くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

日本は寒い

2014-02-19 11:48:29 | ポルトガルの旅
ポルトガルは暖かかった

最低気温が10度あったものですから、雨に降られても
底冷えがない
大西洋の暖流のせいなのか

旅は楽しかった

日本の4分の1ほどの面積
人口は日本の約10分の1

種子島の鉄砲伝来
織田信長との宣教師 ロイス・フロイス とのかかわり
日本に伝わった様々の文化
カステラ 金平糖 てんぷら マント 鶏卵素麺 かるた 等々

旅の疲れが取れたら、少しずつUPします

それにしても、日本は底冷えがする~

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾

2014-02-19 08:31:32 | はらだおさむ氏コーナー
ネジをかむ


『日経中国網』に村山 宏編集委員が執筆の「日本人小声説」というコラムがある。不定期だが毎月一~二本執筆・掲載されており、そのなかで「中国の“愛国青年”は半沢直樹に学ぶべき」(2013年11月18日)という一文には心ひかれた。
昨年の日本のテレビ番組で視聴率のトップを占めた“半沢直樹”(やられたら、倍返し)を主題に据えたその着眼点とイントロは、一般読者の好奇心をそそる巧みな筆さばきだが、そこでとりあげられている日本の中小企業のネジ、ボルト、スプリングや工具などが中国の市場にとってどれほど必要不可欠のものかと読者の関心を引きつけている。

 ずいぶんとむかしばなしになるが、いまから半世紀前の1963年10月、北京で開催された日本工業展覧会の出品物のほとんどはココムの規制対象品で、そのころ“竹のカーテン”で包囲されていた中国に対して日本の通産省(当時)から“持ち帰り”条件で認可されたものであった。あとから聞いた話だが、ある精密機械の出品者は日本に持って帰ればいいのでしょうと中国の技術者の要望に応じてその機械を解体して詳しく技術説明したという。かれは中国側から深く感謝され、閉会後半月ほど中国各地の関連工場の見学(兼観光)を“国賓待遇”で案内され、歓迎されたという。かれの話では、その機械の構造や使用されている部品を中国の技術者に説明したところで、そう簡単には作れるものではないので、日本の政府が“持ち帰り”などヘンな条件をつけずに中国に売却するか提供する方がよほど出品者にとっては身軽だったのに、ということであった(サムライはいつの世にもいる)。

 80年代の末から90年代の初めにかけて、日本の精密医療器械がまず北京や上海などの大病院に設置され、その効能のすばらしさに中国の各地から購入の要望が関連の貿易公司に殺到した。まだ外貨準備の乏しい当時のこと、中国国内の病院のすべての要望に応えることが出来ない中国政府は、追加購入を条件にその本社工場の見学を申し込んだ。会社内部では工場と貿易部門との間でいくばくかのやりとりがあったらしいが、応じるとすれば完全にオープンでしっかりと見ていただこうということになった。
 詳細は忘れたが、わたしも工場の見学に立会い、東京の貿易部門との商談も傍聴した。一行は十数名であったか、工場見学は三チームほどに分かれて実施されたが、本社の工場長と主任技術者が案内するチームはいつのまにか中国側は団長と通訳のみに。中国の技術者は三々五々と分散して、設置された製造ラインの機械に貼りつき、写真を撮り、機械のメーカー名を筆記している。予定時間をはるかに過ぎても工場から離れようとしないので、工場長は団長を招いて先に会議室にもどり、休憩することになった。
 やおら顔ぶれもそろい、おしぼりと茶菓の接待などがあって小憩のあと、工場長の挨拶があった。
 いくぶん皮肉交じりであったが、みなさん方の熱心な見学に感心しましたとジャブを入れたあと、工場長からこの製品開発のいきさつの話になった。
 基本設計の導入はアメリカのD社からで、技術者がひとり来日(かれの報酬は当時の日本人の平均の十数倍)、芦屋の住宅に三年間滞在、週に三日ほど京都の本社に会社のクルマで出勤したが、詳細設計などに関わる質問にはそれは契約条項に無いと一切答えることはなかった。会社としては協力工場の技術力を結集して自力で周辺技術を開発、この製品の完成を図る以外に方法は無かった。苦労したが、技術の開発は他力に依存することは出来ない。いまではアメリカのD社の技術レベルを上回り、逆に周辺の製造技術はD社に売るようになっている。モノをつくるのに、近道は無い。みなさんがたの研鑽をお願いしたいという工場長の言葉に、団長は短い答礼を述べて席を立った。

