くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

四国の旅  四国村・金毘羅さん・岡山 

2011-10-30 21:42:40 | 



★四国村
 入口にある「わら家」で讃岐うどんを食べた
 久しぶりに来たが、うどんの味は変わっていない。

 四国村では、学芸員さんの説明で徳島の河野家住宅から見学する
 10月からボランティア囲炉裏番がいて、囲炉裏に火がはいっていた

 河野家住宅 愛媛県の山間部、高知県境に近い所の住宅、18世紀前期ごろの建築
 土間と1列2室の茶の間・座敷
 土間に楮蒸しの設備がある
 
 砂糖〆小屋、円形の建物で腕木を牛に引かせて建物の中をぐるぐる回り
 臼を回転させてサトウキビを絞った

 愛媛県の茶堂、村人の信仰の場であるとともに、遍路さんや旅人の休憩所
 瀬戸内寂聴尼により「遊庵」と名付けられている

 小豆島の農村歌舞伎舞台や祖谷のかずら橋もある

★金毘羅宮
 神仏習合で象頭山金毘羅大権現。宗教法人金刀比羅本教の総本部
 長く続く参道の石段が有名で、奥社まで登ると1368段にもなる
 海上交通の守り神 「海の神様」として名高い

 お頭人(トウニン)さん
 ちょうど、泊った日が年に1度のお頭人さんの日で、金毘羅さんのご神体を出雲の
 送り出す日で、ご神体を分身する儀式で夜祭り
 頭人というのは、けがれのない童子には昔から神が宿ると言う信仰から、祭りの当日
 本宮から里の旅所へ神様を先導して下りてくる子供のこと
 祭りの中心であり、かわいらしのでこの祭りを「お頭人」と呼んでいます

★金丸座(旧金毘羅大芝居)
 国指定重要文化財(1970年)
 1835年に建てられた現存する日本最古の芝居小屋で、1985年から年1回春に
 「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が開催されています
  

★岡山倉敷・大橋家住宅
 国指定重要文化財(1978年)
 倉敷町屋の代表的な建物、街道に面して長屋門を建て内側に前庭を隔てて母屋を
 配した建物が特色
 1798年~1799年に主要部分が建築され1807年~1851年の大改造
 平成3年~7年にかけて保存修理工事をし、当時の姿に復元
  
 (製塩業で財をなし、現中国銀行も大橋家の始めたものだそうです)
 
 
 
 

『古文書徒然』其之壹 

2011-10-22 20:54:13 | はらだおさむ氏コーナー
金持ち ケンカせず?

~古文書学習日記より~


2月から3月にかけて、異なる文体にも慣れるようにとの「配慮」からか、川辺郡寺本村に居住し金銀貸付業を営む前田家の「文書」3件を読むことになった(といってもわたしは先輩たちの読解力に、ひたすら羨望のまなざしを向けるばかりであったが)。

そのひとつに「掛屋敷組合持枝証文之事」がある。
前田家の当主、前田良蔵が尼崎の掛屋泉屋利兵衛宛に差し出した文書である。
この二人に山田屋市右衛門(不詳)を加えた3名の共同出資(出銀)で、堂嶋新地弐丁目の土地(表口弐拾六間奥行弐拾間)・建物(浜納屋二棟、竈数=民家四十一軒)を京都の銭屋利助(不詳)から銀百五拾貫目で購入している。
場所は現在の堂島浜一丁目、元禄十六年大坂図(教材資料)といまの区割りを見比べてもあまり大差はない。ちょうど御堂筋の大江橋北詰(大阪市役所の斜め向かい、日銀大阪支店の北)を西へ入った二区画目で、「新大ビル」が建っている一等地のおよそ一万八千四百坪を建物込みで買い取っている(先学の計算によると、銀百五拾貫は現換算値で二億三千万円相当とか。これで計算すると坪単価は11,250円となるが、金相場に比しいまの不動産価格の高騰・突出ぶりが目立つ)。

ここで取り上げたいのは、そのことではない。
ふたつめの「文書」に「出世払い」の話が出てくるのである。
買い取ったのが文化四卯年(1807)八月、それから二十八年時代が下がった天保六年(1835)未二月、明石屋喜助から前田良蔵宛にこの文書「一札之事」が差し出されている。
喜助は堂嶋新地弐丁目で家守(やもり)をしていたとあるから、上記の物件の管理をしていたのであろうか。あるときから「右家賃金取集之儀」を仰せ付けられ、節季(盆、暮)毎に取り集めたが「銀高連々ト引負仕候処実正也」、ところが「此度右御家守相退キ候二付」と退職することになり(クビか?)、調べてみると「銀四貫五百三匁六歩八厘也」が未納になっていた。無い袖は振れぬと「嘆願奉申上候処、御聞届」成し下されて、「私出世仕候迄、御猶予被成下候段難有奉存候」となる。この金額、いまの時価では七百万円ほどになるということだから、少ない「引負」額ではない。
家賃の未集金が累積したのか、年一~二度の集金残も「チリも積もれば」ということにもなるが、使い込みの疑惑も残る。

