「シャンハイ」
封切りから半年もたったある週末の夕刻、ショッピングセンター地階のシネマで「シャンハイ」を観た。数名のシニアしかいなかった。エディングの字幕の最後にタイの会社や人たちへの感謝のことばが連なっていた。明かりがつくと、残っていたのはわたしひとり。この映画のシャンハイのセットがつくられたのはタイであった。そうだろうなぁ、いまの上海ではこの映画をロケで撮ることはできまいと思った。
ネットで見た短評につぎのようなものがあった。
「本作のような、多国籍の人物が登場する映画では、ステレオタイプで描きがちな人物造形を、ハストロームの演出は、偏りを感じさせない。・・・ホセイン・デアミの優れた脚本の力も無視できない。・・・五人の主役にそれぞれ見せ場が用意されている。反日レジスタンスの身を隠し続ける美女を演じるコン・リーが、凛として、魅力的。日本軍情報部を統括する大佐に扮する渡辺謙は、貫禄ある重厚な演技を披露する。上海に赴任早々、同僚が殺害され、その調査を始めるアメリカの情報部員にジョン・キューザック。日本軍と国民政府の双方に通じる青幇、三合会のボスにチョウ・ユンファ。アヘン中毒になりながらも、アメリカの機密を探ろうとするスパイ役に菊池凛子。・・・コン・リー、ジョン・キューザック、渡辺謙の絡むラストシーンが本作の白眉。エンド・クレジットでは、ラン・ランのピアノが切なく流れる。そして、エピローグで示される一節に、心が震える」(イズムコンシェルジュ)
観た人にはわかる、うまいまとめである。
わたしがこの映画で見たかったのは、コン・リーだったのか、シャンハイであったのか。
「赤いコーリャン」のデビュー以来、チャン・イモウとコンビの彼女の映画はほとんど観ているが、かれと別れ、いまはシンガポールの国籍を持つ彼女のその後の主演映画は知らない。もう40をこえたであろう彼女が、この映画「シャンハイ」で主役を、それも夜の帝王の貴夫人と反日レジスタンスの地下指導者のふたつをどう演じわけるのか。彼女の醸しだす妖艶さには年輪が加わり、父を日本軍に殺されたその復讐を果たさんとする執念が画面を引き締めていた。
そのムードは二十年ほど前の「菊豆」などにも通じるものであった。
九十年代の後半、安徽省の黄山に登頂のあと付近の民家集落を視察するツアーがあった。折角の機会なので、その近くと聞いていた「菊豆」のセットが残る地区までの旅程を組んでいたが、現地に着くとダメになったという。わたしは若いガイドに“ミサイル基地が出来たからだろう”とカマをかけたところ、“どうしてわかるんですか”とボロが出た。台湾との関係が緊張しているときであった。安徽省の山から台湾まで、それはミサイルの射程距離に適している。わたしの口から出まかせの話が、的を突いたようであった。「菊豆」にはそんな思い出も残る。
この映画「シャンハイ」の時代背景は、一九四一年の十一月から十二月にかけて。わたしの「国民学校」一年生の冬、「大東亜戦争」勃発の直前のことである。当時の“魔都”シャンハイには、英米共同租界とフランスの租界があり、日本人は虹口付近を中心に居を構えて、軍隊を駐屯させていた。日本は紡績産業を核に多くの企業が進出、在留邦人も十万人近くとなり、日本との往来も盛んであった。芥川龍之介の勧めで上海に滞在した横光利一は、一九二五年の「五・三〇事件」を題材に小説『上海』を書いているが、いま読んでも当時のシャンハイの雰囲気を感じることができる。そのシャンハイでの、戦争勃発直前の情報合戦、スパイ活動がこの映画の主題でもある。
「米国諜報員ポール(ジョン・キューザック)は、親友の死を追いかけ、謎の男女と出会う。太平洋戦争開戦前夜、アヘン中毒のスミコ(菊池凛子)は、アメリカと日本、どちらのスパイであったのか?」
そして、上海に集結していた日本艦隊のうち、魚雷を積み込んでいた空母が密かに上海の港を出航する、そして・・・。これは、「リメンバー・パールハーバー」七十周年の記念映画にでもなるのだろうか。
『広場の孤独』で文壇にデビューした堀田善衛の上海滞在は、この映画より少し後の“敗戦前後”であるが、その作品『上海にて』は五七年に再訪した“いま”と“当時”の上海を観察して日本と中国という「宿命的関係」を考察したエッセイである。堀田は文革以後の上海は見ていないが、その“原点”は見据えている。
わたしは貿易の仕事の関係で文革中も上海に出かけ、日中国交回復前には和平飯店の北楼二階に事務所を設けて社員も常駐させていたので、そのころの上海はかなり見聞きしていたが、それはまったくの“走馬看花”であった。巴金の『随想録』や元シェル石油上海支店長夫人・鄭念著の『上海の長い夜』などを八十年代後半に読んで、「四人組」の巣窟であった上海の「暗黒時代」を思い知った。
十年ほど前になるか、東京でひとりの中国人外交官と雑談したことがある。
文革がはじまったころ、日本のあるグループが中国との友好交流に対し、陰に陽に妨害し、サポタージュしたことがある。いまはそのグループも中国との関係を正常化させているが、そのとき被害を受けた当事者たちは釈然としない思いでいると話したところ、加害者は忘れやすいが、被害者は忘れること、許すことがなかなかできない。中国でも文革の傷跡はいまでは表面上は消え、“名誉回復”もされてはいるが、個々の人間関係となるとその修復はおそらく三世代以上かかるのではないか、とのはなしであった。
日中や日韓の関係もそういうことなのであろう。
日本でも“怨念”にも似たつぎのような話もある。
幕末の戊辰戦争で“朝敵”とされた会津藩のその後。
長州藩であった山口県萩市からの姉妹都市提携の話にも、なにをいまさら、ということであったと耳にしたことがある。いまこれを書きながら、昨年の「3・11」のあとはどうであったのか気になって、ネットサーフィンした。山口県の萩市から義捐金や支援物資を届けられた会津若松市。市長がお礼に参上するとき、記者団に問われて“和解とか、仲直りではない。震災見舞いのお礼である”と答えられたということであった。<「賊軍」の汚名を着せられ、辛酸をなめさされた>この思いは、孫・子の代はおろか、ということになるのであろうか。
映画「シャンハイ」から、はなしがずいぶん飛んでしまった。
コン・リーが記者会見でつぎのように語っている。
「わたしがこれに出たいと思ったのは、国際的な意味で重要性をもつ物語と思ったから。このライターは九年もかけて脚本を書いたのよ。中国人たちが戦争に直面している、その時代の物語をね。歴史を忘れてはいけない。戦争を忘れてはいけないの」(ムービーウォーカー)。
映画は地方を巡回上映されているであろうが、最近DVDも発売された由。映画のシニア料金より高いが、公共図書館などにリクエストしてご覧になってほしい。見ごたえのある作品である。
(2012年2月16日 記)