 「あのとき・あのころ 第二部」(はらだおさむの体感的日中経済交流小史)でもふれているが、日本ミシン部品訪中団が派遣されたのは86年4月からであった(日本ミシンタイムスと共催)。以後今世紀のはじめまで11回実施されている。その都度参加部品メーカーは異なるが、この交流はいまの日中ミシン団体主催の展示会への相互参加などにつながっている。ミシンメーカーの中国進出は80年代後半からであるが、部品メーカーは本体メーカーと不即不離の関係もあり、独自の行動が取りにくい側面もあった。
 表題の「ネジをかむ」現場を見たのは、80年代末の第3回訪中団であったろうか。天津のミシン工場を見学のとき、団員のひとりが部品箱のネジをつかんで口に入れ、「まだやなぁ、これはあまい」とつぶやかれた。わたしはなんのことかわからないのでお聞きすると「ネジのヤキがあまいのや」とのこと。つまり「焼入れ」が不十分という意味らしい。ミシンのネジは自動車の部品と違って何度も締めたり緩めたりするので、硬いだけではダメ、柔らかすぎてもダメ、小さい部品やけどむつかしいもんでっせ、と教えていただいた。
 九十年代のはじめまで中国のミシンメーカーは家庭用ミシンの製造が主力であった。ミシンは嫁入り支度の三種の神器の一つであったが、衣料の大量生産・大量販売が中国社会でも定着し始めると、工業ミシンへの生産転換がはじまった。中国ミシン協会(当時)とわたしたち日本ミシン部品訪中団との接触・交流が深まり、工場見学が技術交流会にもなり、技術導入の要請などに変わってきた。
 90年代も後半に入ると、工業用ミシンの部品のなかで、中国で最も技術導入したいものとしてネジがあげられるようになってきた。わたしもお手伝いをして西安や上海の工業用ミシンメーカーとの技術交流や合作商談などもしたが、その関連で、日本のネジメーカーの金属熱処理の工場を拝見する機会があった。熱処理の炉は上海の新設のラインと同じようにコンピューター管理であったが、現場の監督者の話では、いくらコンピューター管理でも熱処理は微妙なもので炎の動きと温度計が微妙にズレルこともある。それを見ながら調整するのが人間の目であり、熟練度である。この現場では年末の30日に火を落として、正月4日に炉を点火、それから360余日の終日、火を落とすことなく24時間交代で炎をチェックしている、ということであった。上海の熱処理工場では月曜日の朝点火して、金曜日の夕方5時に火を落としている。炉が万遍なく熱せられているのは週2~3日くらいか、これでは熱処理をうまくコントロールできないのではないかと思えた。わたしはネジメーカーの社長にいまの状況では日本からネジを輸出する方が製品の品質を保障できる、中国の労務管理が機械的に労働法遵守を呼びかけているかぎり、品質的に均等なネジを市場に供給することは出来ないだろうと述べて、対中投資は時期尚早とアドバイスした。
 それから十余年、いま状況がどのようになっているかは知らない。

 日経の村山さんは、日本が二十余年前、バブル破綻のなかでに演じた銀行の実態をふまえて、中国の“愛国青年”に訴えている。中国の銀行には半沢直樹のような人間が必要なんだ、不動産と国有企業への融資を優先するのではなく、中国の中小企業を育成、その成長を支援する銀行マンが必要なんだ、“愛国青年”よ、中国の銀行に入って中小企業を育成するためにがんばれ、中国の半沢直樹になれ!と。

 わたしは業務から離れて十余年、いまの経済の実態は承知しないが、日本のバブル崩壊時、不動産投資の失敗で銀行の合併が進捗、その損失の穴埋めのため低金利政策が施行され、国民にそのシワ寄せが来ていることだけはわかる。
 中国も日本も、政治の失敗を国民に転嫁させるようなことはさせてはならないと老婆心ながら思う次第である。
(2014年1月29日 記)

<あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [6]

2014-02-09 11:08:50 | はらだおさむ氏コーナー

経済交流視察団  

『上海経済交流』の協会設立10周年記念号(1992年6月、No.28)には見開き2ページで10年の動きがまとめられているが、前半5年間の訪中団だけを拾い出してみると、82年(1団7名)、83年(5団39名)、84年(8団60名)、85年(21団206名)86年(9団74名)の計44団386名の多きに達している。

大阪日中や上海友協のご尽力があればこその訪中団の実現であるが、経済交流協会としては事務局は私一人、50台の前半のまだ活力あるころであるとはいえ、われながらよくこなしたものである。

 訪中団は商談(含む対中投資)と視察に大別され、後者には後援・アテンドなどによる参加も含まれているが、たとえば商談の場合、1回の訪中・滞在は平均10日間で3団ほどを上海で実施している。

そのなかで結果的には実現しなかったが、今から見ても残念な上海交通大学とのロボット商談がある。

当時のノートを見ると、84年2月に同大学に事務局のある中国工業機器人(ロボット)委員会の関係者9名と第一回目の会談が中国側の要請で開かれ、生産現場における危険作業、搬送作業、品質の精度向上などのため日本から工業用ロボットの生産技術の導入を求められている。

7月には同大学南洋科学研究所が窓口となり、中国の自動車メーカーの塗装、溶接ラインに日本の工業用ロボットを採用したいと3社の名前が挙がり、帰国後わたしは各社を訪問、日本ロボット工業会事務局とも相談して、上海でミニ展示会兼商談会の開催を提案している。

同8月の<経済日報>は「中国はロボットを必要」とする論評を掲載して、劣悪・危険・有害な職場にロボットの導入をアピール、機は熟して85年2月開催で準備は進められたが、通産省はパリのココム委員会に打診のあと申請を却下、日中双方の要望は一蹴されてしまった。

アメリカのメーカーはその一年後、上海でロボット展を開催している。

ココム委員会の役割を確認したひとコマである。

 大型の訪中視察団ではS銀行法人部主宰の北京・上海視察と日本商業流通産業訪中団(上海・西安・北京)があった。

後者は参加メンバーの某小売問題研究所の所長から頼まれてそこの主任研究員という肩書きで団に潜り込み、上海と北京では所長から依頼を受けた調査事項のアレンジをした。

この団にはダイエー、ジャスコ、西友ほか日本を代表する流通企業からの参加者があったが、当時のホテル事情もあって私はいつも所長とスイートルームでの同室であった。

二泊した西安で連夜数名の団員が先生を訪ねて応接間で夜遅くまで話し込んでいた。

後で思うとダイエーの第一次お家騒動の前触れであったのであろう、大卒一期生の中堅幹部が中内社長がアメリカ帰りの長男を役員に据えようとしていることへの反発であった。『カリスマ』神話はそのころからほころび始めていたのである。

 京都「四班会」の訪中団ではじめて敦煌―ウルムチ―トルファンを訪れたのも楽しい想い出である。

今と比べると何もないそのころはトラブル続きで、時折ギスギスしたこともあったが、夜毎団長の部屋から流れる横笛の調べにこころ癒されるものがあった。            
       (2004・8・27 記)

(追記)
当時のノートには折々の訪中団の旅費精算の下書きがあるが、たとえば人民元レートは84年2月 120円、同8月 110円、同9月 100.3円、
同10月の訪中団旅費/人は上海4泊5日で215,000円、内航空運賃はエコノミー往復で104,600円と記されている。まさに隔世の感があり、高い費用をかけて経済交流に参画された先達諸公に感謝する次第である。
       (2004・8・29 記)





 <あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [5]

2014-02-06 15:15:48 | はらだおさむ氏コーナー
虹麻繍品廠(1)


 「拝啓 上海市長殿」のビジネスは難航した。

中国側に「対外開放」はしたが実施細則もなく、「前例」のない手探り状態のなかでの商談であった。

一番の問題点は、日本側の「現物出資」、中古の設備をどう評価するかということであった。

窓口の上海市対外信託投資公司に専門家を帯同しての来日調査を要請したが、契約成立後でなければ海外出張は認められないと、交渉はデッドロックにのりあげた。

日本側からは設備の写真やスペック、とくにスイスから輸入されたこの刺繍機械の特徴などの資料が中国側に提出されてから半年あまりたったころ、貿易商談で来日中の中国工芸品公司の担当者から突然工場見学の申し入れがあった。