 「私儀幼年ヨリ当家二奉公二罷出」ではじまる「一札之事」は、つぎのような話である。
差出人の元祐は文政元寅年(1818)、別家を仰せ付けられ家屋敷田畑家財などを仕分けられる、とあるから奉公人のなかでは出世頭といえるだろう。前田家の幹部クラスの人間である。ところが、本人は「不情(ぶしょう)」につきと書いているが「困窮二付借財出来候」ゆえ、分けいただいた田地の過半を売り払い残る田地屋敷を「其元様江質物二差入」て、本家から銀六貫九百目を無利息で借りている。ところがである。「追々ト難渋二付」この質草を返してくれと泣きこんでいる。その言い草がこうである。「元来不調法者 心得違其上勤功モ無之候」、わたしならこんな幹部は要らない、女々しいにもホドがある、と頭にきたのであるが、ご本家前田良蔵は認めてやっている。「誠二冥加至極難有仕合奉存候」も口先だけではないか、「これはクビものですなぁ」と感想を述べたら、メンバーから「金持ち ケンカせず、ですよ」と返ってきた。
先例の家守の件といい、この時代、そんなにノンビリしていたはずではあるまいに・・・、といまだに納得がいかないのである。

(〇五年四月記)
(宝塚古文書を読む会・冊子「源右衛門蔵」八号所載)

四国の旅・小豆島 

2011-10-19 09:16:00 | 




10月の連休に日本民家集落博物館内に移築されている小豆島の農村舞台の故郷を訪れるツアーが

開催され、参加した。

小豆島へは、高校時代のクラブ活動(和文タイプライター)から練習試合に出かけたのを

はじめに、いくどか出かけていたが、最後に訪れたのはもう20年くらい前になるか・・・・・

島は道路や家屋もきれいに整備されて、時代の移り変わりを感じたが、好天にも恵まれたが、

心地よい日差しや風は高校生の私が初めて訪れた島と変わらず、懐かしい2日間だった

★当時の記憶
 宿泊する旅館に、1泊2日のクラブ対抗試合に参加するのに
 米 3合ほど持参した記憶があります
 (今から50年ほど前のことです)




徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾参

2011-10-04 16:29:44 | はらだおさむ氏コーナー

                 
瀧が涸れて来ている!








中山寺・山門






  九月下旬 在上海日系企業のお招きで三泊四日の社員旅行に参加した。
 早朝 上海郊外の工場を出発した二台の大型観光バスは、高速道路の入口付近で数名の社員をピックアップして、市内を通過せずに一路浙江省の南部に向かう。昨秋上海万博のあと紹興~杭州~烏鎮のたびに出かけたが、そのとき渡った杭州湾の海上大橋を越え、四通八達の高速路で寧波の郊外に出る。寧波には数度訪問しているが、そのほとんどが海岸近くの企業や市内の主な観光地で、この道筋ははじめて。しばらくすると台州への道路標識が目に付く。20年ほど前、中国のミシン王、飛躍集団の邱継宝菫事長との面談に上海から温州へと飛び、台州に着いたのは三日目であったなぁ~と感慨にふけっていると、バスは台州を通り過ぎてさらに先へと進んでいく。
 昼過ぎ、所要数時間のバスのたびを終え、雁蕩山のふもとに着いた。
 ここは温州市から七十キロ、その管轄下の楽清市にあり、省都杭州市とは三百キロほど離れている。

 昼食・小憩のあと、霊峰風景区に登る。
 解説によると、この山は約一億年前の火山活動によって誕生した山塊が、長い年月をかけて侵食され、奇妙な岩峰となって残ったもの。世界地質公園に認定され、中国の五A(ファイブA)級観光地である。最高峰千メートル余、南・中・北の三区域からなり、百平方キロにわたって奇峰怪石、瀧、洞窟などがある由。雁蕩山の名前は、頂上に湖があって雁が遊ぶ様子からつけられたという。
 
 山のない上海の人々にとって、雁蕩山は手ごろな山登りの対象になるのだろうか、十数年前から今回で四度目という同行の老幹部に感想を聞くと、一番の変化は旅行者が増えて旅館の数が倍以上となり、それに反比例するかのように瀧の水が少なくなってきている、むかしに比べると見所が少なくなったねぇ~とのことであった。なぜ、瀧が涸れて来ているのか、それは彼にも判断できないことであるが、山の上の湖の水量が減ってきているのが主な要因であり、これはわたしの憶測になるが、増えた観光客に対応する生活用水の増加にも関係しているのではなかろうか、とも思われる。

 ガイドの案内で「夜に観光しなければ、雁蕩山に来た甲斐がない」といわれる夜の岩峰の変化を見に再度登ったが、その登山道の足元に日本風に云えば雪洞(ぼんぼり)のともし火を点けるとか、岩峰などに演出されたライトアップの工夫があれば、もっと楽しい時間を過ごすことが出来たであろう。

