くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾五

2011-11-29 20:58:16 | はらだおさむ氏コーナー
                 
「孔子の教え」      


 夕刊の一頁広告に「映画館へ行こう!」があった。
 ふと「満足度ランキング」を見ると、その三位に「孔子の教え」があり、明日から梅田***で公開とある。
寒風のなか大阪まで出かけた。
ウイークデーの昼下がり、二十数名のシニアにご婦人がチラホラ、なんとなく盛り上がりに欠ける。

 わたしが「孔子」さまに関心を持ったのは、文革中の「上海服装交易会」のときであった。なじみの貿易公司の担当者に契約商品の生産状況を見せてほしいと話したとき、工場はいま休業中とのこと。納期が心配になったが、担当者も“メイファーズ(没法子)”とつぶやく。あとで会社の駐在員に聞くと、工場は天井からスローガンが一杯ぶら下がっていて、まるで“七夕”のよう、「批林批孔」大会が続いているとのことであった。林彪の批判はわかる、だがなぜ、孔子なのか・・・。
 七六年一月に周総理が逝去し、「批孔」が孔子になぞらえての“批周”であったことを知る。
その秋に“四人組”が逮捕され、文革は終結、改革開放への扉が開く。

 それから二十余年のあと、「孔子」は復活した。
 中国の小学校の教科書「品徳と社会」にも、孔子は偉大な思想家として復活、党校と目される中国人民大学の構内にも孔子像が建てられた。〇四年には曲阜孔子廟において政府主催の孔子生誕二千五百五十五年大祭が盛大に挙行され、全国にテレビ放映された。
 そして、五年後の建国六〇周年記念祝賀のひとつとして、この映画が制作費一・五億元(約二十億円)を投じてつくられたと知る。

 この映画(原題は「孔子」)のあらすじは、このようになる。

 紀元前五〇一年の中国。晋・斉・楚の大国三国に隣接する小国・魯の国政は、権力を握る三桓と呼ばれる三つの分家により混乱していた。君主・定公は安定した国を築くため、孔子に大司寇の位を授ける。孔子はその期待に応え、次々と改革を進める。殉葬など古い習慣の撤廃や新しい礼節の制定だけでなく、斉との同盟条約を無血で締結させ、外交でも力を発揮した。孔子の非凡な才能は各国に伝わり、他国の為政者は孔子に関心を寄せる。なかでも衛の君主・霊公の妻で実質的な権力者である絶世の美女・南子は孔子を気に入り、自国に引き込もうと画策する。衛や斉から孔子を招聘したいという書簡が次々と届き、孔子の功績は季孫斯ら三桓も認めるところとなる。
 紀元前四九八年、孔子は国相代理となる。
 孔子は三桓の影響力を弱めようとひそかに動き出す。しかし、孔子の弟子・公伯寮の密告により、そのことが三桓に知られてしまう。三桓は君主・定公を抱きこみ、孔子を魯から追い出す。孔子は家族を残し、旅に出る。顔回や子路をはじめ多くの弟子たちが合流する。孔子たち一行の諸国巡遊の旅の先には、数々の出会いと別れのドラマが待ち受けていた・・・(goo映画)。

 オーストリアとの合作映画「愛にかける橋」などを手がけた中堅女性監督(脚本も)のフーメイ(胡玫)、孔子役はハリウッドでも活躍中のチョウ・ユンファ(周 潤発)だが、わたしはどちらも初見。監督は「孔子の高貴さと内に秘めた男らしさも演じられるのは彼しかいなかった」と、チョウにベタ惚れだが、いいオトコではある。
 五年の歳月をかけ、巨額な制作費をかけたこの映画は、俳優だけではなく、戦闘シーンの壮大さや、監督の思い入れで孔子が幸せな時代は「暖色」、失意の時代は「寒色」とカラートーンにも気を配っているとあるが・・・ウ~ン、どうであったか・・・。

