夜 明 け 前
週をはさんでふたりの友人のお別れ会があった。
三戸俊英公認会計士(享年64歳)と三和化研工業㈱の創業者であり、上海三和医療機器有限公司の元菫事長・岡田禮一(享年81歳)さんのおふたりである。中国経済の改革開放の前夜からともに汗を流してきた「戦友」であり、文字どおりの「同志」であった。
72年の日中国交正常化以後、日本の地方自治体と中国の都市との友好交流が深まっていった。大阪市は74年に上海市と友好都市協定を締結、大阪府80年に同じく上海市と締結した。この間わたしの所属する大阪府日中友好協会が仲介して、“友好の船”や“友好の翼”で多くのひとたちが中国を訪れ、交流を深めてきていた。
82年6月、“友好貿易”から“対中投資諮詢”に転じたわたしは、上海市人民政府外事弁公室傘下の上海市対外友好協会日本処を窓口に、訪中団の派遣と中国マーケットの調査に取り組んだ。『上海経済交流』誌によると、訪中団の派遣は83年5団(39名)、84年8団(60名)、85年21団(206名)、86年9団(74名)と4年間で43団(379名)にのぼっている。
同誌創刊号(85年8月)をみると、84年1月に締結した日系製造業合弁契約第一号の「紅麻レース」の研修生20名の来日、嘉定県経済代表団来日(7月31日)や連雲港経済開発公司との合作協議書の締結などの記事にあわせて花果山サントリービールの紹介も掲載されている。
同誌第二号(85年10月)のトップに「上海の市街地再開発―<友好改造区>構想」の記事があり、同年2月に上海市の担当副市長に提案したこの計画を大阪商工会議所で紹介・披露した講演会の模様が報じられている。またその「上海経済区都市めぐり②」には上海市嘉定県の紹介があり、5月には八尾商工会議所友好訪中団が訪問、9月末から山脇市長を団長とする八尾市・議会友好代表団の訪中が告げられている。その誌面には岡田禮一さんとわたしを含む団員のスナップ写真も載っている。
あの事件が発生した89年6月発行の同誌16号に、わたしは「草の根の経済交流」と題した一文で「上海三和」設立のいきさつをつぎのように紹介している。
「数年前から始められていた八尾日中の友好訪中団に参加されていた三和化研工業の岡田社長が、嘉定県の衛星中心等に寄贈されていた同社の床ずれ治療マットの臨床結果がきっかけとなって、85年9月、同県から合弁の申し入れがあり」紆余曲折を経て、87年12月「研究開発と外注管理、組み立て、販売を主体とする従業員16名(内日本人2名)の合弁企業が開業した」
この同じ号に三戸俊英公認会計士の「渉外税法知識」の連載がはじまっている。
わたしが三戸先生にはじめてお目にかかったのは、86年9月上海で開催された「第2回大阪・上海経済交流会議」への参加打合わせの会合であった。上海では西尾名誉団長(大阪市筆頭助役=当時)のアテンドなどで多忙を極め、三戸先生とお話しする機会も無かったが、団がアモイから広州・香港への視察に移動した旅の折々にこれからの日中経済交流に専門家の参加が求められるとお話して、帰国後、協会の「合弁企業経営管理研究会」に参加していただいた。隔月に開催されていたこの研究会には、在阪の日系合弁企業の実務担当者と高橋正樹弁護士ほか専門家が参加され、合弁企業の実務上の諸問題をQ&A方式で勉強していた。のちに近藤友良公認会計士にもご参加いただき、三戸・近藤両先生の翻訳による『中国渉外税法知識』が88年2月、当協会から出版されている。
わたしがはじめて嘉定県を訪れたのは83年の春と記憶するが、日本の都市計画・建築の専門家と嘉定県城の孔子廟などをふくむ街並みの整備と保存を同県の専門家と協議する会議・視察のアテンドであった。そのときは、市内のホテルに宿泊、クルマに分乗しての“嘉定”通いであったが、道路事情が悪く片道2時間近くを要し、着いてしばらくすると昼食・休憩、午後2時間ほどの会議や視察で帰路につくというありさまであった。往復の都度、馬陸郷人民政府の前を通る。人民政府の看板の横に「上海-大阪友好人民公社」の看板が架かっているのが気になった。上海から随行の人にお伺いすると、大阪府との友好提携後、地元から大阪へ農業研修生が数次派遣され、大阪からも専門家が来てニンニクとしいたけの生産で有名な同県の農作物の多角化を図る交流が続いている、その記念碑の由であった。すでに“文革”も過去の話となり、全中国で唯一残る「人民公社」であったが、日本からの進出企業はまだなかった。
89年のあの事件のあと、スワトウでの合作企業の設立、90年の「浦東開発宣言」後の「土地使用権の有償譲渡」にからむセミナーの開催など、なにかと忙しい日々が続いたが、中国をその周辺諸国・地域から眺めたいとの思いも募り、三戸先生ほかの友人知人を誘って、韓国、台湾、極東ロシア、ベトナムなどを2~3年かけて視察に出かけた。
