くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

古文書徒然其之四

2012-10-30 00:16:23 | はらだおさむ氏コーナー
猪名川の氾濫(3)
                         

    (五)

そのころ、尼崎城の堀に流入する庄下川(武庫川の支流)は濁流で溢れ、堤を崩しはじめていた。城下のいたるところが冠水・「水押」になって来ている。
この時の洪水について、武庫川流域関連の研究レポートは多いが①藻川流域の史料は少ない。

すでに触れた二件の絵図(「宇保 登文書」、「徳永孝哉文書」)はその数少ない貴重な史料である。
前者は旧下食満村(現食満六~七丁目)の、被災当事者の絵図で「元文五年申六月廿八日差上候」と洪水直後の作図であるだけにダイナミックで臨場感があるが、三食満領の堤の決壊とその「水押」状況を中心に描いている。提出先は不明である。
 後者は旧上坂部村(現上坂部二~三丁目)に残る絵図。作図時期は不明であるが、添え書きに「八月廿日迄二漸ク水留廿四日二仕立申候」とあるから、水留工事の終わった同年八月末以降であろうと推察する。十枚もある絵図の一枚(文書番号三三九-一八)を別掲する。この絵図は文字の関係で南北が逆さになっているが、川西の小戸、池田の神田、伊丹の中村・下市場の中流から、尼崎城周辺の庄下川に至る川や井筋の決壊状況を測量数字で示し、村々の所領関係まで書き添えている。さらに(四)で触れた猪名川東岸の豊中市域の被害(注5参照)まで明らかにした貴重な文書である。

 さらに「貴志隆造文書」は、旧富田村の一部(現園田一丁目)の被害状況を、つぎのように記している。 
 洪水発生五日後の六月十三日、「当村田畑損し申候」と田畑荒地は凡高〆三拾五石九斗弐合と届け出、さらに同年九月「木綿水押損毛」として米換算〆三石七斗六升五合を申請している(尼崎市史第六巻)。この合計は本高の五八・六%となる。猪名川西岸の富田村堤の決壊がなかっただけに、対岸の庄本村(豊中市)より少ない「水押」被害率で留まっている。
                  
①大国正美「近世後期の武庫川洪水と対策」(「歴史と神戸」通巻217号)ほか。

       (六)

 「火の玉は飛んだ」との書き出しではじまる新聞記事(毎日新聞、尼崎・伊丹版、昭和57年3月4日)を見つけた。
 「流れとともに」と題するこの企画記事は、同年1月5日スタートの第一部
から12月3日の第四部まで合計65本の連載もの、阪神間を中心とするいろいろな河川にまつわる話を取材、レポートしている。
 この「火の玉は飛んだ」は第二部「川と生活」の第九話にとりあげられた「元文五年」の洪水に関わる記事である。
 「目の前を突然、大きな火の玉が北から南へスーッと流れた」
 昭和三十六年の秋祭りの前夜、目撃したのは田能に住む女性であった。
 火の玉が飛んだのは猪名川右岸の旧堤防上、竹藪の中には地元の人が「ホウケントウの墓」と呼ぶ供養塔のあるところであった。
 元文五年六月九日の夜、猪名川が藻川と分かれて田能の中州をつくり、左へ大きくカーブする川岸に、子供を含めた多くの遺体が揚がったと記事は綴られ、
「大半は逃げ遅れた池田の遊郭の女性だった」と記している。
 本レポートの冒頭に記した「・・・北ノ口①京や太右衛門流レ・・・」(伊居太神社日記)とこの記事の「遊郭」が気になり、池田市史で調べ、市関係者にもヒアリングしたが不明であった。
 地元では、このとき田能村に漂着した夥しい溺死者をねんごろに葬り、三回忌に地元応徳寺の和尚が発起人となって溺死霊魂の慰霊塔を建立した。その後村人は毎年命日には供養塔(地元では放献塔と呼んでいる)の前で慰霊祭を営んでいる、という(「三ッ俣井組考」)。この慰霊塔は現在田能農業公園内に移設されている。
 池田徳誠氏が同書に書き記されている碑文(抄)を以下ご紹介する。

