くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之九拾参

2015-12-21 18:35:56 | はらだおさむ氏コーナー

三本の映画
― 異なる主題へのアプローチ 



 むかしは、映画制作所もあった宝塚だが、いまは地震のあと再開発された駅前ビルの5Fに、ひとつの独立系シネマがあるのみ。
 ときおりネットで上映情報をさぐっては出かけるのだが、見逃すことも多い。
 中国映画界の、いまや中堅的存在になったジャ・ジャンク―監督の「罪の手ざわり」は上映から一年余が過ぎた今年の夏に気づいたが、もう後の祭り。近在で上映しているところはなかった。
 友人に教えてもらってネットで中国版DVDを見かけたが、十数分ごとにいろんな手順でアプローチを繰り返さねばならず、大枚をはたいて日本語字幕付のものを購入した。まだ一度しか観ていないが、どうまとめればいいか・・・。

 先日予見なしに、このシネピピアでベトナムとの合作映画「ベトナムの風に吹かれて」を観た。
 ベトナムには1976年、第一回ベトナム経済視察団で出かけている。
 南部解放後まだ一年足らずのこのとき、日本はいち早く国交正常化の動きを見せていたが、わたしたちの視察団は、バンコク~ラングーン(当時)~ビエンチャン経由で、ハノイへは東京発五日目で到着した。ハノイは北爆のあとが痛々しく、サイゴン(当時)の港には赤錆びたクルマの残骸が山積みされていた。
90年代初めから半ばにかけての三度の訪越で、その発展ぶりは承知していたが、松坂慶子演じる日本語の教師が痴呆症の母親を日本から呼び寄せて何をしでかすのか・・・。まぁ、こんな感じでチケットを購入した。詳しくはあとで述べるが、これもネタに使えるか・・・という気持ちであった。

 もう一本が公開三日目の昨夜に観た、吉永小百合の「母と暮らせば」である。
 井上ひさしの広島原爆を題材にした戯曲(のち映画化)「父と暮らせば」の遺志を受け継いで、山田洋二監督が脚本も担当(共同)、映画化に取り組んだ「松竹120周年記念映画」。たまさかに開いた雲の隙間から投じられた原爆による長崎の惨事を、その三年後の「戦後」から振り返る・・・その手法。

 昨夜は、午前に購入した予約券を手に、上映30分前シネマに着いた。
 ロビーにある映画関係の書棚を眺めながら、『新藤兼人と映画 著作集2』を手にしてページを繰った。「シナリオ 待ちぼうけの女」の序文というか、「思い出」と題する一文は、「八月十五日を私は宝塚海軍航空隊で迎えた」ではじまっていた。そのはなしは耳にしたことはあったが、こうした手記があることは知らなかった。館内ロビーを見廻しても、コピー機はない。
受付に頼んで、事務室の責任者にその2ページばかりの短文を無料でコピーしてもらった、いまそれをとり出して読んでいる。
 そのころ、わたしは六甲の北の農村に疎開していたが、当時は米軍機のビラ散布で爆撃予告がなされていたらしい。八月十五日は宝塚地区が「爆撃予定日」で、「特別退避令」により「宝塚の穴という穴は兵隊で塞がってしまっていた」「爆撃は正午の予定であった」が、伝令が来て「班長は直ちに本部へ集合せよ」。「天皇の放送であった・・・B29にやられる予定日に終戦になってしまったのだ」
 これはわたしの知らない、「終戦秘話」だ。

 映画がはじまった。
 長崎医科大の階段教室、まさに授業が始まらんとしたとき、ピカッ!ドン。 それから三年後の8月9日の夕暮れ、長崎の高台で助産婦をして暮らす母・伸子(吉永小百合)の前に、医科大生であった息子・浩二(二宮和也)がひょっこり現れる。一瞬、ゾオッとする、ホラーもどきのシーン。それから大晦日まで、折にふれ、なんども現れては、母と思い出話に打ち興じ、フィアンセの結婚を見届けて、母は息子のもとへ身罷れていくのであった。
 戦後七十年を生きてきて、静かな口調で「原爆詩」などを朗読し続ける吉永の、思いのたけをそのままに伝える映画になっている。
  
「ベトナムの風に吹かれて」主演の松坂慶子には、80年代のはじめ、上海のホテルで遭遇している。わたしは仕事仲間と会食中であったが、食堂の向こうのテーブルで商社の駐在員がひとりの女性のサインをもらおうとしていた。仲間に聞くと、アッ、松坂慶子や、と声をあげたが、だれも側へ行ってサインを求めようともしない。彼女は、わたしたちの側を黙って、通り過ぎていった。あとで耳にすると「上海バンスキング」のロケで滞在中であった由だが、無粋なわたしたちのメンバー、とりわけわたしとは無縁のひとであった。彼女主演の映画を観るのは、今回がはじめて。ハノイで日本語の教師をしているひとの原作にもとづく由だが、映画のキャッチフレーズは「若き日に憧れていたあの国で、今、母と生きていく」とある。
 “テンコ盛り”のエピソードのなかで、日本の敗戦後、仏領インドシナでベトナムの解放戦争に参加した日本兵(のち日本へ帰国)と現地女性との間に生まれた男性に会いに行くカメラマンの女性(この日本兵の孫)のはなしもあった。1960年代の、日越友好協会の会合などでは、ディエンビ
エンフーの戦いで活躍したひとたちの話をよく耳にしたが、こんな話がいまでもベトナムで活きているのか・・・。奥田瑛二演じる「ベ平連」OBの、ベトナムへの流浪ばなしが、おもしろい。

 上映を見逃して、DVDでみたジャ・ジャンク―監督の「罪の手ざわり」にふれよう。
わたしはこの監督の作品をデビユー当時から観ていて、これまでにもその「長江哀歌」「四川のうた」などを紹介してきているが、実際おこった四つの事件を描いたこの作品をどう評価すればいいのか、いまだ戸惑っている。
 この映画のオフィシャルサイトは、つぎのように書いている。
 「第66回カンヌ国際映画祭脚本賞受賞!
実在の事件を基に描かれる、パワフルかつセンセーショナルな人間ドラマ村の共同所有だった炭鉱の利益が実業家に独占されたことに怒った山西省の男、妻と子に出稼ぎだと偽って強盗を繰り返す重慶の男、客からセクハラを受ける湖北省の女、ナイトクラブのダンサーとの恋に苦悩する広東省の男―。彼らが起こす驚愕の結末とは?ごく普通の人びとである彼らはなぜ罪に触れてしまったのか?」
来日した監督は、つぎのようにも述べている。
「現在、中国は急速に発展しており、以前よりもずっと裕福に見えます。しかしながら、多くの人びとは、全土に広がる富の不平等、そして大幅な貧富の格差に起因する人格の危機に直面しています」「この映画で私は、自分たちの社会は果たして発展しているのだろうか、という問いを投げかけたいと思います」そして、「四人の登場人物たちの置かれている状況や環境が昔からの武侠の世界によく似ているなと思い、武侠ものの視点で現代を撮るとどうなるかということが今回のアイデアの発端でもあった」と付け加えている。

この映画は中国国内で上映許可
は取れていたが、なぜか公開直前にDVDが市場に出て、上映中止になった由。9月訪中時に友人に頼んで探してもらったが、上海にも北京にもそのDVDは見当たらなかった。北京の友人は、ネットで一時見れたが、いまは見れないという。どうなったのだろうか?
この映画の原題は『天注定』、日本発売のDVDのケース裏面には「この世の定めか、あゝ無常―」と大書されている。

三本の映画、それぞれの視点は異なるが、さて、いかがだったでしょうか。

(2015年12月15日記)



徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之九拾弐

2015-11-25 13:44:07 | はらだおさむ氏コーナー
夜 明 け 前

 週をはさんでふたりの友人のお別れ会があった。
 三戸俊英公認会計士(享年64歳)と三和化研工業㈱の創業者であり、上海三和医療機器有限公司の元菫事長・岡田禮一(享年81歳)さんのおふたりである。中国経済の改革開放の前夜からともに汗を流してきた「戦友」であり、文字どおりの「同志」であった。