 わたしがこの映画でいちばん気にかかったのは、子路の死の場面。
 映画の後半、孔子たちは十数年の流浪のたびの末、祖国・魯への帰国が認められ、吹雪の湖上を渡るとき。突然氷のきしみ割れる音がして、子路は馬車ともに湖底へ落ち込む。心配げにのぞきこむ孔子たち、と、子路は木簡を抱えて浮かび上がり、そして、それを渡すとまた氷の湖底へ。両三度それを繰り返して湖底から木簡を拾い集め、そして息絶える。氷のような、その冷たい子路に取りすがり、嘆き、泣きくれる孔子とその弟子。
 こう書いてみれば、ずいぶんと感動的な場面のはずだが、木簡=論語と強調しているかのようなこのシーンの作り方には少し興ざめした(論語は後世、孔子の弟子たちがその言動を纏めたもの)。そして、その子路の描き方である。
 文革中、なにかがあると“学雷峰”というキャンペーンがあった。それは毛沢東の“為人民服務”の学習運動として、“滅私奉公”を強要するものであったが、この子路の描き方も、それに類してはいないか。
 八九年のあの事件のあと、早くも七月から“学雷峰”のキャンペーンが党内で繰り広げられた由耳にしていたが、九月になると学習会では“居眠り組”が多数を占めていたという。文革のあと、毛沢東も“誤りがあった”とされるなかで、その時代の“学雷峰”の精神を学ぶということの「阿呆らしさ」が居眠りを誘ったのであろう。
 子供たちに“愛国教育”を施しても、それは道徳律とはならない。
 シンガポールのリー・クワンユー元首相がその伝記のなかで書いているという「中国の汚職や腐敗の根源は、文革時代に起きた正常な道徳的基準の破壊である」という指摘も一理はあるだろう。そして胡錦涛政権が「和諧社会」実現の精神的バックボーンとして「孔子の復活」をとりあげたのも、理解はできる。だが、道徳律の復元には、長い期間の社会的教育が必要である。


 この映画「孔子」の中国の評判はどうであったか。
 ネットでは「聖人は庶民に勝てず?『孔子』人気の低迷、『アバダー』通常版再び映画館へ」というコラムがあった。
 官製?映画は、かなりの苦戦模様、児童の集団鑑賞、山東省の組織的動員などいろいろ、人気映画「アバダー」の春節期間の上映制限もあったようである。
 日本でも自民党議員向けの特別試写会も催され、それなりの前評判で、わたしもそれに釣られて足を運んだのだが、わたしはおかげで久しぶりに「孔子」のことを考える時間がとれた。
 そして、書棚をかき回して中島敦の文庫本を探し出し、何十年ぶりかで「弟子」を再読した。
 さらに、4月に読みかけたままになっていた竹内実先生の『さまよえる孔子、よみがえる論語』(朝日選書)を再度手にするきっかけになった。「第一章 曲阜への旅 第二章 孔子の時代 第四章 新しい国家―吹き荒れた文革の嵐」 はすでに読んでいた。未読は「第三章 列国周遊の旅・晩年」と「終章 没後の孔子評価と金言・格言・ことわざ」である。
 これらはこの映画を観た功徳といえようか。
 この映画を見ながら「孔子」と「中国」を考える機会にしていただけたら幸いである。
                   (2011年11月27日 記) 

スペインーバルセロナ

2011-11-29 20:34:49 | 




バルセロナのことは皆様周知のことと思います。
ガウディのサクラダファミリアを始め、市内にもガウディの作品群が盛りだくさん
それにもまして、8角形に区切られたきれいな街並み
旅人に優しいスペインは実感していましたが、豊かな歴史に積み重ねられた街でした

日本人の現地ガイドさんが、スペインのよさと日本のよさを比較してくれましたが
どうもスペインから見た日本は、いい国らしい。
全体のバランスは、日本がどの国よりもいいと語られました。

さて どう答えたものか・・・・・

緑の街中を歩きながら、考えてしまいましたが。

サクラダファミリアは日本の倉石さんという彫刻家の参加で、塔の上の果物が完成して
いました。
まだまだ、建設は続くそうです。

スペインーマドリッドーサラゴサ

2011-11-26 13:08:48 | 




スペインは遠かった!!

