くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

お彼岸参り

2011-09-27 09:33:56 | 四季おりおり




我が家のご先祖様は、浄土真宗西本願寺さんにお祀りしてある

年間に何度かお参りに出かける

秋の彼岸には

ご先祖様もお待ちかねかと京都の西本願寺さんまで

新しくなった部屋で全国からの参詣者に交じり

読経を上げてもらい、焼香をして、法話を聞かせてもらい

心安らかにお参りしてまいりました



★つながるるDNAや彼岸入り

旧マイカル(ショッピングセンター)・旧大和ホテル

2011-09-25 22:23:17 | 




元マイカルショッピングセンター
現在は中国資本の店舗、階上はファッションビル、地階はスーパー、
さすが日本人が4万人も暮らしている大連、日本の商品も揃っていました。
値段は高いです


旧大和ホテル
建物は元のまま、大連の中心街にあり落ち着いたホテルです。
現在は外国からのVIPが宿泊できるとのこと、私たちはティタイムを楽しみました。
そこここに当時の面影を残していて、落ち着きます。

中山広場・老虎灘・市電

2011-09-21 12:22:57 | 





中山広場
大連の中心で、まわりには銀行やホテル、百貨店、官庁街となっている
もちろん、旧大和ホテルもある

老虎灘
大連の景勝地、黄海に面した公園に北京オリンピックのマスコット・福娃のデザイナー「韓美林」
作の35mの巨大な6頭のトラのモニュメント(石造)
この公園で、しばし海風をうけて中国の方たちの休日を共有していると、子どもが男の子が多い
やはり男の子が欲しいのかと聞いてみると、100人の女子、118人の男子の割合だそうで
目前に少子化問題が迫っているらしい。現状結婚できない男子は6人に1人だそうだ。
でも、景勝地の橋の上では幸せな結婚式の撮影が行われていた。
結婚披露宴は、盛会で200人から300人ほどの客が集まるそうです。

市電
1元(13円)で乗車できる大連で一番古い市電
運転手さんは女性が多いらしい
話しかけられても、ぜんぜん通じない!!
それとも、地元民にまちがわれたか?

旧日本人街・大連鉄道局(満鉄)・アジア号車庫・旧ロシア人街

2011-09-21 10:34:20 | 




旧日本人街
春に行われる『アカシア祭り』のメーンストリートの両側に
旧日本人街が残っている。
もちろん、今も使用されていて、数家族で室内を仕切って住んでいる様子
煉瓦造りの住宅
いつまで保存してもらえるのだろう。
周りには、豪華な新築住宅が建っているが、高価で入居はあまりないらしい

大連鉄道局(満鉄)
大連港の前にあり、現在も鉄道関係の職場として使用されている
内部の装飾は、当時のままらしくて美しい
当時の日本人従業員はこの部屋から豊富な物資輸送を指示していたのだろう
暗い長い廊下を、ひそかに歩いてみると各部屋では数人の人が仕事をしている
電話も鳴らず、静かでした

アジア号車庫
この中に、アジア号が保存されていたのは感激だった
大勢の中国人も働いていたようで、石炭室や運転室などはいることができる
当時の煤や油煙のついた車体を、残してもらえたのは、日本人観光客のためか
どちらにしても、うれしい

旧ロシア人街
ロシア建築の建物が、すこし残されている
メーンの通りは、屋台ので店と土産物店



旅順ー203高地・白玉山・旅順駅

2011-09-19 10:45:53 | 




日清戦争・日露戦争に旧日本軍が攻略、そして租借した資源豊富な大連
その戦場になった旅順
NHKの放映「坂の上の雲」で、このところ日本人の観光客が増えているとのこと
(私もその一人だが)


203高地は、203メートルの小高い丘のような山
きれいに整備された山道を登れば、当時の遺品が整理され残されている
旧日本軍のロシアとの攻防戦が手に取るように見渡せる場所


水師営会見所は、日露戦争中(1905年)1月に降伏したロシア軍司令官
ステッセルと第三軍司令官 乃木希典の会見がここで行われた
(そのあと、米大統領ルーズベルトの斡旋によりポーツマツで講和条約成立に
つながる)
水師営は清代に各地に造られた水師の屯営だったところ、当時は野戦病院だったとか、
粗末な狭い平屋建ての建物