 72年の日中国交正常化以後、日本の地方自治体と中国の都市との友好交流が深まっていった。大阪市は74年に上海市と友好都市協定を締結、大阪府80年に同じく上海市と締結した。この間わたしの所属する大阪府日中友好協会が仲介して、“友好の船”や“友好の翼”で多くのひとたちが中国を訪れ、交流を深めてきていた。
 82年6月、“友好貿易”から“対中投資諮詢”に転じたわたしは、上海市人民政府外事弁公室傘下の上海市対外友好協会日本処を窓口に、訪中団の派遣と中国マーケットの調査に取り組んだ。『上海経済交流』誌によると、訪中団の派遣は83年5団(39名)、84年8団(60名)、85年21団(206名)、86年9団(74名)と4年間で43団(379名)にのぼっている。
 同誌創刊号(85年8月)をみると、84年1月に締結した日系製造業合弁契約第一号の「紅麻レース」の研修生20名の来日、嘉定県経済代表団来日(7月31日)や連雲港経済開発公司との合作協議書の締結などの記事にあわせて花果山サントリービールの紹介も掲載されている。
 同誌第二号(85年10月)のトップに「上海の市街地再開発―<友好改造区>構想」の記事があり、同年2月に上海市の担当副市長に提案したこの計画を大阪商工会議所で紹介・披露した講演会の模様が報じられている。またその「上海経済区都市めぐり②」には上海市嘉定県の紹介があり、5月には八尾商工会議所友好訪中団が訪問、9月末から山脇市長を団長とする八尾市・議会友好代表団の訪中が告げられている。その誌面には岡田禮一さんとわたしを含む団員のスナップ写真も載っている。
 あの事件が発生した89年6月発行の同誌16号に、わたしは「草の根の経済交流」と題した一文で「上海三和」設立のいきさつをつぎのように紹介している。
 「数年前から始められていた八尾日中の友好訪中団に参加されていた三和化研工業の岡田社長が、嘉定県の衛星中心等に寄贈されていた同社の床ずれ治療マットの臨床結果がきっかけとなって、85年9月、同県から合弁の申し入れがあり」紆余曲折を経て、87年12月「研究開発と外注管理、組み立て、販売を主体とする従業員16名(内日本人2名)の合弁企業が開業した」

 この同じ号に三戸俊英公認会計士の「渉外税法知識」の連載がはじまっている。
 わたしが三戸先生にはじめてお目にかかったのは、86年9月上海で開催された「第2回大阪・上海経済交流会議」への参加打合わせの会合であった。上海では西尾名誉団長(大阪市筆頭助役=当時)のアテンドなどで多忙を極め、三戸先生とお話しする機会も無かったが、団がアモイから広州・香港への視察に移動した旅の折々にこれからの日中経済交流に専門家の参加が求められるとお話して、帰国後、協会の「合弁企業経営管理研究会」に参加していただいた。隔月に開催されていたこの研究会には、在阪の日系合弁企業の実務担当者と高橋正樹弁護士ほか専門家が参加され、合弁企業の実務上の諸問題をQ&A方式で勉強していた。のちに近藤友良公認会計士にもご参加いただき、三戸・近藤両先生の翻訳による『中国渉外税法知識』が88年2月、当協会から出版されている。

 わたしがはじめて嘉定県を訪れたのは83年の春と記憶するが、日本の都市計画・建築の専門家と嘉定県城の孔子廟などをふくむ街並みの整備と保存を同県の専門家と協議する会議・視察のアテンドであった。そのときは、市内のホテルに宿泊、クルマに分乗しての“嘉定”通いであったが、道路事情が悪く片道2時間近くを要し、着いてしばらくすると昼食・休憩、午後2時間ほどの会議や視察で帰路につくというありさまであった。往復の都度、馬陸郷人民政府の前を通る。人民政府の看板の横に「上海-大阪友好人民公社」の看板が架かっているのが気になった。上海から随行の人にお伺いすると、大阪府との友好提携後、地元から大阪へ農業研修生が数次派遣され、大阪からも専門家が来てニンニクとしいたけの生産で有名な同県の農作物の多角化を図る交流が続いている、その記念碑の由であった。すでに“文革”も過去の話となり、全中国で唯一残る「人民公社」であったが、日本からの進出企業はまだなかった。

 89年のあの事件のあと、スワトウでの合作企業の設立、90年の「浦東開発宣言」後の「土地使用権の有償譲渡」にからむセミナーの開催など、なにかと忙しい日々が続いたが、中国をその周辺諸国・地域から眺めたいとの思いも募り、三戸先生ほかの友人知人を誘って、韓国、台湾、極東ロシア、ベトナムなどを2~3年かけて視察に出かけた。
 89年秋、ソウルでは現地経済研究所や経済団体と懇談、まだ中国とは国交は開かれていなかったが香港経由の輸出入は行われていた(6月の事件後、広東省の各地には韓国企業の視察グループが群れをなしていた)。
 翌90年9月、台湾へ。交流協会を尋ね、ヒアリングのあと高雄の輸出加工区の日系企業2社を訪問。人件費の高騰で大陸への進出ムードが高い。
 91年9月、ハバロフスクから新潟空港に降り立ったとき、マスコミに取り囲まれた。ゴルバチョフが軟禁された由だが、現地の状況は?ソ連邦崩壊の前兆だが、時差がありわたしたちが飛び立った後のこと。このときはウラジオストク開放第一号の旅行団で、メンバーの半数は墓参目的。おかげでイルクーツクの奥のギリシャ正教墓地まで参観できたが、ソ連の経済は崩壊していて宿泊も食事も貧しく、各地に中国からのスーツケースマーチャントがあふれていた。ラムール河のほとりでドルを求めるひとから買い求めた油絵の小品は、いまもわたしの部屋に架かっている。

 89年のあの事件で、瞬間的に頓挫した訪中団も90年12団(63名)、91年10団(80名)と復活、92年10月には協会設立10周年記念パネルディスカッションを、三名のパネリスト(中国進出企業代表)を招いて開催している。コーディネーターは高橋弁護士と三戸公認会計士のおふたり、出席者は100名を超え、第2次中国投資ブームを予感させる動きであった。
 92年春 小平の“南巡講話”と同年秋の天皇訪中で、対中投資ブームにふたたび火がついた。

 三戸先生は2000年、村尾弁護士と上海にキャストコンサルを設立して常駐、「上海三和」は“「党営」企業”から“民営独資企業”に脱皮して、新工場へ移転する。
 それから十数年、バトンは次の世代に引き継がれた。

― ○ ―

 「木曽路はすべて山の中である」の書き出しではじまる島崎藤村の『夜明け前』は、明治維新をはさんで変貌する木曽山中三十余年の顛末を描いた大河小説であるが、その最後は、主人公半蔵の寝棺の穴を掘る鍬の音の描写で終わる。「一つの音の後には、また他の音が続いた」

日本は、明治維新のあと「脱亜入欧」の路線を歩み、国を滅ぼした。
中国は文革終結に際し、小平が毛沢東を「功績第一 誤り第二」と評したが、中国のいまの紙幣には彼の肖像しかない。この「毛沢東」は、これからの中国の行方を、どうみているのだろうか・・・。
                   (2015年11月22日記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之九拾壱

2015-10-25 21:13:37 | はらだおさむ氏コーナー

大(だい) 地(ち) 讃(さん) 頌(しょう)

 昨年からはじめたコーラスで、いま「大地讃頌」(大木淳夫作詞/佐藤 真作曲)をうたっている。
 ♪母なる大地のふところに/われら人の子の喜びはある・・・から、はじまるこのうたは、その詞もよいが、メロディにこころがえぐられる。
 ♪平和な大地を/静かな大地を/大地をほめよ たたえよ土を・・・と歌い上げ、最後は♪母なる大地を ああ/たたえよ大地を ああ♪と絶唱!
 このうたは“混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」”の最終楽章の由。もう半世紀以上も前、岩城宏之指揮・NHK交響楽団・東京混声合唱団の初演以来歌い継がれ、阪神淡路大震災の直後に小澤征爾の指揮で演奏されてからこのかた、特にこの「大地讃頌」は被災各地で歌われて、被災者のこころを癒し、励まし続けてきている。

 十年ほど前、学友たちと出雲路を訪ねた。
 このときは東京から飛来したものや広島からクルマで馳せ参じたものもいたが、この数年、もう集う機会もなくなった。
 宍道湖のほとりを巡り、出雲大社で日本の古代史の一端を思い浮かべながら、車を連ねてその周辺をまわったが、休耕田の多いのにはおどろいた。
観光客相手の店でこそ活気はあるが、ひとの往来にいきおいがない。かねてこの地の過疎ぶりは耳にしていたが、元首相の没後は拍車をかけている由。
 帰路 わたしはひとり鉄路で岡山へ出た。
 やまなみは深く、緑滴るが、間伐材は朽ちるにまかせて谷を埋めている。
 むかしむかしの、そのむかし。
 半島などからの渡来人が、この周辺で鉱脈を見つけ、農具や刀剣の製造技術を伝授したとのことを、なにかの本で読んだような気もするが、その後の歴史はどうであったか・・・。
 倉敷は明るく、ひとがたおやかに歩いていた。