ことしのスペインの秋は暖かいそうで
紅葉がきれいでした
気温も12度から20度と天候にも恵まれ快適な旅ができました

国土は日本の3分の1倍
人口は3分の1
時差 8時間

マドリッド空港に到着
車でサラゴサまで315km走る
車内ではよく眠れた

荒野の中に風力発電がたくさんある
スペインは、電力は風力発電だそうだ

サラゴサでは世界遺産のカテゴラル 
17世紀の建築 聖母ピラール教会を見る

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾四 

2011-11-07 00:25:23 | はらだおさむ氏コーナー
                 
老百姓(ラオパイシン) 老朋友(ラオ ポン ヨウ)
      


 二年ほど前 ある読書会で『日本中世の百姓と職能民』(網野善彦著・平凡社ライブラリー)を輪読した。難解な表現が多く、わたしが理解できたことはただひとつ、「百姓=農民」という概念の固定化は明治になってからであって、中世では「『百姓』の語は、一貫してその本来の語義―さまざまな多くの姓をもつふつうの人という意味で使用されていた」(本書P9)ということであった。網野さんは史実に基づいて著述されているのでその語源的説明はないが、それはおそらく中国語に起因するものであろう。いまでも中国語で“百姓(パイシン)”は、庶民~平民を指す言葉である。つまり、百の姓(かばね)を持つ人々ということになる。
 「人民」と「平民」または「庶民」とどう違うのか、わたしには説明しがたいが、学生のころからわたしは毛沢東の「人民、人民こそが世界の歴史を創る原動力である」という言葉に愛着を感じていた。
 「歴史を創る」、いい言葉ではないか。

 わたしは一九五七年に日中ビジネスに参画し、六四年にはじめて“竹のカーテン”-国交未回復の中国に香港経由で渡航した。北京で仕事を終え、帰路上海に立ち寄ったとき、“公私合営”で南京路の商店街はさびれていた。足を延ばして、むかし日本人が多く住んでいたという虹口の路地を歩いていたとき、老婆がいきなりわたしに唾を吐きかけて、なにか叫んだ。わたしが日本人の看板を背負って歩いていたわけではないが、老婆に何かいやなことを思い出させたのであろう。わたしは足早に立ち去った。
 一九七〇年は大阪万博の年である。
 まだ中国とは国交が正常化されていない。
 万博の出展は、「中華民国」であった。
 わたしたちは、中国との国交正常化を求めていろんな活動をしていた。
 百貨店などの「大中国展」は、「中国を知り、知らせる」一つのデモンストレーションであったが、関係団体などは関西財界筋などにも働きかけ、ひとつの国民運動となってきていた。
 七二年九月二九日のあのとき、百貨店の大中国展の会場でクス球が割れ、“祝 日中国交正常化”の垂れ幕が下がったとき、そうだ、わたしたちは「歴史を創った」のだと胸を熱くした。
 九二年は小平の「南巡講話」で中国が改革開放に向けて本格的に動き出した年であり、天皇訪中が実現した年である。わたしはこれで日中間の「過去」にピリオドを打ち、未来志向の両国関係が構築されるものと期待したが、「愛国教育」が立ちはだかる。
 二〇〇〇年の秋、日中友好協会設立五十周年記念の交流会が北京で開催されたとき、わたしは盧溝橋近くの「愛国教育基地」を参観して、唖然とした。そこに展示してあるさまざまな事跡に苦情を申し述べるのではない。日本人として過去の歴史的事実に向き合い、二度とこのようなことは繰り返してはならないと思う。しかし、そのとき参観に来ていた低学年の小学生たちが「七三一部隊」の“生体実験”の、カリカチュアルな模型にたわむれ、興じる姿を見て、慄然とした。この子たちの「日本観」がこれからどうなるのか、わたしは随行の北京市のひとにその懸念を述べたのであった(後日その展示は撤去されたと耳にする)。
 〇五年は「反日」が燃え上がった年だ。
 わたしたちの九賽溝ツアーは参加者が半減し、地元のガイドは「ヨーカ堂」でのショッピングを危惧したが、わたしたちは熱烈歓迎!を受けた。昼食後、雨上がりの公園を散策しているとどこからか楽器の音が聞こえる。のぞいてみると、中高年の人たちの集いであった。かれらはわたしたちを見かけると、突然、九ちゃんのあのうた♪幸せなら手をたたこう・・・を奏ではじめたのである。日本人と知っての、即興の「熱烈歓迎」であった。わたしたちも手をたたき、足を踏み鳴らしたのはいうまでもない。
 その秋、雨の降りつのる上海の浦東で立往生していたわたしに一台の空車が近寄ってきて、途中私用でちょっと寄り道するがよかったらどうぞとドアを開けてくれた。上海郊外の松江出身の運転手、上海に仕事に来て数年になるそうだが、松江の日系企業のことなどを語り合ううちに、かれは突然真剣な面持ちで聞いてきた。「お客さん、中国はホントに日本と戦争をするのだろうか」と。
 中国ではマスコミ情報を信用するのは30%くらいといわれているが、かれはそのまじめな「老百姓(ラオパイシン)」であるのかもしれない。わたしは日本と中国が戦争をすることは絶対にない、と言い切った。かれは、そうだよな、松江で働いている日本人も、タクシーに乗る日本人もいい人ばかりだからな、とつぶやいた。