後から分かったことであるが、この音沙汰のなかった数ヶ月間、工芸品公司の欧州駐在員を通じて、この機械の新品、中古品の価格からその性能に至るまですべて調べ上げていたのである。

本社工場と箕面工場の見学のあと、箕面観光ホテルでヒトフロ浴びてハダカ同士の付き合いを始めることになる。

 それからの上海商談は工芸品公司上海分公司(のちの上海抽紗品進出口公司)が中心になって進められる。

窓口担当者は“山福”時代から旧知の実務責任者、工場立地予定先の上海県虹橋郷(現在の虹橋開発区の南)からも担当者が参加、土地と工場建設費用を現物出資することになり、日本50%、公司15%(現金)、地元35%の合弁契約(草案)がまとまった。

普段の交渉は弟の専務に任せていた社長が、サインの段階で突然口を開いた。

「ここは中国さんに1%余計に持ってもらったほうがよろしい」

1%譲ることは、董事の数が先方に1名増えることになる、日本3対中国4で、中国側がマジョリティを握り、董事会で話し合いがつかない

場合でも多数決で議決されてしまう、と反対したが、自説を曲げない。

最終的には私が非常勤董事になって双方のまとめ役になってほしいと頼まれて引き受けることになる。

これは合弁企業経営の実務勉強にはずいぶん役立ったが、後々までこの1%で振り回される羽目になる。

85年1月に調印、同7月機械設備の解体と機械操作の研修に男女20名が来日、本社工場の一隅で3ヶ月ほど自活することになる。

生活と待遇をめぐって、慣れぬもの同士の不協和音が頻発、当時上海友協から大阪中国語学院の講師に派遣されていたRさん(現A大学助教授)も間に入って音を上げるほどであった。    

(2004年7月13日 記) 

2月になりました

2014-02-05 13:04:28 | 四季おりおり
節分の行事も今年は恵方まきを食べるのみ

東北東に向かって、心に健康と平和を祈りながら食べた

数日は暖かかったのに、立春になった途端に寒さが帰った

春は、日差しだけだ

10日からポルトガルに行くので

昨日ユーロが136円になったので、両替に出かけた

139円で両替できた(3年前のスペイン、2年前のフランスはもっと高かった)

そろそろ準備に取り掛からないと





<あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [4]

2014-02-05 12:58:49 | イギリスの旅
ラオジィエパオリュイチュイ


 このカタカナはお呪いではない、日本語読みすると、ロウガイホリュウクとなる中国語、老害?労咳?まさか?

ワードで一度に転換できないが、老街保留区、日本流にいうならば、古い町並みの保存地区、となるのだが、

昨今日本のあちこちで話題になる“町おこし”の、例えてみるならば「長浜」のそれとは少し趣を異にするのではあるが・・・。

 私が<経済>の仕事にたずさわる前年の秋、いまは亡き杉野団長(当時大阪市大教授)、松野秘書長(立命館大教授)の学者・専門家で構成された視察団が協会から派遣されていた。

その報告書が遅ればせながらわたしの仕事始めに出来上がり、その配布などの打ち合わせで松野先生がよく事務所に立ち寄られていた。

松野先生はご夫妻ともわたしの大学の先輩で、その後先生が学術交流で一年余り北京と上海に滞在されていたときは、季節の衣類の運び屋をご夫妻から承ることになるのだが、このときは報告書に記載されていない視察のこぼれ話などを幾度となく拝聴した。

 そのひとつが、上海の住宅事情。

日本でも戦後から高度成長に入るまでのころ、私もふくめて新所帯―核家族の住宅難はあったが、上海の場合、市内では元々は一家族の住居に最低三家族が同居して、一人当たりの居住面積は平均3㎡、バス・トイレはなし、流しも共同使用とあって、“新婚さん”も住むに家なし、と別居生活を余儀なくされる状況が続いていた。