 はなしはとぶが、土地といえば、あのときの上海を思い出す。
 あの事件の翌年四月、李鵬総理は上海で「浦東開発宣言」をした。
 中華人民共和国が成立して以後、中国の土地は国有と農村の集団所有のふたつのみで、私有の土地はただの一坪もなかった。
 このときの開発宣言では、上海の浦東地区の土地のみが対象の有償譲渡(期限付)・・・日本風に解釈すれば「借地権」の売買が認められたのであるが、その後しばらくして他の四つの対外開放地区(深圳・スワトウ・珠海・アモイ)にも適用され、やがて全土に広がっていった。「土一升」が「金の卵を産む鶏」になって、先ずは「地方政府」にカネが転げ込み、それが倍々ゲームでひろがって「汚職」と「成金」が幾何学的に増えあがる。

 この「土地使用権の有償譲渡」というアイデアはどこから生まれたのか。
 わたしは英領香港(当時)の土地使用権の売買が、そのヒントになったのではないかと推察している。阿片戦争で取得した香港の、女王様の土地租借権(100年)の運用がそれである。
 あの事件から一年足らずで、このような政策の大転換が実務的裏づけもなしに実施されることはありえない。
この構想は、いつ、どこから出てきたのか。
わたしは、汪道涵市長時代(1980~85)にその萌芽を見つけ出すことが出来るのではないかと・・・市長のスタッフにその「智慧袋」がいた筈である。
 文化大革命が終結して「改革開放」の道をあゆみはじめたそのころ、上海市の財政も苦しかったが、鐚(ビタ)一文手元に残させずに中央に吸い上げられていて、施政当事者は頭を抱えていた。困迫の度を深めていた住宅や交通問題などをどう処理せよというのか、と・・・。
 あとになって知ったのだが、上海はそのとき、中央に「内緒(密々)」で浦東(農村地区)にいくつかの「工業区」を設けて、「都会戸籍」の労働者を移しはじめていた。中央へはその「改造計画」を上申し続けていたが、すべて却下された末の「苦肉の策」であったと、消息筋から耳にしたことがある。
 その「改造計画」が、あの事件のあと「陽の目」をみて、「浦東開発宣言」に結びついた「筈」である。時間はかかったが「ニワトリ」はついに大きな「金のタマゴ」を産んでくれた・・・いま、上海のバンドの両側に立ち並ぶ高層ビルを見ながら、わたしは汪道涵市長とそのスタッフに脱帽する。そして90年代のはじめ、市政改革に辣腕をふるった朱鎔基市長(のち国務院総理)に敬意を覚える。

 そのあと、上海の改造で私服を肥やしたひとも少なくはないが、歴史はいつの日かそのことを明らかにすることであろう。
 中国の大地からいま聞こえてくるのは、すすり泣きか、高笑いか・・・。

 ♪母なる大地を ああ/たたえよ大地を ああ♪

                                     (2015年10月27日記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之九拾

2015-10-14 20:12:09 | はらだおさむ氏コーナー

変わるもの、変わらぬもの


 先月三年ぶりに中国へ行ってきた。
 20余年前にその設立のお手伝いをした現地企業の社員旅行へのご招待。
 話では上海から北京へ行くという。
 北京は70年代のはじめの友好商社時代には、駐在員事務所もあり当時同業メーカーを集めて行われた北京商談でその接待も兼ねてひんぱんに往き来した。
 80年代以降は、対中投資諮詢の仕事に変わり、そのフィールドの中心が上海など長江下流地域になったため、北京は団体の視察旅行の往来で年1~2度。90年後半からは、西域などへのツアーの通過点としての北京になっていた。
 同社の社員旅行は工会(労働組合)と会社の、同額積立金による費用で二年に一度実施されているようだが、なぜか北京はこれまではその対象になっていなかったらしい。
 案内を受けて、一瞬北京か、と思ったが、上海からは新幹線で北京に向かうという。これには、まだ乗車したことがない。初物食いもいいところ、よろこんでこのご招待をお受けした。

 上海へは一日早く着いて、友人の案内で「表紙の写真」(『徒然中国』84号ご参照)の現場を案内していただいた。空は青く晴れ渡っていた、友人は日本から青空を持ってきてくれた、とわたしを持ち上げてくれたが、そのとき、台風18号は日本の関東北部を襲って、河川は氾濫、周辺の集落に甚大な被害をもたらしていた。そんなこととは露知らず、上海の友人と万博跡地の再開発の現場を視察、来春の関係者を誘っての訪中・視察旅程を相談していた。

翌日はいよいよ北京へ。
虹橋は20数年ぶりか、エアターミナルと新幹線(高速鉄道)に地下鉄が加わって、関空をしのぐ盛況ぶり。100名近い社員も勢ぞろいして、9時発のチェックインを待ちわびている。顔なじみの古参社員や役員と握手を交わし、近情を語り合う。
定刻に発車した列車は、南京に停車したのみ、ときには300キロを超える速度で午後2時には北京南駅に到着した。
上海~南京と天津~北京間には工場や集落は垣間見られたが、そのほかの区間はただ原野を走るのみ、いくつか建設中の小さな駅舎もあったがこれは64年に開通した日本の新幹線と同一視することはできない。名古屋から大阪まで一直線の計画路線が、大物政治家の選挙地盤に駅舎をつくり路線はカーブした。中国の政治家には、選挙地盤はない。あるのは、中央への忠誠心のみ。ただひたすら、北京へと一直線に列車は原野を走り続けていた。

出発前北京在住の友人からのメールによると、パレード効果の“青空”は今回は二日しか持たなかった由であったが、北京南駅の雑踏をかきわけてバスで天壇公園へ向かう徒次、空は立派に!晴れ渡っているではないか。それからの三泊四日の北京は、まさに“日々これ好日”の晴天が続いていた。
第二日目は天安門広場、故宮、そして王府井。64年の初訪中以来の知り尽くしたところではあるが、天安門へは前門近くから地下道へおりてパスポート(中国の人は身分証明書)チェックのあと広場へ。いろんな事件のあったところだから警備の厳しいのもわかるが、老人には階段の上り下りがつらい。
故宮はのっけからグループと離れて、みやげ物店併設の喫茶店で休息することにした。“文革”のころ、そこここの壁という壁に書きなぐられていたスローガンを思い浮かべながら、「故宮」はこの数十年をどう感じているだろうかと、つまらぬことを思いながら時間をつぶしていた。
第三日。ホテルは西駅近くの自称“四星”、ここでも人件費の高騰によるせいか、フロントは二人体制。サービス業の人減らしはどうなんだろうと思いつつ、バスは朝食の弁当を積み込んで一直線にハイウェイを北上する。午前は龍慶峡、午後は八達嶺とか。北京在住二〇年近い日本の友人も、この龍慶峡は知らなかったという。もちろん、わたしははじめてである。上海から随行の旅行社の女副社長は、近来売り出し中のリゾート地で、彼女も会議で一度だけ来たことがある由。二時間近く飛ばして、ここも北京市、の延慶県。江沢民先生揮毫の、大きな岩-「龍慶峡」がわれわれを出迎える。ネットでは、北の“桂林”だとか、三峡の渓谷だとかかまびすしいが、その「ホンモノ」を知っているものにはダム湖のひとつにすぎない。ゴンドラや歩く歩道に誘導され、船着場からライフジャケットを身に着けて、湖面を十数分一周する。深山渓谷の緑はあざやかだが、はてどうだろう・・・水資源の乏しい北方の、保養地か夏の会議地としてなら適地といえるか、どうか。
 バスは折り返して、八達嶺へ。
 その北側になるのだろうか、ゴンドラがその奥深く登っていくのには驚いた。
 北京五輪の前にできたらしいが、わたしはこれもパスして、土産物店をひやかして過ごしていた。下山してきたひとにいくつめの望楼まで行きましたかと尋ねると、登りの一方通行でひとつめの望楼から険しい崖道へと降ろされたと、ほうほうのてい、いやぁ、参りました、とのことであった。
 わたしは四十代のはじめには東峰の第三望楼まで攀じ登り、西峰は第二望楼まで行ったこともあるが、下りがタイヘンであった。いまは一方通行で第一望楼から、帰りは脇の崖道を下るとは・・・想像を絶する難コースではないか。
ゴンドラに惑わされてはならない、と記しておく。
 最終日の午前は頤和園であった。
 ここは六四年の冬と六五年の夏、いずれも取引公司の案内で訪れただけ、半世紀ぶりということになる。西太后の石の軍艦と回廊が記憶の底にあるが、いまは、はるか離れた地点から船に乗って行くという。バス二台の社員全員プラスほかの乗客、合わせて百数十人が乗り合わせて出航。狭い運河から、日清(甲午)戦争の軍費をつぎ込んで西太后の避暑地にと作られた、この人工の池(湖)へと繰り出す。湖上には、観光客満載のおなじような船があふれ、夏の行宮をめざして突き進む。回廊に描かれた絵や物語は、わたしの知るべしも無かったが、一人の30代の父親が子供にいろいろと解説しているのに、安堵の思いがした。この喧騒と人ごみのなかで耳にした父の話を、この少年がいつの日か思い出してくれることであろうと思いつつ・・・。

