城郭探訪

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山ノ神遺跡(大津市一里山3丁目

2016年12月04日 | 文化財

地形模型で大津京つくった遺跡群見て 地元グループ設置

地域住民が山ノ神遺跡に設置した大津京周辺の遺跡群の地形模型(大津市一里山3丁目)

 7世紀の工房跡とされる山ノ神遺跡(大津市一里山3丁目)に、地元の瀬田東文化振興会のメンバーが、大津京ゆかりの生産遺跡群を紹介する地形模型を設置した。メンバーらは「この地域に名だたる遺跡があることを知るきっかけになれば」と話している。

■スイッチ押すと点灯、日英語の音声案内も予定

 大津市一里山と瀬田南大萱町、草津市野路町には、大津京を製鉄や製陶で支えた瀬田丘陵生産遺跡群が広がる。同振興会は、山ノ神遺跡から出土した建物の屋根に取り付ける飾り「鴟尾(しび)」のレプリカなどを再現してきた。さらに大津京と遺跡群を一覧できるものを作ろうと企画し、市の補助金を活用して5月から制作を進めてきた。

 地形模型の縮尺は7500分の1。縦2・1メートル、横1・8メートルで、現在の地図をもとに切断した発泡スチロールを重ねて標高差を表現した。県南部の遺跡を一覧できるほか「東山道」「源内道」などの古道も記した。

 地域住民から寄贈されたソーラーパネルやバッテリーも生かし、スイッチを押すと、史跡の場所にランプが点灯する。今後は、日本語と英語の音声案内も設ける予定という。

 地形模型はいつでも見ることができ、制作リーダーの吉居紀生さん(76)は「この地形模型を見て、遺跡を実際にたどってみたいと思ってもらえれば」と話していた。

【 京都新聞 2016年12月03日 23時00分 】


下鈎遺跡発掘調査現地会 滋賀県栗東市

2016年12月04日 | 文化財

弥生後期、大溝見つかる 滋賀・栗東の下鈎遺跡

(写真上)下鈎遺跡から見つかった弥生時代後期の溝(栗東市下鈎)。(同下)朱色に塗られた木製高杯の一部

 滋賀県の栗東市教育委員会は29日、同市下鈎の下鈎遺跡から、弥生時代後期につくられたとみられる大溝が見つかったと発表した。守山市伊勢町の伊勢遺跡(国指定史跡)と区画が似ており、弥生時代の集落を知る貴重な資料としている。

 下鈎遺跡はJR栗東駅の南約700メートルに位置し、過去に祭殿とみられる大型建物3棟や門状の遺構、青銅器などが見つかっている。物流施設建設のため5月から調査した。

 大溝は長さ約35メートル、幅約4メートル、深さ約1・3メートル。周辺の祭場や大型建物の位置関係から、村の中心部が楕円(だえん)状に直径約250メートルの規模だと明らかになったという。

 同遺跡の大型建物の区域は範囲がはっきりしていなかったが、今回の調査で東側を区切る溝が見つかり、溝を巡らせて大型建物を計画的に配置した伊勢遺跡と同じ形態を取っていたことが判明。市出土文化財センターは「両遺跡で青銅器の製造や祭祀(さいし)など、役割を分担していたのではないか」としている。

 朱色に塗られた木製の高杯(たかつき)や古墳時代の円墳2基、勾玉(まがたま)や円盤など約230点の滑石製品、同市では初の鏡の模造品も発見した。当時の祭祀の様子を知る資料という。

 12月3日午後2時から現地説明会を開く。問い合わせは市出土文化財センターTEL077(553)3359。

【京都新聞  2016年11月30日 11時11分 】


武奈滝谷林道の城(仮称)  近江国(彦根・鳥居本)

2016年12月03日 | 山城

城郭研究家:長谷川博美氏・田畑氏が、2011年に新発見の武奈滝谷林道の城(仮称)

標高:572m。林道から鉄塔管理道を上り

武奈滝谷林道

尾根道~急斜の管理道を登る

此処から城域

倒れていた石柱【西】

一騎駆けの尾根道

 

物見櫓か?

主郭

主郭手前の東側竪堀

西側竪堀

主郭(標高:662m)

東側下の遺構(5土塁・平削地=曲廓・6竪土塁・廓)へ10北側遺構

此処まで

下山は、鉄塔管理道を

男鬼城(遠景)

城郭研究家:長谷川博美氏(元滋賀県中世城郭分布調査 現地調査員)の踏査図


【近江歴史探訪】戦国武将ゆかりの地をたずねよう! 「石田三成出生の地を訪ねて」

2016年12月01日 | 陣所

Wikipedia

横山城は  滋賀県長浜市堀部町・石田町)にあった山城。元亀年間(1570年~1573年)の織田信長と浅井長政の激しい戦いの拠点であり、信長の部将であった木下秀吉(後の豊臣秀吉)が城番として守備していたことで知られる。

歴史

横山城は近江北部の浅井郡と坂田郡とを分ける姉川の南岸の山の峰続きに永禄4年(1561年)、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点として築城させた。城主には一門の浅井井演を任命した。

その後浅井氏は勢力を伸張して坂田郡から犬上郡まで勢力を広げるが、元亀元年(1570年)、織田信長と交戦状態になり、再び横山城の重要性が高まった。横山城は美濃の関ヶ原(岐阜県関ケ原町)から浅井氏の本拠地である小谷城(滋賀県湖北町)の西側を通る湖北往還街道のすぐ脇に立地するうえに、小谷城から6-7kmほどの距離しかないため、信長は重要な前線基地として横山城の攻略を目指した。同6月28日、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った信長はすぐさま横山城の攻略に着手、時の城主三田村国定、野村直隆、大野木秀俊らは降伏し、落城した。

信長は城番として木下秀吉を任命。秀吉はここを拠点として浅井氏攻略を行った。

天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井郡・坂田郡の支配権を与えられ、本拠地として長浜城を築城。これに前後して横山城は廃城となったと考えられている。

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