 先日 湯上りにテレビをつけたら、NHKの「爆問学問」をやっていた。
 登場は中国でいま一番有名な日本人・加藤嘉一さんとか。27歳の青年であったが、わたしは初耳。「爆笑問題」の太田“総理”がどう切り込むのかと見ていると、まったくやられっぱなしである。話の筋が通っている。「暇人」の話は、ウン、そうかい、とはいえなかったが、納得、納得で30分はあっという間に過ぎた。
 翌日近在のショッピングモールの書店で、「加藤嘉一」で検索して探してもらって手にしたのが『われ日本海の橋とならん~内から見た中国、外から見た日本―そして世界』(ダイヤモンド社)である。<反日デモとは「反・自分デモ」である><チャイナリスクとジャパンリスクの関係>など鋭い指摘がある。
筆者は高卒後北京大学に国費留学、〇五年の「反日」デモの現場視察の感想を香港フェニックステレビとの対談で語り、爾来その率直な、媚びない語り口で数多くの本(中国語)を出している。いまの肩書きは、英フィナンシャルタイムズ中国語版コラムニスト、北京大学研究員、慶応義塾大学SFC研究所上席研究員と同上香港フェニックステレビコメンテーターとある(同書プロフィール)。かれのブログは三年で数千万アクセスに達し、胡錦涛国家主席も目を通しているとのこと。
 この数字は小さいものではないが、単純に計算すると中国の五億の「網民」の十人に一人が三年に一度かれのブログにアクセスしたということになる。
 これと比較対照してチェックできる数字ではないが、『国際貿易と投資』の〇八年上期の統計によると在中国の日系企業数は五万余社となっている(71号)。ここからはまったく勝手な数字の羅列になるが、一社平均の従業員数を仮に二百人とするとその総数は一千万人となり、家族数を平均三人と見ると、実に三千万人のひとが日系企業に関係してくる。これは加藤嘉一さんのブログのアクセス数以上に注目しなければならない数字であろう。さらに日本人が一企業に平均五人常駐しているとみると、二十数万人の日本人が三千万人の「老百姓」と日常的に交流しているという勘定になる。ふだんは話題にもならないこの数字をどうとらえるか。
 別の角度から見よう。
 いま在日の中国人は数十万人に達するといわれている。
 この人たちが日常的に接触している日本人をひとり平均十人とすると数百万人となる。こうして見てみると、中国と日本のそれぞれ名も知られない「老百姓」たちの交流がいかに大切であるか、おわかりいただけることであろう。
 日本人は文句タラタラであるが、それでもマスコミ情報の70%を信用しているといわれている。加藤さんも日本のメディアを利用して、中国情報をどんどん流してほしい。しかし、繰り返すが「老百姓」の日常の交流がより大事であり、その付き合いが「老朋友」の関係になったとき、お互いの国同士の関係がゆるぎなきものになることと信じたい。
 「われ日本海の橋とならん」加藤さん がんばれ、「老百姓」がんばれ!
                     (2011年11月4日 記)

中央工学校の学園祭茶会

2011-11-02 17:12:44 | 茶話




ことし創立30年の中央工学校の学園祭がおこなわれた。

日本民家集落博物館の竹林の竹を7本使って、生徒さんが茶室を造った。

その茶室で抹茶を披露する。

そのお手伝いに、楽しく参加した。


茶室は孟宗竹と紙、お点前は中国・台湾からの留学生と日本人学生さん

ご亭主は、茶室設計と建築の○○君

面白い茶会になりました。


「こんな現代風の茶室が欲しいな」と思いました。