 先日風呂上りにつけたテレビドラマは、四日市市の工場廃水問題にかかわる実話にもとづいていた。わたしはうかつにも四日市の公害は大気汚染とのみ記憶していたが、それ以前にこの工場廃水問題もあったとは!
 漁場を奪われた漁船が越境することから、この話がはじまっていた。
 海上保安庁の取り締まりに抗議する漁民、われわれを逮捕する前に漁場を奪った―海へ工場廃水を垂れ流している、あの工場をどうしてくれるのだ!
 漁民の指摘に、問題の根源を思い知った海上保安庁の出先機関の課長とその部下が、その摘発と立件に立ち上がる。
 わたしの知る公害反対闘争ではない、一地方の行政マンとその部下たちの提起した裁判は、最高裁までもつれこむ。この間の二〇年、工場は世論に押されて、汚水対策の決着に追込まれる。初期対策の不備が首を絞めることになった。

 このテレビを見ながら、中国の空と日本の青い空のことを考えていた。
 ヘドロの川にアユが戻り、スモッグの空がいまの、吸い込まれるような青空に回復したのは、世論の力であり、それに呼応した企業の技術力であった。
 上海の蘇州河も、二十数年経って甦った。
 中国からPM2・5の大気汚染を追放して、青い空を取り戻すのは、いつになるのか。日本で出来たことが、中国で出来ないことはないであう。          
ひとびとは、ただひたすらそれを待ち望んでいる。
(2015年10月14日記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾九

2015-09-30 22:04:11 | はらだおさむ氏コーナー

かおを あらう


ひとは ものごころつくころから、朝に夕に顔を洗ってきている。
 水道の蛇口をひねり、流れ落ちる水に両手をさし出して二度、三度と顔をゆすぐ。
 こどものころ、二年近く農村で生活をしたことがある(戦時下の疎開)。
 そのころの農村には水道は無く、井戸から汲み出した水を桶にあけ、柄杓で金盥に少し取り出して顔を洗っていた。
 若いころからよく入院したが、おしぼりで顔をぬぐわれるつど、早く起き上がって水道の水で顔を洗いたいと思っていた。
 両手で水を受けて、その手を上下に動かして洗顔する、この行為(動作)は、万国共通と考えることも無くそう思い込んでいたのだが・・・。

 八九年五月 帰国する上海の友人を誘って香港経由で広東省の経済特区を視察したことがある。
 深圳・珠海・汕頭の視察を終え、広州の白雲飛行場(当時)から上海へ行くべしであったが、北京へ行こうとする学生たちを阻止するためか全フライトはキャンセルになり、近くの機場賓館(エアポートホテル)の大広間でごろ寝をすることになった。
 翌早朝 北京行き以外のフライトはテイクオフすることになり、洗面場は大混雑で長い列が連なっていた。わたしも友人とタオルを持ってその最後尾についた。洗面を終わったひとがわたしの横を通り過ぎて行く。何気なく見ていると、その人たちのタオルが濡れている・・・洗面して顔を拭くだけであんなに濡れるわけでもないのにと、前の方の人の洗面を見ていると・・・水道の蛇口の下にタオルを広げて、ボトボトになったタオルに顔を近づけ、前後に顔を動かしている。手は濡れたタオルの下で停止、顔の動きで拭うことしばし、やおら顔を上げ、タオルをしぼって顔をぬぐい・・・洗顔完了。タオルをもう一度水にぬらして絞り、選手交代、となる。わたしの番になり、隣の蛇口には友人が・・・ちらっと横目でうかがうと、かれもおなじようなしぐさで洗顔している。蛇口の下に両手を広げて洗顔し、乾いた手ぬぐいで顔をぬぐっているのは、わたしのみであった???
 荷物を担いで搭乗手続きを終えたころ、わたしは友人にこの洗顔光景の?を尋ねた。
 かれはなぜそんなことを聞くの?といわんばかりに、あれは“老百姓(ラオ・パイシン=庶民)”の習慣、かれも数年の下放時代で身についた、大勢のひとがいるときには、同じ動作をするのが中国人の“生活の智慧”だよ、とのたもうた。わたしは、中国人ではありませんよとばかり、九ちゃんの♪・・・態度でしめそうよ・・・♪としていたことになるのか・・・。

 この体験があたまの隅に凍りついたまま、数年が経った。
 あるとき、十数歳年長の大先輩のご指名で、大学の同窓会(咲耶会)支部の席で中国事情のお話しすることになった。わたしは中国語出身ではないが、縁があって対中投資諮詢の仕事で中国の各地を廻っていた。
 この日は、冷戦時代の企業疎開(第三線)で上海のミシン工場が秦の始皇帝陵近くの山裾に移転、西安地区で唯一の“上海語圏”が形成されていた~そのようなおはなしをさせていただいたように思う。
 ディナータイムの話題も“方言”がらみのお話も多かったようだが、大先輩は卒業後赴任された天津での体験から、方言習得も若ければねぇ~とのことであった。それよりもねぇ~、言葉よりも習慣、しぐさだよ。満蒙あたりで行方不明になった同学や後輩たちも、それで苦労したんじゃないかなぁと、おっしゃったのである。

 「言葉よりも習慣、しぐさだよ」
 ピンときたのは、いうでもない。
 顔を洗う、その日常的な動作でさえ、異なっていたのである。

 山なみの迫る渓谷のせせらぎで、ひげ面の男が両手で水を掬って顔をごしごしと洗っていた。対岸の林の合間からこの光景を見つめているふたりの便衣姿の男がいた。あれは・・・あれは、日本人だ!日本の間諜に違いない。
ふたりは見え隠れつつ、ひげ面の男のあとを追って行った・・・。


 盆が過ぎてもなお厳しい残暑のなか、箕面市間谷の大阪大学外国語学部内にある咲耶会事務局をたずねた。
 咲耶会は第一次世界大戦後の1922年に設立された大阪外国語学校(戦後は国立大阪外国語大学、そしていまは大阪大学外国語学部)の同窓会。
 その校歌はつぎのように歌う。
 ♪世界をこめし戦雲ようやく晴れて 東の空に暁けの明星ひとつ・・・♪

 事務局にある戦前(~1945)の同窓会名簿8冊(昭和七年~昭和十八年)には、発行年度は不定期ながら1期生からの消息(氏名、勤務先、現住所など)が記されている。
戦前最後の発行となる昭和18年度版で、昭和16年(第18期)の「支那語」「蒙古語」卒業生の動向を調べてみた。
昭和16年12月の繰上げ卒業となっている(同月8日には真珠湾攻撃)。
「支那語」卒業生は69名、「蒙古語」は16名、この卒業二年後の名簿を繰ると、早くも「支那語」35名、「蒙古語」12名が既に応召中で、その比率は合計で55%となる。「非応召」者でも、外地(「満州」「蒙古」「中華民国」「朝鮮・台湾」)居住者は「支那語」で19名(54%)、「蒙古語」は4名全員が外地在住である。
戦後の咲耶会同窓会名簿は昭和26年(1951)からはじまる。
昭和29年(1954)版で、前述の18期生の動向を調べてみた。
「中国語」部で消息不明者は18名(「蒙古語」部はわたしの調査漏れ)。消息不明者は即「行方不明者」(または物故者)とはいえず、2年後の1956年版で4名の方の消息(住所)記入を見つけたときはホッとした。この年「蒙古語」部はなぜか名簿記載が3名減少の上、さらに3名の方が消息不明となっている。
  最新版の同窓会名簿は、2013年の発行である。
  当該「中国語」部第18期卒業生の「住所不明者」13名のうち、それ以前に判明している方を除く6名の方は「居所不明」のままである。
  昭和18年当時、この6名のうち2人は日本在住で、3名は「満州」、そのうち2名は在満日系企業勤務、1名は在満行政機関からの現地応召、他の一名は「入隊中」とのみ記載されている。この6名の方が戦後も「消息」不明のまま、いまに至っているのである。これはあくまでも同窓会名簿のみによる「私的調査」であるが、戦後七十年のいま振り返ってみても実に大変な時代であった。