第2次大戦後はソ連の管理となり、1955年中国に返還された。
旅順駅では、満州鉄道に勤務していたというご老人が話しかけてこられ
きれいな日本語で当時の話をあれこれとされた。
日本人が駅に立ち寄られるのが楽しみで、話に来られるとか。
満鉄時代はよかった!! と懐かしそうに話された。
列車は掃除が行き届いていて、のんびり走る。
車窓からは、採掘された石炭の山。これが大連で富裕層につながる宝物

旅順博物館

2011-09-13 13:21:00 | 





ロシア建築の建物に日本が「関東庁博物館」跡、現在は「旅順博物館」


そして、第2次大戦後 大谷探検隊がシルクロードより蒐集した数々の蒐集品を中国に譲渡し

展示されていたり、ミイラが展示されているので有名。(撮影禁止)









大連 夜景散策

2011-09-13 11:15:11 | 




大連の夜は市民があふれている

市民が集まる夜市や人民広場(赤の広場より広いっていってたけど、ホントカナ?)夜の闇でわからない。

その周りのマンション群の屋上に赤々と照明がついているマンションはほとんどが炭鉱王の持ち物で、

億ションだって・・・・・

テレビ塔は、大連が見下ろせて気持ちがいい。

発見したのは、大連と韓国、ソウルまでは40分の空路

北京へ行くより近い。日本までは2時間30分

大連港から韓国経由で日本にどんどん大連の資源を輸送してていた時代のにぎわいを、

「坂の上の雲」の背景とからませて思った。

だから、当時の大連在住の日本人たちは日本に帰りたくなかったんだ

大連・金州市

2011-09-03 18:11:12 | 




「坂の上の雲」で人気になりつつある大連。私は少し年代が違うので日清戦争、日露戦争をたどりながらの旅は、
トルコのボスボラス海峡でのバルチック艦隊の封鎖を思い起こしながらの大連軍港での戦いぶりを目のあたりにして、
当時の日本軍の戦略や戦術を目のあたりにし、当時の日本軍の活躍ぶりに感激した。



金州市は渤海と東海に囲まれた地帯
北朝鮮からも近く、高句麗と争った時代もあった

大黒山の朝陽寺という道教の古寺があり、そこでは健康と幸、富を祈願する
白いカエルや、金色の鯉や、カメなどを買い求め寺の庭にある池に放せば
願いがかなう。

大黒山の観水響は、滝水の音も涼やかな名勝

また、果物やトウモロコシの産地でおいしい


 

★日清・日露戦争

http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89#.E6.88.A6.E4.BA.89.E7.9B.AE.E7.9A.84.E3.81.A8.E5.8B.95.E6.A9.9F




徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾弐

2011-09-03 17:55:57 | はらだおさむ氏コーナー
                
中国人民元のこと



 為替のことは、神様でも先を見透すのは大変なことであろう。

 わたしの初訪中の一九六四年は、日本も固定相場で一ドル三百六十円の時代、
持ち出し外貨はひとり五百ドルの制限があった。これで何日かかるかわからない北京商談に持ちこたえられるかと、いただいた餞別などの日本円を腹巻に隠し持って北京で約七十日(帰途上海ー広州)、往復とももちろん香港経由でなんとか過ごしてきたが、人民元は世界通貨とリンクしない(世界一強い通貨と自称)百三十五日本円/一中国元であった(これは計算上二・七ドル/元となる)。
 そのころの中国人の平均賃金は如何ほどであったかは把握していないが、後年日本からの“帰国子女”で日本関係の仕事をしていた女史に伺うと四十元くらいだったかしらとのことであったから、当時のわたしのサラリーの数分の一ぐらいか、ホウ、大したもの、悪くはないと思ったことがある。その後彼女のサラリーは増えたが、日本円換算ではまだ一万円を越えたことはないとおっしゃっていたから、日本のバブルで大卒初任給も二十万円を超える時代での対日本円人民元レートは下がり続けていた。