   惟元文五年庚申夏六月九日
   雷鳴折山俄水裏陸近迫人馬
   抱擁厥老幼溺死者不知□幾
   千万也・・・(以下略)

   トキニ元文五年庚申六月九日、山を裂くような雷が鳴り、
   豪雨は猪名川を氾濫させ、濁流は人畜に襲ってきて、
   老人や子供が逃げ場を失ない、溺死するものは数えきれません(略)
           (福沢邦夫先生現代語訳)

 
  治山・治水は政治(まつりごと)の基本である。
  歴史はそのことを教えている。
                          (了)
                          
 尼崎市立地域研究史料館で史料の提供とアドバイスをいただきました。
 厚く御礼申し上げます。(伊丹:古文書を読む会会報『遊心』第20号掲載) 

民家の茶会

2012-10-21 13:46:19 | 茶話


こんなに気持ちのいい秋の日は、『日々是好日』の軸がぴったり



花は、名残でたくさん
すすき・ほととぎす・浮釣り木・あざみ・みぞそば・姫つるそば・藍たで


めずらしい茶席のお客様が二組

☆ドラえもんの中に、お茶を飲む場面が出たので茶席に立ち寄った
 母上と3歳のお嬢さんと10ケ月の坊や
 3歳のお嬢さんは、お菓子を食べ(母上の分も食べ)抹茶を飲み大満足

 へええ・・・・・ 知らんかった


☆もう茶室を終了してしまって、鍵をかけたところに立ち寄られたオーストラリアからの
 ご夫婦 申し訳なかったがもう湯もなくてお茶はお出しできなかったが室内は見学して
 頂いた
 ジェットスターの飛行機に乗ると、大阪府の紹介でこの茶室が出るのだそうで
 ぜひ立ち寄りたかったとのこと。

 いちど オーストラリアへジェットスターの飛行機で行って見たいなぁ・・・・・

電車の中で

2012-10-19 15:47:23 | 四季おりおり
阪急電鉄の宝塚線でのこと
午後3時ごろの普通電車の中は、8割くらいの混みよう

私の隣は70歳くらいの紳士
むづかしそうな本を読んでいた
周りは女性が多くて、それぞれカタログを見たり本を読んでいたり
うつらうつらされたり、目をつむっていたり
静かな車内

ところが
十三から乗り込んできたまだ20歳そこそこの学生風女子
紳士の隣に座ると、携帯で話し始めた

声は周りに聞こえる大きさ
内容はもちろんみんな聞き取れる
緊急の用事でもなく、たわいのない話が続く
ことばは、汚い

周りの視線が彼女に注がれるが当人は知らん顔
うつらうつらの方も目をつぶっていた方も
彼女に注目
思わず私も、彼女を横を向いて眺めた

紳士が私の顔を見て
「止めましょうか」と言う

私はあいまいにうなずいていた
(私は見て見ぬふりをするタイプ)

紳士が

「電話やめてください」

彼女
無視  会話は続く

紳士 再度

「電話やめてくれるか」

彼女 ふたたび 無視して会話はやめない

紳士 肘で彼女をつつきながら

「やめ 言うてるやろ」

「やめんかい」

やっと 彼女 席を立って出入り口近くに立っていった
しかし、会話はそのまま続いている

紳士 パタンと本を閉じた

私 思わず「ありがとうございました」と頭を下げた

あぁ~  こんな素敵な紳士もいるんだ
私は、ダメと言えない大人

お願いです 
親御さん、先生、周りの知人や友人の方
彼女にマナーを教えてあげてください










  