 「いつまでも謝り続けさせることはできない」とおっしゃるひとが、きょうも赤絨毯を闊歩されているのであろうが、「かおをあらって」出直して欲しいものである。

                         (2015年8月23日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾八

2015-07-08 18:59:34 | はらだおさむ氏コーナー
孟母三遷


 もうネクタイをしなくなって久しいが、夏になるとときおりループタイをつけるときがある。いずれも中国の旅で気まぐれに手にしたものである。
 80年代にはじめて杭州へ旅したとき、土産店で手にしたループタイは、陶器の破片がモチーフになっていた。手にとって眺めていると店主が、紅衛兵が壊さなかったらいい文化財であったのにとつぶやいた。由緒はわからないが、それを身に着けて天津に行くと、友諠商店の店員がわたしのループタイを譲ってくれという。買値よりかなりよい値を口にしたが、それはもうダメ、なんだか首に巻くのも恐れ入って、これは仕舞い込んだまま。
 それからは、シルクロードや各地の山村でいくつかの工芸品のようなものを手にしたが、それは旅の気まぐれ、ほとぼりが冷めると使うことも忘れる。そのなかでこのところ愛用しているのが、艶のある木切れに紐を通しただけのシンプルなこれ・・・。そう、あの旅先で手にしたものである。

 2007年9月、山東省の青洲・泰山・曲阜のたびに出た。
 70年代後半は輸入商談で青島へはよく出かけていたが、いずれも列車のたび。北京から夜行列車でススまみれになって到着した青島の夜明け、青島から済南経由の夜行列車で南京に向かう軟座での中国人老学者との出会いなど、この沿線の車中の思い出はつきないが、車窓から眺める泰山や曲阜にはとうとう訪れる機会がなかった。
 今回の旅は古美術に詳しいSさんのアイデアに便乗した企画であったが、5月に施術した左大腿部患部の病理検査の結果が悪性腫瘍であったことから、その催行に戸惑いを覚えた。すでに参加メンバーは確定しており、旅の手配も進められていた。旅行社とSさんの了解をとり、不参加もありと8月はじめにその摘出手術をうけた。梅原猛先生の『三度目のガンよ 来るならごゆるりと』(光文社)の心境であった。当然とはいえ、局部麻酔では手術室の音声が耳に入る。これまでの経験から、ヘッドホーンで加古隆のCDを聴くことにした。枕元の麻酔医にお願いして2クール目までCDをかけなおしてもらったが、術後病室を訪れた担当医のはなしでは、患部を深く切除したのでその縫合に時間がかかったとか・・・。
 退院後一月たらずの今回の旅は、杖を突いての参加とあいなった。

 秦の始皇帝のひそみにならって、そののち即位した各皇帝はこの泰山に登攀、東海から昇るご来光に五穀豊穣と国家安泰を祈願したと伝えられているが、江沢民もその絶頂期には二日間観光客をシャットアウトして登頂、そのご利益がいまも残っているのであろうか。
 中国の善男善女は海外組も含め、七千余の階段をよじ登ってごりやく(利益)にあずかろうとするが、一般の観光客は高い料金を払ってロープウエイで展望台の下まで上る。
 わたしもそこまで。
 メンバーが展望台から降りてくるまでの小一時間、絵葉書売りの少女(地元の女子大生であったが)のお手伝いをして過ごした。“重きこと 泰山の如し”にあらず、“軽きこと 胡蝶のごとし”であった。

 その翌日からの、「曲阜三孔」観光は、杖を突きつきのわたしには苦行難行のコースであった。
 シンガポール建国の父、故リー・クワンユーは「中国の汚職や腐敗の根源は、文革時代に起きた正常な道徳的基準の破壊である」と指摘しているが、このところの「道徳教育」の復活で、それは是正されるのであろうか。
 孔子の復活は、中国国内にとどまらず、世界の各地にも孔子学院の設立・普及で拍車がかかっているようだが、その“本山”ともいうべきこの孔廟、孔府、孔林の建物の階段や敷居などにはギブアップした。わたしにとっては、世界遺産よ~さようなら。最後は入り口に座り込んで、巷の光景に目をやっていた。

 ことのついでにと、孟子廟へ行こうということにあいなった。
 クルマで40分ほど、地図でみると南下したことになるが、鄙びた街なかの左手に砂塵でけぶった太陽がぼんやりと浮かんでいたような気がする。
 孟子廟には、人っ子ひとり見かけなかった。
 うっそうと茂った木立には、スズメや野鳥が喉を競い合い、リス?のような小動物が駆けていた。
 夜来の雨で水はけも悪く、わたしは奥の廟まで足を運ぶのをパスして、道に面した小屋で休むことにした。少女がわたしに椅子をすすめてくれた。薄よごれたショウケースには黄ばんだ冊子がならび、その横にいくつかの商品があった。いま愛用しているループタイはここで手にしたもの。三つの小さな穴は、目と口であろうか、じっと眺めていると孟子の慈母のような気がしてきた。

 孟子の母は、その育児中に三度も引越しをしている。
 はじめは墓地の近くであったが、葬式のまねばかりするので市場の近くへ
引っ越した。すると今度は商売のまねばかりして遊ぶので今度は学校の近くへ。すると孟子は生徒のまねをして本を読んだり、文を書いたりして勉強するようになったという。孟母三遷の由来である。
 これは現在でも幼児心理学的に立証されているという。
子供の人格形成は、数歳までの環境に負うことが多い、とか。

 わが一生を省みて、どうだろうか・・・。
 わたしは尼崎の寺町筋で生をうけ、小学校一年(この学年から国民学校となるが)の二学期までここで過ごした。この町筋で小商売をしていた家の五人兄弟姉妹(末弟はその三年後に誕生)のちょうど真ん中。五歳上の兄の入賞作「父上出征中」の墨書が部屋にあったから、父は不在であったのだろう。
お寺の墓地で遊んでいて住職に叱られた記憶がある。小学生になってお小遣いを毎月五十銭もらい、自分で『少年倶楽部』などを買い、映画館へひとりで出かけていた(母は妹たちの子育てや店の商いで“てんてこ舞い”であったのだろう)。
 小一の三学期に店をたたみ、国道の北の長屋に引越ししている。
父は除隊して、勤めていた。
 小四の七月、いまは神戸市北区になっている農村にひとりで縁故疎開。
十月ごろ、母は姉・妹ふたりと生後半年ほどの弟を引き連れて来て、農家の納屋を借りての生活が始まった。父はまた戦地へ、兄は関東の兵学校へ行き・・・わたしは“ほしがりません 勝つまでは”と、田舎の子のいじめに耐え、読む本もないので兄の中学の教科書を手にして、小泉八雲の怪談に慄いたりしていた。

 いま わが国の偉い人は、崇敬するおじいちゃんの話ばかり聞いて、少年時代をすごされていたのであろうかと、ふと思う昨今である。
                 (2015年7月6日 記)
 

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾七

2015-06-11 15:10:37 | はらだおさむ氏コーナー

夏がくれば・・・


 ♪夏がくれば・・・と口ずさめば、♪はるかな尾瀬/遠い空、とつづくが、6月の曇り空を眺めていると、思い出すのは、やはり、あの日のあのこと、である。

 あのとき、わたしは広東省の三つの経済特区(深圳・珠海・汕頭)視察の旅から帰国したばかりであった。福建省のアモイをふくめ、対外開放された四つの経済特区ではあったが、なんとか形が整って動きはじめていたのは深圳のみ、その数年後から輸出型加工基地として発展する東莞なども、関係者から青写真を見ながらお話を聞くだけであった。
 6月4日のあの日、事務所には大勢の中国からの留学生が詰めかけ、テレビに映し出される北京の映像を食い入るように見つめていた。あのころはまだパソコンや携帯電話は普及しておらず、事務所のファックスで新聞の切抜きなどをふるさとの家族や友人に送っていた。
 いまでも気になるのだが、戦車に向かってひとりで歩み寄る青年がいた。手に何か持っていたようでもあったが、そのあとの映像はない。かれはだれか、その後、どうなったのか・・・。

 中国からの引揚げ者で、大学の受験外国語に中国語を選択した女性がいた。
わたしより数歳の年長者で、八十年代のなかばから旅行社の嘱託となり、経済視察や友好都市交流の訪中団の通訳・ガイドとして活躍された。団のエライひとにも遠慮せずにずけずけとモノを言い、却ってそれが気にいられて、あちらこちらの訪中団からお声がかかっていたようである。
 ある会合で、同じような引揚者から中国の解放軍の紀律を褒め称えるはなしがあったとき、彼女は立ち上がって異議を申し立てた。スローガンは工場などの「整理、整頓」とおなじで、出来ていないから掲げるもの。毛沢東が解放軍兵士の「三大紀律」としてあげた<民衆のものは針一本、糸一筋もとらない>と訓示したのは、実際はそうではないから、のことでしょう・・・と。
 彼女は愛飲家で、毒舌家でもあったが、乱れることはなかった。
 十六歳の女学生のとき敗戦、「満州」で八路軍の後方衛生部隊に徴用されたとき、面接と称して身包みはがされ、素っ裸にされた苦い思い出がある。
それから数年「国共内戦」で各地を転戦、解放軍とともに過ごしてきた体験の持ち主。中途半端なお世辞や、知ったかぶりの話には、すぐノー(プトイ)とからだが反応したのである。

