経済交流視察団
『上海経済交流』の協会設立10周年記念号(1992年6月、No.28)には見開き2ページで10年の動きがまとめられているが、前半5年間の訪中団だけを拾い出してみると、82年(1団7名)、83年(5団39名)、84年(8団60名)、85年(21団206名)86年(9団74名)の計44団386名の多きに達している。
大阪日中や上海友協のご尽力があればこその訪中団の実現であるが、経済交流協会としては事務局は私一人、50台の前半のまだ活力あるころであるとはいえ、われながらよくこなしたものである。
訪中団は商談(含む対中投資)と視察に大別され、後者には後援・アテンドなどによる参加も含まれているが、たとえば商談の場合、1回の訪中・滞在は平均10日間で3団ほどを上海で実施している。
そのなかで結果的には実現しなかったが、今から見ても残念な上海交通大学とのロボット商談がある。
当時のノートを見ると、84年2月に同大学に事務局のある中国工業機器人(ロボット)委員会の関係者9名と第一回目の会談が中国側の要請で開かれ、生産現場における危険作業、搬送作業、品質の精度向上などのため日本から工業用ロボットの生産技術の導入を求められている。
7月には同大学南洋科学研究所が窓口となり、中国の自動車メーカーの塗装、溶接ラインに日本の工業用ロボットを採用したいと3社の名前が挙がり、帰国後わたしは各社を訪問、日本ロボット工業会事務局とも相談して、上海でミニ展示会兼商談会の開催を提案している。
同8月の<経済日報>は「中国はロボットを必要」とする論評を掲載して、劣悪・危険・有害な職場にロボットの導入をアピール、機は熟して85年2月開催で準備は進められたが、通産省はパリのココム委員会に打診のあと申請を却下、日中双方の要望は一蹴されてしまった。
アメリカのメーカーはその一年後、上海でロボット展を開催している。
ココム委員会の役割を確認したひとコマである。
大型の訪中視察団ではS銀行法人部主宰の北京・上海視察と日本商業流通産業訪中団(上海・西安・北京)があった。
後者は参加メンバーの某小売問題研究所の所長から頼まれてそこの主任研究員という肩書きで団に潜り込み、上海と北京では所長から依頼を受けた調査事項のアレンジをした。
この団にはダイエー、ジャスコ、西友ほか日本を代表する流通企業からの参加者があったが、当時のホテル事情もあって私はいつも所長とスイートルームでの同室であった。
二泊した西安で連夜数名の団員が先生を訪ねて応接間で夜遅くまで話し込んでいた。
後で思うとダイエーの第一次お家騒動の前触れであったのであろう、大卒一期生の中堅幹部が中内社長がアメリカ帰りの長男を役員に据えようとしていることへの反発であった。『カリスマ』神話はそのころからほころび始めていたのである。
京都「四班会」の訪中団ではじめて敦煌―ウルムチ―トルファンを訪れたのも楽しい想い出である。
今と比べると何もないそのころはトラブル続きで、時折ギスギスしたこともあったが、夜毎団長の部屋から流れる横笛の調べにこころ癒されるものがあった。
(2004・8・27 記)
(追記)
当時のノートには折々の訪中団の旅費精算の下書きがあるが、たとえば人民元レートは84年2月 120円、同8月 110円、同9月 100.3円、
同10月の訪中団旅費/人は上海4泊5日で215,000円、内航空運賃はエコノミー往復で104,600円と記されている。まさに隔世の感があり、高い費用をかけて経済交流に参画された先達諸公に感謝する次第である。
(2004・8・29 記)