オンナヘンのこと
オンナヘン・・・
女ヘン・・・女が変・・・、そんなことを言っては叱られる。
漢字のつくりのオンナヘン、そう、女偏のことである。
はじめてフランス語の授業に出たとき、フランス語に男性と女性があると耳にしてオドロイタ。あのパリコンミューンを戦ったフランス人の言葉に、男女の区別があるのか、主語が男性なら述語も男性、そして女性も然り。なぜか?こんなことがアタマのなかで回転しはじめると、年老いた神父さんのフランス語が耳の外に流れる。なぜか?そんなことは、ピカピカの角帽をかぶったばかりの新入生にわかるはずがない。図書館へ行っても、これは調べようもない。突然、漢字ではどうなんだろうと漢和辞典をひもとく。あるはあるはオンナヘンには、佞、妄、妨、妖、妬、姦、怒、・・・・となぜか否定的な、蔑視の言葉が多い。わたしはなんだかエツにいって、母校(高校)の新聞へ「オンナヘンのこと」と題するエッセイを書き送った。
「四人組」が逮捕されたとき、わたしはハノイに居た。
初めての団体旅行、ベトナム経済視察団に参加してラングーン(当時)経由で到着、北爆でメタメタに壊された、穴ぼこだらけの街なかを歩き回っていた。
帰路、中国民航で北京へ移動するとき、南寧空港でわたしの隣に座った人が手にする新聞に、軍服姿の妖怪変化な悪女の写真が載っていた。北京の知人の話では、数日前公衆トイレで新聞で顔を隠して用を足していると、隣の見知らぬ人から“逮捕”のニュースをささやかれた。さぁ、それからがドンちゃん騒ぎ、北京の酒はカラになってしまったよと、親指を立てた。
日本と中国が国交を正常化してから、まだ四年目の秋のことである。
「八十后」の親の世代なら、文革のあのとき、紅旗を押したてて農村に行った人も多いだろうが、そのころは男も女も同じ人民服、颯爽とした女性は“革命劇”映画のヒロインのみであった。
文革が終わり、操業が再開されても、元紅衛兵たちは工場の片隅でとぐろを巻き、饐えた雰囲気をかもし出していた。
外資の委託加工の従業員もみな同じ人民服姿であったが、女性の襟元や袖口から可愛いブラウスがのぞき見られるようになってきた。まだみんなが貧しい時代であったが、春がやってきたのだ。
そんなときのことである。
何の用があったのか、上海の婦女聯本部へ行ったことがある。
「中国の女性は天の半分を支える」、そんなことばが幹部の口から紹介される。幼児からの全託の保育施設も見学、なるほど女性の社会活動に万全の策がとられていると感心する。大きな工場では自前の託児所も設置され、女子労働者の便宜を図っていた。
それはいい、しかしスローガンは「整理・整頓・清掃」など工場の3S、5S運動などと同様の目標であって、現実は未達成ということ。「天の半分を支える」ために、男も料理が上手になり、老人たちは孫の登下校をサポートする。「八十后」の青年たちにはこんな思い出もあるだろうが、「九十后」の世代はどうであろうか。コンビニでの朝食、電子レンジで暖めた夕食、そして親子三人バラバラの核家族・・・。
日中の国交が正常化して、今年は四十年の節目の年。
大阪万博のあと「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本は高度成長の波に乗り、アジアの経済活性化の起爆剤となった。そしていま、中国は上海万博のあと世界第二の経済大国となり、日本や世界の経済活性化に貢献しているが、そこでも日系企業が活躍している。
中国の女性の足元をきれいに見せたいと設立されたストッキング工場、寝たきり患者の床ずれ治療のためにと請われて上海の郊外に工場を建てた医療機器メーカーなど、設立二十余年のいまも中国のユーザーに親しまれている。
この四十年、ときおり激しい風浪にもまれることもあった日中関係だが、経済だけではない、双方の交流はあらゆる分野で根付いてきているのである。
四年前小冊子『ひねもすちゃいな 徒然中国』を発刊したとき、竹内実先生に序文を書いていただいた。そのなかにつぎのような漢俳が織り込まれていた。
「 せんじつ、漢俳の作句を依頼され、苦しまぎれに一句つくった。
漢字で五、七、五をならべるのが漢俳である。
結 氷 層 層 封
双 方 不 乏 遠 見 人
毅 然 送 春 来
氷結びてかさねがさね封ずるも
双方遠見の人乏(とぼ)しからず
毅然として春を送り来(きた)る
これは陳昊蘇(ちんこうそ)・中国人民対外友好協会会長のつぎの句をうけた。
氷 雪 喜 消 融
一 衣 帯 水 尽 春 風
山 海 看 花 紅
氷雪消融するを喜ぶ
一衣(いちい)帯水に春風を尽くし
山海に花紅なるを看る
陳会長のご尊父は陳毅外相である。それで拙句にお名前を入れ
させていただいた。(NHK中国語テキスト4月号に掲載) 」
元旦に、いまは賀状も書けなくなった学友に電話した。
死ぬほどではないが、まぁ元気や・・・もう出会ってから六十年になるのやなぁ、今年もよろしくな・・・。そう、六十年前のあのとき、のっけからつまずいたフランス語はとうとうモノにならなかったが、学友たちとのつながりは続いている。そして、歳をとるとオンナヘンにもやさしいことばがいくつもあることに気づいてきた。その一番が好、ハオ!だ。ガタガタと言う前に、まず握手をして、尓 好!(ニ ハオ!)と声を出そう。これが友好と相互理解のの出発点だ、尓 好! ニ ハオ!
(二〇一二年一月十四日 記)
★はらだ おさむ(プロフィール)
一九三四年、尼崎の寺町に生まれる。
いまは宝塚の清荒神、むかしふうにいえば、摂津国川辺郡米谷村西梅垣内に住まいすること四十余年。
高校時代、『三太郎日記』などの読み違いで、文系に理数は要らぬと勘違いして図書館にこもり読書三昧。
高2の夏、テニス部の顧問に志望校を聞かれ、いまは新制大学、たとえ文系であろうと理数は必須科目と
指摘されたが、ときすでに遅し。
高望みした一期校は“サクラ チル”、二期校の大阪外大に入学するも語学は不適性。
原爆反対など“平和運動”に明け暮れる。
卒業後、日中ビジネスに参画。前期二十五年は貿易(輸出入)、後期は対中投資アドバイザー。
草創期は熱中するが、成熟期になると人任せとなる性向。
いまは七十の手習いではじめた“古文書”学習に熱中、余生を楽しむ。