 もう十余年前になるか、知人の告別式で寝屋川の外れまで出かけたとき、久しぶりに彼女に出会った。わたしも彼女ももう中国との仕事はリタイアしていて、久しぶりの出会いであった。帰路JR東西線で川西池田駅まで一時間ほど延々と四方山話に花が咲き、それでも別れを惜しんで駅前の喫茶店で話し込んだ。
 そのひとつが、この「6・4」のときの青年の話。
 あのとき、ゴルバチョフの北京訪問で世界中のメディアが集結していた。
 胡耀邦の不慮の死去で、中国の学生運動に火がつき、天安門広場に掲げられた“自由の女神”像を目指して中国全土から学生が北京に集まってきていた。小平は事態の沈静化のため、北京に戒厳令を布告、北京軍区の解放軍に出動命令を出したが、北京軍区の将兵は人民には銃は向けられないと出動を拒否、瀋陽軍区から出動した連隊が北京に着くという直前、一定の成果を挙げたと撤退を主張する北京の学生とそれに反対する東北の学生とで話し合いがつかず・・・そして、「事件」がおこった。
 わたしは、川西の喫茶店で、年来の疑問、ひとりで戦車に向かった青年のことを、「お姉さん」に聞いてみた。
 彼女は複数の中国人から、旅先のあちらこちらで聞いた話だがと前置きして、つぎのようなことを話しはじめた。
 当時中国の指導部は、割れていた。
 実権を握っていたのは小平ではあったが、改革開放の実務を任せた胡耀邦は保守派の圧力で失脚、後任の趙紫陽もいま学生の前にひざまずいている。
戒厳令を出したが、北京軍区の出動拒否に手を打てない小平に保守派の長老(たち)は“匕首”を突きつけた。「反革命」をおこさせて、それを合図に「軍」が学生の「鎮圧」に向かう。どうだ、小平、ここが決断のときだ、ならずものなら、北京にごろごろいる、地方からの出稼ぎにカネをやって一暴れさせたらいい・・・と。
「お姉さん」も、このはなしもどこまでがホントかわからないと話していたが、「事件」の翌年、李鵬に「浦東開発宣言」をさせても、動いたのは上海の一部のみ。中央は保守派が結束し、小平は身動きが取れなくなっていた。92年春の「南巡講話」は、北京のこのときのもつれがあったのでは・・・と。

 それから二~三年は「お姉さん」から年賀状をいただいたが、いまは“千の風になって”日中の空を飛びかっておられることであろう。 

  「6・4」も時間とともにその風化は避けられないが、日本の「60年アンポ」が高度成長のきっかけになったのとは次元も規模も異なる。世界史的にみてもこの事件がきっかけとなって、ソ連邦と東欧社会主義圏は崩壊、ベルリンの壁は打ち砕かれ、東西ドイツの統一がひとつのきっかけになってEU(欧州連合)の結成につらなる。
  中国経済の成長の基点にもなったこの「6・4」を、中国も歴史的に見つめなおす日が一日も早く到来することを期待したいものである。

  いま、中国語・日本語・英語とバイリンガルで詩を書く、田原(テイエン・ユエン)という詩人がいる。かれは「亡命者」という詩を発表しているが、91年、公費留学で来日した65年中国河北省生まれの中国人、いわゆる亡命者ではない。思潮社の現代詩文庫205「田原 詩集」の扉には、つぎのような紹介がある。
  2つの国の間に宿命を定めた精鋭中国人詩人の日本語詩集を集成。
  H氏賞受賞『石の記憶』ほか、日本と中国を詩のことばで結ぶ、新しい時代への懸け橋。

  かれの詩「亡命者」の一部を紹介しよう。

  祖国の風は
  あなたの心の中のともしびを吹き消したのか
  それとも異郷の太陽は
  あなたが遠出することを誘惑したのか(中略)

  網膜にうつされた風景は支離滅裂
  祖国は依然として彼の夢に見た古里
  郷愁は埠頭から始まり
  母語は死ぬまで続く(了)

                   (2015年6月4日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾六

2015-05-13 20:29:46 | はらだおさむ氏コーナー
夜霧のかなたへ

昨年末から、ふたつめのコーラスにもぐりこんだ。
「歌は世につれ・・・」(昨夏出稿)でご紹介したわたしの“歌はじめ?”は、
昨春の急性肺炎がきっかけであった。11月の宝塚市の文化祭で初舞台?を踏み、仲間の男女数名が他のコーラスにも出演するとかで、こんどは客席に座って出演グループの歌声に聞きほれていた。トリに出てきた仲間たちのグループはロシア民謡三曲、そのフィナーレー「行商人」では、会場からブラボー!の声と拍手で盛り上がり、文化祭の取り決めがなかったらアンコールと花束贈呈になるところであった。
 創部35周年を迎えたこの混声合唱団は、昨年から40歳余のプロ(伊・留学、関西二期会会員・バリトン歌手、合唱団指揮者)を迎えた、男女各十数名の四部構成で、大学グリーや職域コーラスのOBなどと才媛が集まっていた。楽譜も読めず、発声もまともでないわたしだが、このロシア民謡には聞き惚れた。団リーダーにお聞きすると、ロシア民謡だけではないが、そのうちに慣れますよと肩を押されて、はや半年、谷川俊太郎の「信じる」や石川啄木の詩も練習曲に取り入れられていて、いまも口パクでしがみついている。

 表題にあげた<夜霧のかなたへ>は、「ともしび」の出だしで、学生時代“うたごえ喫茶”などで声を張り上げたわたしの“ナツメロ”だが、戦地に向かう恋人を送り出す歌とは、いままで気がつかなかった。
 ♪ 夜霧のかなたへ 別れを告げ/雄々しきますらお 出でてゆく
   窓辺にまたたく ともしびに/つきせぬ乙女の 愛のかげ
 
 これは一番の歌詞だが、五番はつぎのように終わる(のばら社『世界のうた』)。

 ♪ 変らぬ誓いを 胸にひめて/祖国の灯のため 闘わん
   若きますらおの 赤くもゆる/こがねのともしび 永久(とわ)に消えん

 いま『世界のうた』で、この「ともしび」の歌詞を拾い出していて、ことのついでにと目次を分類してみた。全20カ国、131曲、地域を大雑把に米欧(含む東欧圏)と中南米とアジアに分けてみると、米欧は116曲、アジア(含むオーストラリア)9曲、中南米6曲となる。シニアのナツメロの世界だから、わかいひとたちの愛唱歌はもっと変っていることだろう。国別でみると、アメリカ(34曲)、ドイツ(25曲)、イギリス(22曲)についで、なんとロシアが16曲の4位に食い込んでいる。以下イタリア(15曲)、フランス(14曲)と接戦、スペイン、ポーランド各3曲、チェコは2曲、スイス、ベルギー、ハンガリー、ノルエーは各一曲である。

 この歌集を繰りながら、他の国はそのメロディーを聴いてみないとわからない歌も多いが、なんとロシア民謡だけは12~3曲のメロディーがひとりでに口をついてくる。うたごえ喫茶やいろんな集いで耳にしていたからであろうか。
 このコーラスでわたしより年長者はW大グリーOBのおひとりだが、同年のリーダーにお聞きすると、十年ほど前まではソ連帰りの方も何名かおられて好悪の対決もあったとか。ロシアの合唱曲は、特に男声コーラスがベースになるといい歌が多いので・・・と、やんわりにらまれる。

