中国へ行く
最近この『徒然中国』を本にしないかというお話があって、その序文のおわりに次のようなことを書いた。
・・・「点と線」の〝走馬看花〟で北はハルピンから中朝露国境の琿春、南は海南島、西はカシュガルからパキスタン国境の近くまで足を伸ばした。省単位でみれば西蔵と青海省(3千メートル以上の高地はドクターストップ)、内蒙古(定員不足)の三地方を除けば一応その全域に足跡を残したことになる。一泊二日も含め訪中歴二百数十回、もうフライトで動き回るのも疲れてきた。これからのたびは、古文書の世界が多くなることだろう。
初訪中は、1964年2月。
もちろんまだ日中の国交は正常化されていない。
香港の旅行社で入国ビザを申請、取得までの数日、はじめてのホンコンをフエリーや車で巡りまわった。案内してくれたのは東京のメーカーの紹介で知り合った小さな土産商の次女(中2)、日本語はコンニチワとオジサンしか知らなかった。
数十日の北京滞在(商談)のあと、寝台列車で上海へ・・・閑古鳥の鳴く和平飯店に数日滞在、公司の招待宴のとき、主賓の案内で上海大厦の屋上へ出て、この先がむかし日本人が多く居留した虹口(ホンキュウ)区と紹介された。南京路の商店には公私合営の看板が掲げられ、客足もまばらであった。
上海から広州までは飛行機で。
虹橋空港から小型機に乗り込んだのは日本人(わたしひとり)、中国人(三人)、その他外国人(十余人)。昼食や給油で杭州、南昌に立ち寄り、広州の白雲飛行場に着いたのは夕刻の4時、まだ真夏の太陽が照り輝いていた。
翌4月15日開幕の広州交易会に参加の日本人200名に名を連ねて交易会開幕レセプションに参加、上海からの機内で同乗の外国人と顔を合わす、オ~、ボンソワール マダム、ボンソワール ムッシュウ。
翌日から地図を片手に広州市内を歩き回った、汗まみれの初訪中、29歳の春であった(拙著『私の見た中国のクルマ』所収「中国見たまま、聞いたまま」を再読・回想)。
深圳の海関で、おかっぱ髪の兵士とツァイチェンと握手をしてご機嫌よく橋を渡って香港サイドに入ったとき、問題がおこった。担当官の早口の英語が聞き取れない、筆談の英会話になった。北京に戻ってイギリス大使館で香港入境ビザを取って来い(当時ホンコンはイギリス領)ということ、えぇ~そんなこと、でけまへん・・・、結局48時間以内にホンコンから出境することというビザをもらったが、香港政庁での罰金支払い命令がついていた。
また土産商の少女に香港政庁に連れて行ってもらうことになった。
小物のお土産を買いながらよもや話のとき、帰路オキナワへ立ち寄ると聞き及んだ店主は、フライトは台北経由になるから止めたほうがいい、「中共」へ行ったことはすぐわかるからそれはリスキーだ、逮捕されるかもと忠告があった。わたしとしては二度と海外旅行?など出来ると思えない今回の訪中、事前にアメリカ占領下のオキナワをこの目で見たいと渡航証明書を取得していた。ダイジョウブですよ、と自分に言い聞かせて搭乗したが、さすがにタイペイの中正飛行場(現桃園国際空港)で二時間のトランジットは長かった。
降下中の機内から見るオキナワは、米軍の基地そのものであった。
税関にひとしい窓口ではわたしのパスポートを見るなり、「中共」からの帰りですか、とつぶやかれた。旅券に国交未回復の「中共」への出入の記録はないが、香港の入出境記録は残っている。香港から先、どこへ行ったか、「中共」しかないではないか・・・早速那覇の身元引受人へ電話確認され、トランクはボンド、二泊三日の滞在許可は出たが、身元引受人の到着まで、その場で監視されていた(「日本」の方が台湾より「中共」帰りには厳しかった!!)。
ここで北京滞在中お世話になったAさんのことを記しておきたい。
前年度の北京日本商品展覧会に出品したメーカーの役員の紹介で、Aさんにお目にかかった。
当時Aさんは保健所の産児制限の指導員であった(とお聞きしていた)。
北京生まれ北京育ちの日本人、日本へは徴兵検査のとき本籍地に行っただけ、いまは北京郊外出身の女性と結婚、たしか二女二男をもうけ、四合院内の一角で睦まじく暮らしておられた。日本と国交正常化すれば中国に帰化するつもりとも話しておられた。
輸入商談は一週間ほどでおわり、あと輸出商談のきっかけをつかみたいと滞在を延長していた。当時日中間の航空便は香港経由で片道一週間は要した。週一~二度の郊外(当時の感覚)の公司との商談のあと、北京動物園の泥だらけのパンダに“きょうもダメでした”と報告して、バスでホテルに帰る日々、わたしには時間がありあまっていた。そうした折、Aさんの職場に電話するとすぐホテルへ来られて雑談、よく市内の名所や酒坊などを案内していただいた。
初訪中で種まきした輸出入の商談はその後順調に伸びて、北京に駐在員事務所を開設した七十年のはじめ、仕事の合間にAさんの四合院内のおうちを訪ねたが引っ越されていて、その後の消息は不明であった。
文革も終結して一段落したころであったろうか、会社へAさんからの手紙が届いた、東京の消印がついていた。お会いして驚いた、現地応召の復員軍人として家族全員を連れて日本へ帰ってきたという。その後出張で上京の都度お会いしているなかで、文革中の苦労話もあったが、一番驚いたのはかれが公安の手先であった、という告白であった。日本の商社の駐在員や出張者と接触、その言動を文書にして上部に報告していたという。公司の前では中国を礼賛、Aさんには中国の悪口ばかりいうひともいた、こういう二枚舌の人にはいい報告は書けなかった。あなたの場合は、裏表がなかった、中国への疑問は同感できることも多かった。日本へ帰国したのは、文革で見た中国の姿に失望したから、あなたに身分を隠していたことをお詫びしたいと。ご逝去の報が届いたのはこの告白からしばらくのちのことであった。
会社勤めのころは、どちらかといえば企画とキャッチャーの仕事が多かったので訪中は出張ベースで年2~3回。回数が増えたのは、対中投資アドバイザーに転職した80年代の初期から。上海市外事弁公室のご支援で、多いときは月2~3回、投資希望者を帯同して上海を訪問、企業の視察や投資相談を繰り返した。パスポートを増頁しても追いつかず、有効期限内の旅券を更新したこともある。「日本ミシンタイムス」と共催の訪中視察団の派遣は、その後の日中両業界の交流につながり、意義深いものになった。
90年はまず浦東開発ではじまり、上海と大阪で双方の専門家によるセミナーを開催、その推進の先頭に立った。その後進出企業のフォローアップ、主として労務問題にしぼった現地セミナーを共催、以後中国総工会とタイアップした中国各地の外資企業の視察と交流のたびにも加わった。
仕事を離れてからは友人・知人との中国のたびが多くなったが、そのなかの旅行記のひとつが『中国の“穴場”めぐり』(日中関係学会編・日本僑報社刊、1500円+税)に収録された、【司馬遷の故郷 陝西省韓城市】(付“山椒の味”)。お近くの図書館にでも購入していただいて、まずは本で中国旅行を楽しんでいただきたい。旅は道づれ、お誘いいただければまたお供させていただく余力があるかも・・・。 (2014年10月15日 記)