松ぼっくり

2012-10-13 21:12:52 | ボランティア
今年の松ぼっくりがたくさん落ちている

私はボランティアで江戸時代の民家の囲炉裏番をしている

今朝はその松ぼっくりをたくさん拾った





そして

囲炉裏の火をつける





いつも火つけに使うのは、牛乳の紙パックを乾かしたもの

マッチで火をつける

でも

松ぼっくりがたくさんある季節は

私はこれを火付け用に使う

いい香りがして

よく燃える

もちろん 見過ごせば ゴミ







能面展

2012-10-10 14:12:26 | 信辰作品集
日本民家集落博物館で 『第5回 遊創工房能面展』 が
開催されている。(19日・金曜日まで)

今回は、12人の作品が堂島の米蔵のすこし照明を落とした中で
それぞれの力作を展示中

芸術の秋、日頃の腕前を皆様に見てご批判やご鞭撻をいただけたら
うれしいのですが・・・・・
































来館されたパパと男の子、出来上がった狂言面の 『野干』(ヤカン)と一緒にパチリ


☆野干(やかん) → 狐の異称
 彩色兼備の美女に化けて天竺・唐土・日本で宮中を脅かせた妖狐
 中国の想像上の霊獣で、姿は狐で 小さな角を持ち 木に上り
 鳴き声は猿に似ている


即売も可(値段はご相談ください)



徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく)(番外)

2012-10-05 16:29:49 | はらだおさむ氏コーナー

                 
四字熟語      


 深夜 NHKスペシャル「北京の五日間-こうして中国は日本と握手したー」(2時間)を見た。懐かしいシーンの数々、そして、あぁ、このひとも、このひともお元気であったかと日中間の交流で遭遇したひとたちの証言を聞いて、日本も中国も、この四十年前の日中国交正常化にいたる歴史から学ぶべきことが多々あると思った。

 そのひとつが「四字熟語」にからむおはなし。
 当時の中国はまだ文革のさなかで、「アメリカ帝国主義」「ソ連修正主義」「日本軍国主義」「インド拡張主義?」に囲まれた「四面楚歌」の状況下にあった。国内でも紅衛兵たちを巻き込んだ「純粋無垢」なものから、日々権力闘争に明け暮れる状況が続くようになり、経済活動は低迷、市民生活にも影響を及ぼす、まさに「内憂外患」の状況になってきていた。
 いかにして、この苦境から脱却できるか。
 毛沢東の諮問に答えて編み出されたのが、「遠交近攻」の外交方針。
ベトナムでは一戦を交えているがその停戦処理で苦境に陥っているアメリカと、その同盟国である日本と手を結ぶことはできないか。
キッシンジャーの電撃的な中国訪問にはどういう手引きがあったか知らないが、おそらく孫文のころからの人脈につながる海外華僑などのルートが活用されたのかもしれない。そして、「ニクソン訪中」で日本を揺さぶる。

わたしは岸内閣がひきおこした「長崎国旗事件」(1958年)で中断した日中友好貿易に、その前年から参画していた。事件のあったとき、「日本商品展覧会」武漢会場から急遽帰国された森井庄内展覧団副団長のおはなしをいまでも忘れることができない。まだ日本の敗戦から十数年しか経っていない当時、会場でへんぽんとひるがえる「日章旗」を見て、悔しさと憎しみにあふれる人たちによる不測の事故を避けるため、解放軍の兵士がこの「日章旗」を護り続けてくれていたという。それに比べて、わが岸内閣は・・・、このあと数年の中断はその後のわたしの人生の最大の教訓となって、今日に至る。
いま中国の“憤青”たちが大使の車から国旗を奪ったり、抗議行動でそれに火をかけ足蹴にするのはどうしたわけか。ひとりっ子の「愛国無罪」は、中国でも認められない行動である。

