先週金曜は文楽劇場へ。
今月は「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言。
勿論初めてではない。恐らく3回目ではないかな。
ただ、以前に比べて体力が落ちているので
第一部と第二部を別の日に見ることにした。
学生時代は1日通しで見ても楽しめ、感動できたのだがなあ…。
休演情報が幾つか。
皆若くないから仕方はなかろう。
無論、いろいろ心配ではある。
平日だが、ほぼ満員くらいの入り。
開場してすぐ入り、三番叟を見る。
「忠臣蔵」の役者を読み上げていく操り人形はなし。
あれは歌舞伎だけなんやね。
先日読んだ橋本治の「浄瑠璃を読もう」が時々頭に浮かぶ中、
眠気と共に見ていた。
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大序(鶴が岡兜改めの段、恋歌の段)
良い詞章から「兜改めの段」の名乗り。
判官と若狭助って立っている位置が違うんだな。
若狭助の真っ直ぐさ、師直の憎々しさ、
判官の納め方など、それぞれの登場人物の性格が出ている。
新田義貞の兜、
歌舞伎に比べて「見たら分かるがな」という程の違いはないんだな。
顔世御前を見ての高師直の反応、
その後の「恋歌の段」まで中年のスケベさが出ていて良かった。
二段目(桃井館本蔵松切の段)
若狭助と本蔵の絡み。
本蔵の世慣れた感じがポイントか。
文字久大夫、声も聞きやすくなったし、
深みも出てきたように思う。
三段目(下馬先進物の段、腰元おかる文使いの段、殿中刃傷の段、裏門の段)
伴内の「エイヤバッサリ」がなかったように思うのだが、
あれは歌舞伎だけなのかな?
おかると勘平が発情している、という目で見てしまったのは
橋本治の本のせいだろう。
「下馬先進物」「文使い」は門外、「刃傷」で殿中、「裏門」でまた門外を見せる
構成が良く出来ていると思う。
自らの過ちと、「刃傷」という外部要因が相俟って
おかる勘平が落ちていかざるを得ない流れ。
こう見ると確かに、「忠臣蔵」は仇討物語ではなく、
刃傷と仇討という外部要因を受けて、
そこに巻き込まれた者の悲劇を描く物語なんだと思う。
「刃傷」は、師直が若狭助に心ならず頭を下げる部分の屈辱感が若干弱かった気がする。
そのため、判官に向く鬱憤が少なくなり、
判官が「この人は何を言っているんだろう」と感じてしまう理不尽さが
弱くなったように思う。
「その手は何だ」「この手を付いて謝ります」も歌舞伎だけなんだな。
本蔵が止めたことから九段目につながる訳だが、
陰で見ていた
(高師直に勧められて同道し、若狭助が無茶をしないか見守って、
そのまま陰に留まっている、という設定)本蔵が出てくるのって結構遅いんだな。
最後の最後は確かに直接制しているが、別に本蔵だけで抑えている訳でもないから、
切腹の時に判官に「本蔵に抱き止められ」と言われるのは、少し気の毒な気もする。
あと、この辺りの人形の動きがギクシャクして感じた。
左遣い、足遣いが主遣いときちんと息を合わせなければ、
人形に生気を吹き込み、人間のように表現することはできない。
橋下のせいだけでなく、人形浄瑠璃を支える足腰が弱っているのでは、と気がかり。
四段目(花籠の段、塩谷判官切腹の段、城明渡しの段)
「花籠」は十三代目仁左衛門が書いていた「花献上」かな。
初めて見たように思う。
九太夫と郷右衛門の性格の違いを描く、
顔世御前が「自分が夫判官に何も言わずに断る歌を送ったのが悪かった」と
省みる様子を見せる、
といった役割があるのだろうが、
今回の公演では三段目と四段目の間が25分の昼食休憩なので、
いきなり「切腹」ではなく、途中で入っても構わない「花籠」を入れたのかも。
九太夫は「現実主義的」というより、
自分から辞めたら自己都合で失業給付が不利になるから
倒産・会社都合を期待しているサラリーマン、のような印象。
悪し様に社長や嫁さんを罵ったり。
郷右衛門がそのまま残って「切腹」。
いい場面なんだけど、咲大夫の穏やかな声でうつらうつら。
「城明渡し」は主に人形と背景を見せる場面で、
歌舞伎では面白いが、今の人形のレベルの文楽ではイマイチ楽しめず。
五段目(山崎街道出合いの段、二つ玉の段)
勘平と弥五郎の出会い、
確かに「金を渡す」話は勘平からしているんだな。
「主の仇を討ちたい」というより、
侍に戻り、失われたアイデンティティを回復する手段として
「仇討に参加したい」思い。
しかし、「義父が田地を売ってくれるだろう」は、確かにムチャな話だ。
2人が去って与市兵衛、そこに定九郎。
定九郎は東京歌舞伎風。
与市兵衛を殺すところもいろいろ喋っている。
六段目(身売りの段、早野勘平腹切の段)
母子の会話、勘平が帰ってくる、
おかるを連れて行かせるために「与市兵衛に会った」と言ってしまう、
その後与市兵衛の死骸が運ばれてくる。
このあたり、「マスオさん」状態だが
「この環境から抜けて真の姿である武士に戻りたい」勘平と、
義父母の双方に遠慮があり、信頼関係がなく、
コミュニケーションが取れていない家庭の様子が描かれている。
「撃ったら人で、その懐から財布が出てきた」と言ってしまえば良いのに、
腹を割ってそう言えない関係だから、
その後義母が(結果的には)勘違いから責め、
二人侍に訴え掛けられて
二人侍からは「犬畜生」と罵られる。
アイデンティティを取り戻せず切腹せざるを得ないことになるが、
死を覚悟して本当のことを言うと、結果無実が判明し、
それどころか「親の仇討」を果したことが分かって血判を許され、
命は失うがアイデンティティを取り戻す。
よく出来た話、だと思う。
これも東京歌舞伎風で、
二人侍が入る時に着替え、腰の大小を差して出てくる。
若干間が空くが、特に違和感はないレベル。
ただ、ここは人形浄瑠璃で人形ごと替えてしまえば済むから、かも知れない。
人間だともう少し時間がかかるだろうし。
切腹もそのまま正面向いて。
「腹切の段」(よく見ると、判官は「切腹」で勘平は「腹切」なんだな)は
源大夫と藤蔵の予定だが、
源大夫体調不良につき代演。はっきり聞き取れなかったが、恐らく津駒で、
特に悪くなかった。
藤蔵は相手が父でなく最初は遠慮していたのかも知れないが、
その内に声を掛け出して宜しくない。
声が大夫の邪魔になる、というのもあるが、
最大の理由は「三味線弾きは三味線の音色で表現するべき」と思うから、
掛け声の多過ぎる藤蔵を私は嫌う。
声を出すことで、三味線に込めるべき気合や念が洩れてしまうと感じる。
表現の密度が上がらないから、三味線弾きとしての芸も伸びないだろうし。
寛治や清治、或いは錦糸なんて人々は声を出さないだろ?
16時頃終演。
満腹は満腹だが、
三業全てに不満・不安をいろいろ持ちつつ。