宮知綱着到状があり、それには頓宮肥後弥三郎知綱と記されているおり、上記肥後守である盛氏と同じ国司、肥後の名乗りのため裔と考える。この着到状は足利尊氏に呼応し挙兵したことである。南朝側に味方した頓宮弥九郎とは一族の者とされている。また応永21(1414)113日の大野光保譲状により甲賀郡大野郷が譲与されているため、その際に近江へ移住したのでは考えられる。
近江の地で頓宮氏が台頭し、南北朝時代では南朝側に前記の頓宮肥後弥九郎が五辻宮守良親王に味方して兵を挙げ甲賀郡をまとめたが、足利尊氏の命を受けた甲賀の小佐治右衛門三郎・山中橘六・美濃部兵衛三郎などが佐々木秀綱に従って攻め、頓宮肥後弥九郎は岩倉城(信楽町)へ拠るが守れず、和束(京都府)へ逃れた。再び、和束・信楽の兵を集めて、頓宮氏は近江の鮎河城に拠るが、佐々木秀綱・小佐治合同軍に囲まれ、鮎河城を支えられずに庚申山(水口町)に拠るが、ここも支えきれず和束へ退いた。再々度、頓宮弥九郎は鮎河城に拠るが、佐々木秀綱・山中五郎・柏木源蔵は鮎河城を襲い、火を放って城を焼き滅亡させられた。
 
甲賀五十三家、そして改易へ
頓宮牧荘を中心にし、豪族として大きくなった頓宮氏は、鎌倉期に頓宮治三郎正盛が頓宮城を築いた。その後、長享年間(1487~89)に音羽野の地を領有することになり、頓宮四方介利盛が音羽野城を築いた時に頓宮城を廃城にした。
長享の乱の合戦で、甲賀衆は足利義尚の本陣である鈎の陣に夜襲をかけ、幕府軍を蹴散らした。戦いに活躍した五十三家を甲賀五十三家と称するようになり、特に六角高頼から感状を受けた家を甲賀二十一家と呼ばれ、その中である北山九家という地域連合惣の中に頓宮四方介がおり武功をあげた。その後、音羽野城は子孫が世襲していったとされているが、子孫の記録がはっきり分からない。「蒲生古蹟考」には時代は不明だが、音羽野城主頓宮内藏助政忠の記録がある。
戦国時代になり織田信長によって佐々木六角氏が攻められ没落し、頓宮因幡守守孝は信長に降ったが、天正13(1585)に豊臣秀吉によって領地は没収され改易となった。その後、どうなったかは分からないが、前記の「蒲生古蹟考」には頓宮善六や、近江水口藩の加藤家分限帳の中に頓宮氏がいた記録が見受けられたので、生き残ったものと推測される。
なお、甲賀五十三家の中に黒川氏・土山氏・大河原氏があげられるが、この三氏は頓宮氏から分家したといい、「黒川村誌」には頓宮四方介の弟が黒川久内土山鹿之助盛忠は頓宮四方介利盛の次男といった記録があり、密接な関係であったことが分かる。(古樹紀之房間より)

山頂駐車場

参考資料:甲賀郡志、甲賀市観光ガイド、古樹紀之房間

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