 76年の文革終結後、華国鋒政権は経済再建とばかり日本などに大量のプラント契約を発注してきたが、そのほとんどが理由も・謝罪もないままに二度もキャンセルされ、わたしのチャイナビジネスにも影響があった。カネ(外貨)もなく、借款や延払いの対応もできていなかった時代のことである。
 改革開放がはじまったばかりの79年から93年末まで、中国では「一国二通貨」制度で外貨管理を強化し、外貨兌換券(FEC)を外国人に適用した。「同価値」と称されたが実際は三十%ほどの差があり、ホテルの前で“へーイ、マネー”と闇の両替屋がたむろし、“オンナ、オンナ”と道をさえぎった。通説では雲南系と新疆系の地下金融ルートがあり、偽札が多いので要注意とのことであったが、旅行社のガイドはわたしたちから兌換券を集め、観光地の支払いは人民元でとしっかりとサヤ稼ぎをしていた。
 92年から93年にかけて急激な円高となり、80円台に突入したことがあったころ、大企業は先物予約で90円台前半までをおさえていたが、百~百十円を輸出採算レートとしていた中小企業の対中投資が一挙に増えることになる。「世界の工場」― 中国への進出ブームの到来である。
そのころ、わたしも毎月のように何人かの経営者を案内して上海詣をしていたが、あるとき虹橋国際空港に近い農村で地元の幹部との商談がまとまり、仮契約金として二百万日本円ほどの人民元をすぐほしいといわれて困ったことがある。日本円はあるが人民元には両替できないし、農村の企業は、日本円や外貨兌換券も受け取れない、という。上海在住十年の日本人に相談したら、いいよ、両替屋を呼んでやる、というのでかれの事務所で待つこと一時間ほどしたころ、とある人物が部下を連れて現れ、二百万円相当の人民元を差し出した。きょうのFECレートより一割ほどまけてやろう(お互いに外為法違反・・・)とのご託宣。別の場所で待っていた農村企業の幹部と会計担当者は、わたしたち日本人がどこでこの人民元を入手したのかも聞かずに、一心不乱に札束を勘定していた。「一国二通貨」制時代の思い出である。

90年4月の「浦東開発宣言」は中国の対外開放政策を根本から転換するものであったが、その目玉はいうまでもない、「国有土地使用権の有償譲渡」であった。そのアイデアは英国領香港の「女王様」の土地使用権の売買制度であったと聞くが、この「土地使用権の有償譲渡」が“金の卵”を産むニワトリとなって、80年代では最高の年でも20億ドルしかなかった中国の外貨保有高を急ピッチで押し上げる。
「一国二通貨」制のはじまった79年の外貨保有高はわずか8億ドルに過ぎなかったが、この制度が終わった93年末は二百億ドル弱となり、「世界の工場」に進出した外資企業の投資と稼ぎ出す貿易収支の伸びで、二年後の95年にはその3・5倍、00年には8倍強となり、さらに今世紀に入って人民元の切り上げ圧力に対抗した為替介入などもあって、いまでは世界第一位の3兆2千億米ドルの外貨を保有するまでになっている(本年8月23日現在)。その70%は米ドルの保有とのことだが、もっと「非金融資産にシフトすべき」という意見が中国の専門家筋にある。
こうした意見は、外貨保有高世界第二位の日本でも多い。
米ドルは、ホントに「基軸通貨」なのか。
いずれの国の「紙幣」も、いってみれば「紙切れ」であって、国力の裏づけがあってこそその価値が認められる(日本の敗戦時に「戦時国債」などが紙切れになった)。
いまとなれば、米ドルはもう世界の「基軸通貨」とは容認できないとすれば、日本も中国もその保有する米ドルを中心とする外貨を有効に活用する必要がある。それが政治の力であり、それを見込んで企業がどういう選択をするかは、これは経営者の判断力である。急激な為替の変動はいろいろな障害をもたらすだろうが、米ドルがすでに「基軸通貨」の座を降りつつある以上、選択の方向性は決まっている。中国元が東南アジアの諸国で決済通貨のひとつになり、周辺諸国へのインフラ投資などでその影響力を強めているいま、日本も「3・11」を乗り越え、つぎの時代を切り開いていく「力の涵養」が求められる。
                    (2011年9月1日 記)
【参考】
9月1日 18時45分現在 為替レート(byサーチナ)
12.07日本円/人民元 77.04日本円/米ドル 6.38米ドル/人民元