冷静に考えれば、自民だ民主だ維新だと言っても、所詮右から右中間程度の間の小異を巡る、どことどこが一緒になっても野合と言わなくても良い程度の争いである訳で。そこだけフレーミングして選択の範囲にされると、郵政選挙の二の舞になっちまう。
「身体に、舞台でどう動けばいいかというコンピューターのようなものが埋め込まれているもの」が型。埋め込む作業がやりづらくなっている今日ではあるが。
原作があり、上演台本がある。原作を知らずに劇評を書くのは無謀、か。「所感」なら兎も角。
型破りは「無心」が前提であって、それがなければただの暴力に過ぎない。「型を壊そう」と意図して壊しても、先人たちの身体言語の詰まった型を超える形にはならない。
個々の役を勉強するプロセスで、「芸の花」が自ずと作り出される。そこから体を変え、「体の花」ができる。
「私の歌舞伎遍歴」(渡辺保)読了。舞台の想い出をメインに、影響を受けた劇評家や劇評の書き方、型の考え方などを綴っていく。巻末に一問一答付。思い出話と言いつつ、各々が「渡辺節」とも言うべき文体の劇評になっているところが面白い。他の本の紹介も多く、一読の価値は充分ある本だと思う。
1 件 リツイートされました
学問的には変動費かも知れないが、現実には給料は固定費。変動費化しようと非正規労働にシフトしていくのがデフレ下の経営の流れ。やれやれ。
ほんとにさー、猪瀬も笹川も松沢も、一度でいいから0歳の赤ちゃん3人の世話を丸1日、しかも駅近の雑居ビルの保育に適していない保育所の中でやってみてから、発言してほしいよっ!
アルジャジーラでカタール政府の関与度合いが上がっているのか。金融危機による報道部門の解雇・異動。
「「愛国」を叫んでデモ隊の中で過激な行動に出た者のほとんどは職がなく、将来に不安を抱え、社会を憎む素地を備えていた」。指名手配された容疑者が母集団のサンプルでない可能性もあるが、中国も日本も「愛国」が何かの鬱憤晴らしであったり、それを利用する者共の飯の種であったりするのは同じか。
「愛国無罪」につながる「言者無罪」「造反有理」「革命無罪」の伝統。これを見ると、日本も根本的には中国文明圏なんだねえ。小沢を巡る「悪人を有罪にするためには、手段の是非は目をつぶる」風潮とか。
「愛国」を叫んで現実やネットで暴れているのは「俺は国を愛している」よりも「だから国は俺を愛せ」「国をこんなに愛している俺を認めろ」という承認欲求の現われなのやも。
主権要求であるフランス革命のナショナリズム。権威主義的で独裁体制が敷かれる場所では、ナショナリズムは主権要求の反体制運動として立ち上がる。「官僚が支配している」植民地意識と、「他国に国土が侵されている」意識は共に被害者意識であり同根、ということか。
しかし、まだ占領されていない尖閣諸島については叫び、既に米軍に中心部を占領されている沖縄や竹島については然程叫ばんのだな。所詮、目立つところを利用しているだけに見える。中国が尖閣諸島に来なければ困るのは石原か。裏で金を回して来させていたりして。マッチポンプ作戦(笑)
自民党の公約、「子どもは社会が育てるとの民主党の誤った政策を撤回させ、第一義的に家庭が育てる」って……。ますます少子化を進めるつもりなのだろうか。もはや家族だけでは育児を担えなくなっているからこその少子化なのに。
マスコミは自民や維新を持ち上げておいて今更その政策を非難するが、ではどうせよ、と言うのだ?政策を変えさせたいのかも知れないが、フランケンシュタインは作り主の手を離れ、戦後民主主義の土台を喰らい始めたぞ。
誰か「まともな党」って作らないかねえ。「みんなの党」のようだが、他の党がまともでない、と党名からアピールする。
分断され、対立し続けるナショナリズムを解きほぐす目的で作られたインドの「新しい教科書」。彼我の差に愕然。