89年秋、ソウルでは現地経済研究所や経済団体と懇談、まだ中国とは国交は開かれていなかったが香港経由の輸出入は行われていた(6月の事件後、広東省の各地には韓国企業の視察グループが群れをなしていた)。
翌90年9月、台湾へ。交流協会を尋ね、ヒアリングのあと高雄の輸出加工区の日系企業2社を訪問。人件費の高騰で大陸への進出ムードが高い。
91年9月、ハバロフスクから新潟空港に降り立ったとき、マスコミに取り囲まれた。ゴルバチョフが軟禁された由だが、現地の状況は?ソ連邦崩壊の前兆だが、時差がありわたしたちが飛び立った後のこと。このときはウラジオストク開放第一号の旅行団で、メンバーの半数は墓参目的。おかげでイルクーツクの奥のギリシャ正教墓地まで参観できたが、ソ連の経済は崩壊していて宿泊も食事も貧しく、各地に中国からのスーツケースマーチャントがあふれていた。ラムール河のほとりでドルを求めるひとから買い求めた油絵の小品は、いまもわたしの部屋に架かっている。
89年のあの事件で、瞬間的に頓挫した訪中団も90年12団(63名)、91年10団(80名)と復活、92年10月には協会設立10周年記念パネルディスカッションを、三名のパネリスト(中国進出企業代表)を招いて開催している。コーディネーターは高橋弁護士と三戸公認会計士のおふたり、出席者は100名を超え、第2次中国投資ブームを予感させる動きであった。
92年春 小平の“南巡講話”と同年秋の天皇訪中で、対中投資ブームにふたたび火がついた。
三戸先生は2000年、村尾弁護士と上海にキャストコンサルを設立して常駐、「上海三和」は“「党営」企業”から“民営独資企業”に脱皮して、新工場へ移転する。
それから十数年、バトンは次の世代に引き継がれた。
― ○ ―
「木曽路はすべて山の中である」の書き出しではじまる島崎藤村の『夜明け前』は、明治維新をはさんで変貌する木曽山中三十余年の顛末を描いた大河小説であるが、その最後は、主人公半蔵の寝棺の穴を掘る鍬の音の描写で終わる。「一つの音の後には、また他の音が続いた」
日本は、明治維新のあと「脱亜入欧」の路線を歩み、国を滅ぼした。
中国は文革終結に際し、小平が毛沢東を「功績第一 誤り第二」と評したが、中国のいまの紙幣には彼の肖像しかない。この「毛沢東」は、これからの中国の行方を、どうみているのだろうか・・・。
(2015年11月22日記)
週をはさんでふたりの友人のお別れ会があった。
三戸俊英公認会計士(享年64歳)と三和化研工業㈱の創業者であり、上海三和医療機器有限公司の元菫事長・岡田禮一(享年81歳)さんのおふたりである。中国経済の改革開放の前夜からともに汗を流してきた「戦友」であり、文字どおりの「同志」であった。
72年の日中国交正常化以後、日本の地方自治体と中国の都市との友好交流が深まっていった。大阪市は74年に上海市と友好都市協定を締結、大阪府80年に同じく上海市と締結した。この間わたしの所属する大阪府日中友好協会が仲介して、“友好の船”や“友好の翼”で多くのひとたちが中国を訪れ、交流を深めてきていた。
82年6月、“友好貿易”から“対中投資諮詢”に転じたわたしは、上海市人民政府外事弁公室傘下の上海市対外友好協会日本処を窓口に、訪中団の派遣と中国マーケットの調査に取り組んだ。『上海経済交流』誌によると、訪中団の派遣は83年5団(39名)、84年8団(60名)、85年21団(206名)、86年9団(74名)と4年間で43団(379名)にのぼっている。
同誌創刊号(85年8月)をみると、84年1月に締結した日系製造業合弁契約第一号の「紅麻レース」の研修生20名の来日、嘉定県経済代表団来日(7月31日)や連雲港経済開発公司との合作協議書の締結などの記事にあわせて花果山サントリービールの紹介も掲載されている。
同誌第二号(85年10月)のトップに「上海の市街地再開発―<友好改造区>構想」の記事があり、同年2月に上海市の担当副市長に提案したこの計画を大阪商工会議所で紹介・披露した講演会の模様が報じられている。またその「上海経済区都市めぐり②」には上海市嘉定県の紹介があり、5月には八尾商工会議所友好訪中団が訪問、9月末から山脇市長を団長とする八尾市・議会友好代表団の訪中が告げられている。その誌面には岡田禮一さんとわたしを含む団員のスナップ写真も載っている。
あの事件が発生した89年6月発行の同誌16号に、わたしは「草の根の経済交流」と題した一文で「上海三和」設立のいきさつをつぎのように紹介している。
「数年前から始められていた八尾日中の友好訪中団に参加されていた三和化研工業の岡田社長が、嘉定県の衛星中心等に寄贈されていた同社の床ずれ治療マットの臨床結果がきっかけとなって、85年9月、同県から合弁の申し入れがあり」紆余曲折を経て、87年12月「研究開発と外注管理、組み立て、販売を主体とする従業員16名(内日本人2名)の合弁企業が開業した」