 このところ、むかし一緒にロシア民謡を口ずさんでいた学友の訃報が続く。
 わたしたちは“ほしがりません 勝つまでは!”と飢餓に苦しんだ世代だが、
父や兄たちのように戦場には足を踏み入れてはいない。いわば“銃後の世代”、「戦争を知らない」を歌ってきた世代の代表でもある安部総理の、戦後七十年談話にいま、世界の耳目が集まる。
かれが崇敬する祖父の岸信介氏に、わたしは個人的にうらみがある。
1958年の、いわゆる“長崎国旗事件”で岸内閣がこれを器物破損罪(軽犯罪)で処理して、国交未回復の中国側からの謝罪要求に応えず、日中間の交流が途絶、それからの数年間、わたしの日中経済交流の仕事は開店休業とあいなった。
かれは60年アンポの反対闘争で国会議事堂を取り囲まれ、辞任に追い込まれたが、その前世~戦時下では、満州国の経済官僚のトップのひとりであり、東条内閣では商工相・軍需次官を歴任、戦時経済を指導した。戦後A級戦犯容疑者として逮捕され、48年末まで巣鴨刑務所に抑留されているが、米ソ対立の深まりのなかアメリカの対日政策が右傾、(何か満州国時代の情報提供などの裏取引もあったのだろうか)かれは釈放され、52年4月に公職追放も解除されて政界に進出、56年には総裁・総理に着任している。晩年のインタビューで「大東亜共栄圏はずいぶんと批判があったけど、根本の考え方は間違っていない」と語っている由だが(塩田潮著『「昭和の怪物」-岸信介の真実』~法学館憲法研究所HPより引用)、安部総理の心底にもこうした考えは流れていないか。

過ちを認めるのは、潔良い方がいい。
徳川家康は、政権樹立直後、秀吉の朝鮮征伐の尻拭いをしてその非を詫び、
日朝の国交正常化を実現、朝鮮通信使の受け入れを実現している。これには多額の出費も要したが、先進技術の導入や文化・芸術の交流も促進された。何よりも大きかったのは、秀吉政権時に植え付けられた日本人の対朝認識の払拭であったと見られている。当初は比較的定期的に実施されてきたが、正徳元年(1711)のとき、将軍家宣のご意見番に着任した新井白石は財政難を理由に以後の経費減額と期間の大幅な延長を申し渡した。幕府の対朝観に変化が生じてきたのはこのころからで、幕末の征韓論に行き着くとみられている。
 そのさきは明治以後の朝鮮併合・植民地化につながる。
 口先のお詫びだけでは、通じないのである。
 数字や事実のツメは、学者同士の研究と交流に任せておけばいい。
 ドイツの政治家が、アウシュビッツで誠実に詫びたからこそ、いまのドイツの先進国におけるリーダーシップが是認されているのである。
 そのドイツだが、東独出身のメルケル現首相は就任時の07年に消費税率を16%から19%に上げるとき軽減税率を食品に適用して7%に下げ、高額所得税率を3%上げて45%として、国の借金―国債をゼロにしている。日本の国債残高はいまひとりあたり800万円と倍増し、円安で企業業績はこの世の春を謳歌して、株価の上昇でミリオネールはふえているだろうが、それはどれだけ国益に貢献しているのか。ババをつかむのは、いつも庶民。戦時国債があの敗戦のとき、一片の紙切れに化したことを覚えている人も少なくなったであろうが、昨今中国がドル預金残高を減らし日本がトップになったことをどう見るか。中国人民元の国際流通化も進んできている。アメリカ経済があのときのように傾いたとき、日本の国債残高は耐え切れないであろう。ジャパン・デフォルト→強い日本に作り変えるのは、その財政管理である、軍事力ではない。アメリカの軍需産業―死の商人の思うままに軍事力強化~兵器の増強を図り、自衛隊の海外派遣を認めて、その傭兵になるのはどういうことだろうか。

 ロシア民謡からのはなしが、硬い・きな臭いものになってしまったが、青春のあのとき声を張り上げて歌ったあのうた、そう「黒い瞳の」でも歌ってお別れにしよう・・・。

 ♪ 黒い瞳の若者が わたしの心を とりこにした
   もろ手をさしのべ若者を 私はやさしく 胸にいだく ♪ (了)
 
                      (2015年5月14日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾五

2015-04-20 21:42:28 | はらだおさむ氏コーナー

妻への家路
 
  先日(3月中旬) 久しぶりに中国映画を観た。
  チャン・イモウ(張芸謀)監督、コン・リー主演の『妻への家路』。
  このコンビの作品は、久しぶり。コン・リー出演の合作映画『上海』は三年前に見たが、チャン・イモウの作品は高倉健主演の『単騎 千里を走る』以来である。
  『赤いコーリャン』でデビューしたふたりの映画は、90年代半ばまでかなり興味をもって見続けてきたが、コン・リーがシンガポールの実業家と結婚して中国を離れて以来、このコンビの映画を観る機会がなかった。

  ネットで見た予告編の解説は、つぎのようであった。
   1977年、中国。
   文化大革命が終結し、20年ぶりに解放されたルー・イエンシー(チャオ・ダオミン)は妻のフォン・ワンイー(コン・リー)が待つ家へ帰るが、待ちすぎた妻は心労のあまり重い記憶障害になっていた。イエンシーは娘タンタン(チャン・ホエウエン)の助けを借りながら、“親切な他人”として向かいの家に住み、収容所で書き溜めた何百通もの妻への手紙を彼女に読み聞かせ、帰らぬ夫を駅に迎えに行く彼女に寄り添っていく・・・。

  文化大革命がはじまったのは、1966年8月。
  チャン・イモウは16歳の多感な少年であった。
  前述の解説では、「20年ぶりに解放された」とある。
夫ルー・イエンシーは、文革がはじまる10年も前から辺境の地の「収容所」へ送られている、いわゆる「右派分子」。コン・リー演じる妻フォン・ワンイーは20年余の別離生活を強いられているのである。

 「右派分子」をひと言で説明するとどうなるか。
 倉石先生の『岩波中国語辞典』(1963年初版、83年19刷版)には、「社会主義陣営内での保守派」とある。
 竹内実先生の短文「王蒙さんのこと」に、つぎのような文節がある。
  ・・・やがて、北京の市民、それも党機関につとめる青年を主人公にした小説が出て、一字々々、肝に銘じるようにして読んだ。「組織部に来た青年」。作者は王蒙(ワンモン)。
  いかにもみずみずしい感覚で、この主人公は、新しい社会にたちむかっていたのである。ところがまもなく右派批判がはじまった。右派というのは、新しい社会に批判的な人たちに貼られたレッテルである。王蒙さんも右派にされた。一九五七年のことである。そのあと文化大革命があり、またさらに曲折があった。王蒙さんは文化部部長になり、しばらくしてやめた。・・・(竹内実[中国論]自選集三「映像と文学」)

 コン・リーの夫ルー・イエンシーが「右派」にされたいきさつは、映画では説明がない。しかし、自宅にはピアノがあり、のちに妻の記憶を呼び覚まそうと「調律師」を演じるシーンなどから音楽関係の「高級知識分子」であったとは推察できる。
 前述の解説では、妻がなぜ記憶障害になったのか説明はないが、この映画の前半をすこし紹介しておかねばならないだろう。
 映画は舞踏劇『革命娘子軍』の練習風景からはじまる。
 毛沢東夫人江青が主導したバレー劇、おそらく「四人組」が跋扈していた七十年代の前半のころであろう。その音楽や舞台のしぐさは、中国の中年以上のひとたちにとってもナツメロ的感慨をもたらしたことであろう(わたしもその気分になった)。イントロとしてはうまい演出である。
 娘タンタン(チャン・ホエウエン)は、この舞踏劇の主役争いをしている。
そこへ、父が辺境の収容所から脱走したという情報がもたらされる。
劇団の幹部から密告したら、主役に抜擢するとの甘言が・・・。  
大雨のなかの逃走シーン、わが家にたどりつきドアーの下から差し込む妻への手紙。娘は反対するが、妻は夫への弁当つくりや替衣の準備に追われ、密かに家を抜け出して、夫との出会いへ。娘は幹部に母の行動を密告する。その、逮捕劇のシーンは、思わず手に汗する。

 文革が終わった。
 辺境地から「右派」たちが、つぎからつぎへと帰ってきた。
 夫も帰ってきたが、妻は記憶障害になっていた。
 娘は母から“勘当”されて、工場の宿舎に別居していた。
 この認知症は、どうなるのだろう・・・マダラボケ? 夫以外のことはしっかり記憶していて、日常生活にはさしさわりがない。娘の密告で、夫を逮捕して再度流刑地に送り返した「幹部」への憎しみは根深い。夫はこの「幹部」に会おうと遠くの引越し先を訪ねるが、その妻に追い返される。「夫」はいま監獄にいる、「帰れ!帰れ!」と叫ぶその妻のしぐさは、同じ「過ち」を犯しているその「体制」批判と受けとめたが、いかがなものであろうか。