松野先生のご紹介で、団員として参加されていた大阪市大の斎藤先生(前会長)にお目にかかり、ご専門の都市計画(その数年前に交換教授として同済大学でも教鞭をとられていた)をふまえた、上海との経済交流を志向することになる。

これが斎藤先生との、今に至る20余年のお付き合いの始まりである。

なにはともあれ上海の現状を、さらに専門家の立場から考察し、対策を立案・献策することからはじめようと、窓口の上海友協に連絡したが、反応が鈍い。

訪中の都度、窓口の責任者に当方の意図を説明、当初の要らんお節介、という段階から、上海の専門家も参加した「共同考察」という形の
受け入れに至るまで、数回の面談と一年近い時間がかかった。

 市内の「共同考察」の対象となったのは、南市区(いまは隣接の黄浦区に吸収)の老西門を起点に、復興東路・中華門路・蓬莱路に囲まれた地区、中心には文廟(孔子廟)もある古い街並みで、住居のほかに商店や小さな工場が散在していた。

 初めて現地に足を踏み入れた日本の専門家が、魚眼レンズなどで周辺の家並みを撮影していると、住民たちに取り囲まれ、難詰される事件も発生した。

「共同考察」は、地元住民の、厳しい“監視”のなかでスタートしたのであった。
   
(2004年5月26日 記)

<あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [3]

2014-02-03 09:06:14 | はらだおさむ氏コーナー
犬も歩けば・・・

 細井さんのアドバイスで、当時<日中>の役員で、関経連のメンバーでもあった中央電気工業㈱の今村騰会長に<経済>の会長就任を要請、引き受けていただいた(現在も名誉会長をお願いしている)。

原田くん、日中もまず日日が第一やでとの仰せで、月例会をランチョン方式ですることになった。

最近では夜の会合も多いが、はじめのころは11時半ごろから食事をして、そのあとテーブルスピーチと続いた。

いまでは210回を数える、息の長い勉強会のスタートである。

いまでもそうだが、こうした会合で一番苦労するのがテーマの選択とスピーカーの依頼、ロータリーやライオンズならともかく、予算もスタッフもないとあっては、頼りになるのはわたしの“人脈”だけである。

 学友のひとりが大阪通産局の課長をしていた。

<経済協会>の仕事を引き受けるとき、彼のアドバイスを求めたことがある。

原田君、これからは犬も歩けば、「日中」の時代やで、といわれた。

20年以上も昔の話である。かれは<メシが食えますか>と心配もしてくれた。

<キミが応援してくれたら・・・>とジャブを返したら、その後、中小企業事業団の海外投資アドバイザー制度を紹介してくれた。

以後数年間、名古屋以西の中国案件を一人でアドバイスすることになるが、立ち上げの月例会の講師も本人はもとよりいろいろと知人を紹介してもらった。

 対中投資は始まったばかりで、中国の「対外開放」の情報量は少なく、そのせいか昼間の会合でも会員の出席率は結構高かった。

そのうち、現地のナマの情報がほしい、現地視察に行こう、現地で商談会が出来ないか、という話まで出て来るようになった。

<犬も歩いて>エサを探そうとし始めたのである。

単発の視察や商談には上海の友好協会の日本処のスタッフが応対・通訳もしてくれたが、商売も経済用語もまったくわからない。

<山福>時代のスタッフの有難味をかみしめたが、なにごとも一日にして成らずである。

<経済>は継続性の案件が多いので、上海の担当者は固定的な専属は無理にしても、出来るだけ同じ人が対応してもらえるように依頼した。

上海側からもスタッフが限られているので、個別商談など件数の多いときは出来るだけ訪問者の少ないオフシーズンにしてほしい、との要望も出た。

84年の冬であったか、数件の商談で10名ほどが同時に訪中したことがある。

個別商談なので通訳の数もそれだけ要る。

神戸から帰国した日本生まれの女性が“オモチャくらいなら、私にでも・・・”と通訳をかって出てくれたが、値段交渉でFOBやC&Fなどがでてくるとギブアップ、偶々同席のわたしに、原田さん、経済って、難しいわね、とのたもうた。

 かくして<経済>は歩き回りながら、年を重ねる。    (2004年5月23日 記)