この「四面楚歌」、「内憂外患」は89年にも再来する。
「6.4」のあと、中国は西側諸国から「経済封鎖」され、江沢民政権は「内憂」に対して「愛国教育」、「外患」についてはその一番弱い環の日本を狙い撃ちにして「改革開放」を宣伝、わたしもその旗振りを務めて「浦東開発」に邁進した。
この番組で中国の証言者は、中国の改革開放と経済発展に日本が大いに貢献してくれたことを語り、感謝のことばを述べている。わたしは「天皇訪中」の実現で前向きの日中関係が実現するものと期待したが、それは甘かった。日本でも会津の人がいまだに長州に恨みの感情を隠そうとはせず、韓国は秀吉の「朝鮮征伐」を許さない。江戸幕府はその謝罪を含め朝鮮通信使の訪日を実現したが、「狷介固陋」な新井白石は財政難を口実にこの「友好交流」の道を閉ざしてしまう(中断)。加害者はすぐに己の非を忘れるが、被害者のこころの奥底にひそむ「怨」の炎はなかなか消えつきない。この道理を、どのように結わえあわすのか。

ふたつめは外交交渉のこと。
田中角栄総理の「ご迷惑発言」で交渉が難航したあのとき。
中国側は、それは加害者が被害者に謝る言葉かと広辞苑までひっぱりだして日本側を責める。田中は誠心誠意その謝罪の意思を中国側に説明して、中国の求める謝罪表現では
「日本に帰れない」と率直にその苦衷を述べる。最後はことばではない、こころである。毛沢東が「もうけんかはすみましたか」と幕引きを演じる。周恩来の演じた“外交術”がきわだつ。交渉決裂か、妥結か。とことんまで話し合うトップ会談が必要である。
 ウラジオストックで開催されたAPECのとき、野田総理は胡錦涛主席の発言をどのように受け止めたのか。なぜ国有化の契約を急ぐ必要があったのか。方針は変えることはできないとしても、その波紋は中国の方がはるかに大きい。その辺の根回しを含め、7月以降現在に至るまでの、水面下の交渉での食い違い、思い違いに外交交渉のまずさを覚える。

 1978年の「日中平和友好条約」締結交渉のときのこと。
 その第2条の、「覇権を確立しようとする他のいかなる国または国の集団による試みにも反対することを表明する」という表現、それは具体的には「ソ連修正主義」に対して、共同で反対することを求めるものであった。日本は二国間の条約に、第三国を対象とする表現を挿入するのはなじまないと締結交渉が長引いた。そのとき、中国はいまと同じように尖閣諸島を漁船軍団で取り囲み、自己の主張を強要した。文革が終わったばかりの中国は「無理難題」を押しつけてきたのであるが、小平の「再びこのような事件を起こすことはない」とのことばを信じて次の世代に問題を先送りしたのであった。そして、日本は第4条に、これは「第三国との関係に関する各条約国の立場に影響を及ぼすものではない」の文言を入れ、この条約の調印に合意したのである。
 以後尖閣周辺の漁業は「日中漁業協定」にのっとって、二年前まで比較的平穏に実施されてきていたのであった。
 
日本のざれうたに“嫌い嫌いも好きなうち”というフレーズがある。
世論調査でみる日本人の大多数の対中感情は好ましいものとはいえないが、それでも「一衣帯水」の両国は引越しのできない、重要な二国関係にあると認識している。しかし職務上のせいでもあろうが、TVでみる報道官のような感情むき出しの、強圧的な発言にはなじまない。いま日中の水面下で、まじめな対話と交渉が続けられているが、扇動はよくない。自己の主張を押し通すために、78年にやったとおなじように、いやそれ以上に民間の友好交流や経済交流にまで波紋を広げようとする強圧的な姿勢は決して好ましいこととはいえまい。
「無理を通せば道理引っ込む」とは、どの国でも、社会でもありえないことである。

いま、わたしは自分のこころによぎる思いをどのように表現すればいいのか、苦渋している。
「沈思黙考」、「隠忍自重」なのか、「切歯扼腕」なのか、そして、わたしの半生をかけた「日中友好」と「経済交流」とは一体なんであったのか、苦衷に浸る日々が続く。

                                (2012年9月25日 記)