大(だい) 地(ち) 讃(さん) 頌(しょう)
昨年からはじめたコーラスで、いま「大地讃頌」(大木淳夫作詞/佐藤 真作曲)をうたっている。
♪母なる大地のふところに/われら人の子の喜びはある・・・から、はじまるこのうたは、その詞もよいが、メロディにこころがえぐられる。
♪平和な大地を/静かな大地を/大地をほめよ たたえよ土を・・・と歌い上げ、最後は♪母なる大地を ああ/たたえよ大地を ああ♪と絶唱!
このうたは“混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」”の最終楽章の由。もう半世紀以上も前、岩城宏之指揮・NHK交響楽団・東京混声合唱団の初演以来歌い継がれ、阪神淡路大震災の直後に小澤征爾の指揮で演奏されてからこのかた、特にこの「大地讃頌」は被災各地で歌われて、被災者のこころを癒し、励まし続けてきている。
十年ほど前、学友たちと出雲路を訪ねた。
このときは東京から飛来したものや広島からクルマで馳せ参じたものもいたが、この数年、もう集う機会もなくなった。
宍道湖のほとりを巡り、出雲大社で日本の古代史の一端を思い浮かべながら、車を連ねてその周辺をまわったが、休耕田の多いのにはおどろいた。
観光客相手の店でこそ活気はあるが、ひとの往来にいきおいがない。かねてこの地の過疎ぶりは耳にしていたが、元首相の没後は拍車をかけている由。
帰路 わたしはひとり鉄路で岡山へ出た。
やまなみは深く、緑滴るが、間伐材は朽ちるにまかせて谷を埋めている。
むかしむかしの、そのむかし。
半島などからの渡来人が、この周辺で鉱脈を見つけ、農具や刀剣の製造技術を伝授したとのことを、なにかの本で読んだような気もするが、その後の歴史はどうであったか・・・。
倉敷は明るく、ひとがたおやかに歩いていた。
はなしはとぶが、土地といえば、あのときの上海を思い出す。
あの事件の翌年四月、李鵬総理は上海で「浦東開発宣言」をした。
中華人民共和国が成立して以後、中国の土地は国有と農村の集団所有のふたつのみで、私有の土地はただの一坪もなかった。
このときの開発宣言では、上海の浦東地区の土地のみが対象の有償譲渡(期限付)・・・日本風に解釈すれば「借地権」の売買が認められたのであるが、その後しばらくして他の四つの対外開放地区(深圳・スワトウ・珠海・アモイ)にも適用され、やがて全土に広がっていった。「土一升」が「金の卵を産む鶏」になって、先ずは「地方政府」にカネが転げ込み、それが倍々ゲームでひろがって「汚職」と「成金」が幾何学的に増えあがる。
この「土地使用権の有償譲渡」というアイデアはどこから生まれたのか。
わたしは英領香港(当時)の土地使用権の売買が、そのヒントになったのではないかと推察している。阿片戦争で取得した香港の、女王様の土地租借権(100年)の運用がそれである。
あの事件から一年足らずで、このような政策の大転換が実務的裏づけもなしに実施されることはありえない。
この構想は、いつ、どこから出てきたのか。
わたしは、汪道涵市長時代(1980~85)にその萌芽を見つけ出すことが出来るのではないかと・・・市長のスタッフにその「智慧袋」がいた筈である。
文化大革命が終結して「改革開放」の道をあゆみはじめたそのころ、上海市の財政も苦しかったが、鐚(ビタ)一文手元に残させずに中央に吸い上げられていて、施政当事者は頭を抱えていた。困迫の度を深めていた住宅や交通問題などをどう処理せよというのか、と・・・。
あとになって知ったのだが、上海はそのとき、中央に「内緒(密々)」で浦東(農村地区)にいくつかの「工業区」を設けて、「都会戸籍」の労働者を移しはじめていた。中央へはその「改造計画」を上申し続けていたが、すべて却下された末の「苦肉の策」であったと、消息筋から耳にしたことがある。
その「改造計画」が、あの事件のあと「陽の目」をみて、「浦東開発宣言」に結びついた「筈」である。時間はかかったが「ニワトリ」はついに大きな「金のタマゴ」を産んでくれた・・・いま、上海のバンドの両側に立ち並ぶ高層ビルを見ながら、わたしは汪道涵市長とそのスタッフに脱帽する。そして90年代のはじめ、市政改革に辣腕をふるった朱鎔基市長(のち国務院総理)に敬意を覚える。
そのあと、上海の改造で私服を肥やしたひとも少なくはないが、歴史はいつの日かそのことを明らかにすることであろう。
中国の大地からいま聞こえてくるのは、すすり泣きか、高笑いか・・・。
♪母なる大地を ああ/たたえよ大地を ああ♪
(2015年10月27日記)