 二日目は三折瀑景区などの観光。
 前日よりさらに瀧の数は増えるが、その水量はいぜん少ない。
 ガイドがこの瀧は岩壁を伝わらず、空中を舞いながら水が落ちていきますと言っていたが、それは水量が少なくてまるでミストカーテンのように舞い散ることを指しているものと思っていた。
 帰宅後ネットでこの瀧の写真を探した。
 四年前の写真があった。
 水量は比べるべくもなく豊富で、それは二条になって流れ落ちているが、岩壁が窪んでいて確かに伝い流れない構造になっている。それでもつぎのようなコメントがついている。
 「瀧とはいえ、ゴウゴウと流れ落ちるのではなく、その水は繊細なシャワーのように降り注ぎ、風によってゆらゆらと方向を変えてゆく」
 そうか、四年前はまだシャワーのようにゆらゆらと降り注いでいたのか、そして、いまはミストカーテン、空中に霧のようにたなびき岩壁を遮っているに過ぎない。
 台風や大雨で、龍神の、のたうちめくかのような日本の滝の水を運んで来たい思いに駆られたものである(龍にサンズイをつけると瀧になる)。

 夜 テレビをつけると女子バレー・アジアカップの決勝戦、日本対中国が熱闘を繰り広げていた。日本は2ゲームをすでに落として、いまは3ゲームが始まったばかり。背番号1の、やや太り目のアタッカーが日本のコートに爆弾を打ち込む。辛うじてレシーブしたボールもコートの外にはじき出される。
 久しぶりのテレビ観戦だが、わたしが知っている中国選手の名前は30年ほど前の郎平(ランピン)のみ。そう、あのときも日中の大熱戦、病室の消灯時間も過ぎて、注意しに来た看護婦さんも思わず応援に加わったあの興奮。
 しかし、いまは日本が大苦戦、この背番号1の鋭いサーブを辛うじて受け止め、日本のアタッカーが彼女の足元に厳しい球を打ち込むと、からだがのめり込んでレシーブできない。ここぞとばかり彼女を攻め立てるが、日本のミスも続いてゲームは二転三転。背番号1がレフトウイングに戻り、左右両翼のアタッカーが爆弾を打ち込むと、日本はひとたまりもない。かくして日本は1対3で完敗した。
 中国バレーボール協会の公式ホームページを見ると、背番号1は主攻手(エースアタッカー)王一梅(ワン・イーメイ)で、今大会のMVPを受賞している。さらにウイキペデイアを開くと、歴代選手名簿では郎平のつぎに紹介されている。そうだ、この顔、身長191cm、体重80kg、破壊力抜群の強烈なスパイクとジャンプサーブの「戦慄の重戦車」、21歳とあった。15歳から中国代表に
選ばれている。
 中国チームは日本に勝利したが、チームワークなどにも弱点が見られた一戦であった。

 第三日 雁蕩山を下って、蒋介石のふるさと・寧波の奉化市渓口鎮に向かう。
沿線で温州発の、例の新快速列車が追い抜いて行く。なんとなくガイドと顔を見合わせ、うなずく。
 午後は寧波の新十景-五龍譚風景区に行く。
 さすがにここは全員が初参加、瀧の水量も雁蕩山よりは豊富であるが、変化が乏しくて物足りない思いがした。これで観光客が増えるとどうなるだろうか。
 第三夜の宿泊は、寧波郊外の外資系五星(ファイブスター)ホテル。このクラスのホテルに初宿泊の人も多く、なんとなく空気が華やぐ。ホテルの向かいのアウトレットモールはウイークエンドのショッピングを楽しむ若い人たちであふれていた。

 中国の新風物を会得した三泊四日の旅であった。
 豊かさが確実に人々のものとなり、マナーも自然と身についてきていた。
 この国がこのまま成長の果実を隅々にまで行き渡らしてほしいものと痛感しているが、帰国の日に上海の地下鉄で事故があった。成長をあせらずに、ソフトランディングしてほしいものである。


水涸れて 峨峨と貌出す 渓の岩    横田須賀子
(ザ・ネット俳句歳時記/野田ゆたか編)

(2011年10月3日 記)

安倍文殊院(ぼっくり寺)日本3文殊第一霊場

2011-10-03 22:36:00 | 寺社・仏閣




本尊『文殊師利菩薩像』日本最大の木彫極彩色の騎獅子像 
鎌倉時代・重要文化財・快慶作

高さ7メートル・日本最大の文殊菩薩像
抹茶を700円で頂くと、身近でこの文殊菩薩像と対面することができる
なんとも、うつくしい菩薩像です

ヒガンバナを求めて明日香に出かけたのですが、カーナビで見つけた安倍文殊院に
立ち寄った。若者には知恵の寺、老人にはぼっくり寺として願かけ寺として名高い
所でした。
安倍仲麻呂、安倍晴明のゆかりの寺でもある

槇の実
果実は上部の緑色の部分が果実、下の赤紫色の部分は花床(かしょう)が大きくなったもの
(花床→花托→花が着く部分)