  チャン・イモウが26歳のとき、文革が終わった。
  その2年後 かれは高倉健の『君よ憤怒の河を渉れ』(中国名『追捕』)を観て感動、いつかは高倉健を主人公にした映画を撮りたいと念願していた。『単騎 千里を走る』の撮影でその夢は実現したが、彼の北京の事務所には高倉健から贈られた日本刀が掲げられ、「いつも高倉さんに見守られている気がする」と語っている。
  昨年末、この映画の日本上映のため来日したとき、思いもかけず高倉さんがこの映画のDVDをご覧いただいていて「イモウは自分の一番よく知っている、一番得意な映画を撮ることができたね」と、共通の友人に話しておられたことを知り、感動したと語っている。
  この記者会見では、さらにつぎのようなことを述べている。
・本作は小説を原作とする文芸作品で、派手な演出は一切ないものの、本国では興収3億元(約57億円)というヒットを記録した。文革時代の悲劇を扱っているが、普遍的な夫婦愛を描いたことが多くの観客の心をとらえたのだと分析する。
  ・関連資料によると、中国全土で「右派」とレッテルを貼られてさまざまな懲罰を受けた知識人は55万人くらいいた。
  ・この映画はゲリン・ヤンの小説を原作にしているが、いまの中国でこの小説の内容すべてを映画化することは、まだまだデリケートな問題があり出来ていない。小説では夫ルー・イエンシーは上海在住の教師または教授。父の代からの「知識分子階層」で、海外にも留学経験があるなど原作では詳しく書かれている。
  ・妻が持っていく、夫の名前が書かれた看板は原作にはなかったが、コン・リーのアイデア。夫婦のさまざまな感情が描き出せ、物語の幅が広がった。

   中国も自己の歴史を振り返る余裕は出来てきたが、まだ限界もあるらしい。「温故知新」という古語をあらためて電子辞書(広辞苑)でひいてみた。冒頭につぎのような説明が出てきておどろいた。
  「論語(為政):温故而知新、可以為師矣」(古い事柄も新しい物事もよく知っていて、初めて人の師となるにふさわしい意)とあった。

  中国の映画の世界ではまだまだ制約があるものの、むかしを見つめなおそうとする動きが出てきたのはいいことだが、あの天安門広場の「自由の女神」が東西ドイツの壁をくだき、社会主義圏諸国を崩壊に導いたその歴史的意義を考えることは、「人の師となる」政治家に求められることではないだろうか。

                 (2015年4月16日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾四

2015-03-13 09:20:50 | はらだおさむ氏コーナー

表紙の写真




 昨年末上梓した小著『徒然中国―みてきた半世紀の中国』の表紙の写真について、読者から質問が舞い込んでいた。
 あの建物はなんですか、だれが撮った写真ですか・・・。
 あれは2010年の9月、上海万博の会場でわたしが撮ったものだが、織物のような壁からわたしはてっきりむかしの日本の紡績工場を活用したものと思い込んでいたのだが・・・。

 その後しばらくしてから、手持ちの『上海―歴史ガイドマップ』(木之内誠編著・大修館書店刊、2004年4月再販)を開いた。
 紡績工場はない・・・。
この写真の建物は、万博会場Eゾーン・ベストシティ実践区の、パビリオン実践例(中部)の一画にあった、と記憶する。
上海の友人に問い合わせをすると、南市火力発電廠の敷地内とのこと。あらためて、「上海万博公式ガイド」をとりだして眺める。
あった!・・・。
高い発電所の煙突の突きん出たイラストマップの片隅に、この建物群が描かれていた。『上海―歴史ガイドマップ』によると、「南市発電廠(1897)」とある。
 「チャイナプレス」(07年10月29日)はつぎのように報じている。
   先日、110年の歴史を持つ黄浦江上海南市発電所が操業停止された。
   上海市では、今年3ケ所の小型火力発電所を操業停止する予定(中略)。
   これにより、上海市黄浦江流域にはほぼ火力発電所がなくなる予定。
   
 内外綿や華紡(カネボウ)の工場や宿舎などが、上海の東部・普陀区周辺に散在していたことは横光利一の小説『上海』などで先刻承知していたが、わたしの思い違いにしろ、この織物風の壁はシャレていて火力発電所の建物には似つかわしくない・・・どうなっているんだろう?
わたしはこのとき一緒に参観したメンバーや建築関係者、上海在住の日本の方などにメールした。
 ひとつのヒントがもつれた糸を解きほぐしていった。
 換骨奪胎、とでもいうのだろうか、上海の都市改造でよく使われている手法で、古い工場とか倉庫などを再生する=創意園区(クリエィティブ・パーク)。  
すでに新しい観光地区として甦っている「田子坊」、「新天地」、「8号橋」は数年前にも足を運んでいたが、この写真の建物もその手法で改造・創生されたのではないか・・・。
 浮かんできたのは「8号橋」をコンペで入札、「創生」させた企業であった。
 2003年、三人の日本人の建築家が上海で創業した設計事務所。
 この「8号橋」の実績を踏まえ、05年には上海万博当局からの指名入札で、わたしの「表紙の写真」の建物の、リニューアルを完工した。いまでは日本人十数名を含むスタッフ七十余名の現地企業として、基本設計から将来的には実施設計についで設計管理までをトータルにこなせる、完全な設計事務所を目指しているとのこと。若いスペシヤリストのこれからのご活躍が楽しみである。

 2010年9月、「上海都市研究会」のメンバーなど十数名が上海万博参観に出かけた。
 空港から上海の旧県城(租界ではないオールドシャンハイ)へ直行、城壁から新旧混在の街並みを眺めたあと、すっかりきれいになった文廟(孔子廟)から蓬莱路へと足を運んだ。この303弄「老街保留区」は、上海都市研究会誕生の地点でもある。

 82年6月、大阪府日中友好協会の外郭団体の事務局長に就任したわたしの第一歩は、前年の学者先生方の「上海・江蘇経済開発区」(当時)視察のフォローアップにあった。
大阪市-上海市の友好都市提携のあと、学術交流の交換教授として上海同済大学に長期赴任されたことのある大阪市大の斎藤和夫先生(大阪)と同済大学の李徳華教授(上海)をキャップに、双方の都市計画の専門家が上海の市内と郊外の二箇所で実態調査、共同考察を行い、改造計画を練り上げた。
 南市区蓬莱路の対象地点を魚眼レンズで撮影していた専門家が住民に取り囲まれ、難詰されるというハプニングもあったが、日本側提案による「旧区改造プロジェクト」は認可され、85年5月には当時の担当副市長と会談、その労をねぎらわれた(「日経」のトップ記事として報道された)。
 この共同考察のなかで上海の専門家との交流は深まり、上海万博と旧南市区の改造についてさまざまな情報の交換があった。いまネットで検索すると『段躍中日報』にもその一端が出てくる。

 「303弄」に着くと、地区街道委員会の腕章を巻いたひとたちがいろいろと世話をやいてくれた。あとで上海の友人に伺うと、この地区はいまでは地方出身者の居住地になっているという。
 80年代の「改造計画」では、複数の家族が住まいするこの石庫門住宅をより快適に過ごせるようにと「改造」したのであるが、いまではここの「南市区」住民は新しい高層住宅に移転、家賃が安いので「非市民」が大挙流入してきているとか・・・街道委員会のひとたちは、わたしたちが90年代のはじめのように各戸を訪問・見学などをして、いまの住民とトラブルが起きないよう「配慮」していただいていたのであった。

 夕食は「上海新天地」のレストランでとった。
 この地区もリニューアルされたものであるが、押すな押すなの大盛況で「まち」は拡張され、このレストランも「新開地」に―外観は古めかしいが「新築」されたものであった。「303弄」以後交流のある旧南市区の都市計画担当の副区長であったCさんなど老朋友をお招きしての宴(うたげ)は、思い出話で盛り上がり、尽きることがなかった。
わたしと同年と思い込んでいたCさんは二つ年上であったが、住民の新住宅への移転に全力を尽くされたご本人が未だエレベーターのない4階の旧住宅にお住まいと知って驚いたこと、豫園の改造計画のはじめからその実施・完了まで総指揮も執られたご本人がいまそのいきさつを本にすると部数の2割を自己負担で買取りとか、いろいろと身につまされるお話もあり、別れが惜しまれた。

先夜 「上海都市研究会」のメンバー四名が会食し、今秋 上海を再訪することになった(四泊五日)。
わたしの「表紙の写真」の現場を含め、上海万博の跡地利用の視察とハンガリーの建築家ラズロ・ヒューデックの記念館(旧住居)や上海に残る国際飯店
ほか彼の設計した建造物の見学ツアーである。
 細目はこれから詰めることになるが、わかいひとたちの企画と行動力で安くて楽しいたびのプランが間もなく出来上がることだろう。

三年目の上海、今宵はひさしぶりに春がやってきたような華やぎを感じて酒盃がかさむ。

(2015年3月12日 記)