この同じ号に三戸俊英公認会計士の「渉外税法知識」の連載がはじまっている。
わたしが三戸先生にはじめてお目にかかったのは、86年9月上海で開催された「第2回大阪・上海経済交流会議」への参加打合わせの会合であった。上海では西尾名誉団長(大阪市筆頭助役=当時)のアテンドなどで多忙を極め、三戸先生とお話しする機会も無かったが、団がアモイから広州・香港への視察に移動した旅の折々にこれからの日中経済交流に専門家の参加が求められるとお話して、帰国後、協会の「合弁企業経営管理研究会」に参加していただいた。隔月に開催されていたこの研究会には、在阪の日系合弁企業の実務担当者と高橋正樹弁護士ほか専門家が参加され、合弁企業の実務上の諸問題をQ&A方式で勉強していた。のちに近藤友良公認会計士にもご参加いただき、三戸・近藤両先生の翻訳による『中国渉外税法知識』が88年2月、当協会から出版されている。
わたしがはじめて嘉定県を訪れたのは83年の春と記憶するが、日本の都市計画・建築の専門家と嘉定県城の孔子廟などをふくむ街並みの整備と保存を同県の専門家と協議する会議・視察のアテンドであった。そのときは、市内のホテルに宿泊、クルマに分乗しての“嘉定”通いであったが、道路事情が悪く片道2時間近くを要し、着いてしばらくすると昼食・休憩、午後2時間ほどの会議や視察で帰路につくというありさまであった。往復の都度、馬陸郷人民政府の前を通る。人民政府の看板の横に「上海-大阪友好人民公社」の看板が架かっているのが気になった。上海から随行の人にお伺いすると、大阪府との友好提携後、地元から大阪へ農業研修生が数次派遣され、大阪からも専門家が来てニンニクとしいたけの生産で有名な同県の農作物の多角化を図る交流が続いている、その記念碑の由であった。すでに“文革”も過去の話となり、全中国で唯一残る「人民公社」であったが、日本からの進出企業はまだなかった。
89年のあの事件のあと、スワトウでの合作企業の設立、90年の「浦東開発宣言」後の「土地使用権の有償譲渡」にからむセミナーの開催など、なにかと忙しい日々が続いたが、中国をその周辺諸国・地域から眺めたいとの思いも募り、三戸先生ほかの友人知人を誘って、韓国、台湾、極東ロシア、ベトナムなどを2~3年かけて視察に出かけた。
89年秋、ソウルでは現地経済研究所や経済団体と懇談、まだ中国とは国交は開かれていなかったが香港経由の輸出入は行われていた(6月の事件後、広東省の各地には韓国企業の視察グループが群れをなしていた)。
翌90年9月、台湾へ。交流協会を尋ね、ヒアリングのあと高雄の輸出加工区の日系企業2社を訪問。人件費の高騰で大陸への進出ムードが高い。
91年9月、ハバロフスクから新潟空港に降り立ったとき、マスコミに取り囲まれた。ゴルバチョフが軟禁された由だが、現地の状況は?ソ連邦崩壊の前兆だが、時差がありわたしたちが飛び立った後のこと。このときはウラジオストク開放第一号の旅行団で、メンバーの半数は墓参目的。おかげでイルクーツクの奥のギリシャ正教墓地まで参観できたが、ソ連の経済は崩壊していて宿泊も食事も貧しく、各地に中国からのスーツケースマーチャントがあふれていた。ラムール河のほとりでドルを求めるひとから買い求めた油絵の小品は、いまもわたしの部屋に架かっている。
89年のあの事件で、瞬間的に頓挫した訪中団も90年12団(63名)、91年10団(80名)と復活、92年10月には協会設立10周年記念パネルディスカッションを、三名のパネリスト(中国進出企業代表)を招いて開催している。コーディネーターは高橋弁護士と三戸公認会計士のおふたり、出席者は100名を超え、第2次中国投資ブームを予感させる動きであった。
92年春 小平の“南巡講話”と同年秋の天皇訪中で、対中投資ブームにふたたび火がついた。
三戸先生は2000年、村尾弁護士と上海にキャストコンサルを設立して常駐、「上海三和」は“「党営」企業”から“民営独資企業”に脱皮して、新工場へ移転する。
それから十数年、バトンは次の世代に引き継がれた。
― ○ ―
「木曽路はすべて山の中である」の書き出しではじまる島崎藤村の『夜明け前』は、明治維新をはさんで変貌する木曽山中三十余年の顛末を描いた大河小説であるが、その最後は、主人公半蔵の寝棺の穴を掘る鍬の音の描写で終わる。「一つの音の後には、また他の音が続いた」
日本は、明治維新のあと「脱亜入欧」の路線を歩み、国を滅ぼした。
中国は文革終結に際し、小平が毛沢東を「功績第一 誤り第二」と評したが、中国のいまの紙幣には彼の肖像しかない。この「毛沢東」は、これからの中国の行方を、どうみているのだろうか・・・。
(2015年11月22日記)
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