くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾

2014-03-24 09:15:47 | はらだおさむ氏コーナー
ネジをかむ

『日経中国網』に村山 宏編集委員が執筆の「日本人小声説」というコラムがある。不定期だが毎月一~二本執筆・掲載されており、そのなかで「中国の“愛国青年”は半沢直樹に学ぶべき」(2013年11月18日)という一文には心ひかれた。
昨年の日本のテレビ番組で視聴率のトップを占めた“半沢直樹”(やられたら、倍返し)を主題に据えたその着眼点とイントロは、一般読者の好奇心をそそる巧みな筆さばきだが、そこでとりあげられている日本の中小企業のネジ、ボルト、スプリングや工具などが中国の市場にとってどれほど必要不可欠のものかと読者の関心を引きつけている。

 ずいぶんとむかしばなしになるが、いまから半世紀前の1963年10月、
北京で開催された日本工業展覧会の出品物のほとんどはココムの規制対象品で、そのころ“竹のカーテン”で包囲されていた中国に対して日本の通産省(当時)から“持ち帰り”条件で認可されたものであった。あとから聞いた話だが、ある精密機械の出品者は日本に持って帰ればいいのでしょうと中国の技術者の要望に応じてその機械を解体して詳しく技術説明したという。かれは中国側から深く感謝され、閉会後半月ほど中国各地の関連工場の見学(兼観光)を“国賓待遇”で案内され、歓迎されたという。かれの話では、その機械の構造や使用されている部品を中国の技術者に説明したところで、そう簡単には作れるものではないので、日本の政府が“持ち帰り”などヘンな条件をつけずに中国に売却するか提供する方がよほど出品者にとっては身軽だったのに、ということであった(サムライはいつの世にもいる)。

 80年代の末から90年代の初めにかけて、日本の精密医療器械がまず北京や上海などの大病院に設置され、その効能のすばらしさに中国の各地から購入の要望が関連の貿易公司に殺到した。まだ外貨準備の乏しい当時のこと、中国国内の病院のすべての要望に応えることが出来ない中国政府は、追加購入を条件にその本社工場の見学を申し込んだ。会社内部では工場と貿易部門との間でいくばくかのやりとりがあったらしいが、応じるとすれば完全にオープンでしっかりと見ていただこうということになった。
 詳細は忘れたが、わたしも工場の見学に立会い、東京の貿易部門との商談も傍聴した。一行は十数名であったか、工場見学は三チームほどに分かれて実施されたが、本社の工場長と主任技術者が案内するチームはいつのまにか中国側は団長と通訳のみに。中国の技術者は三々五々と分散して、設置された製造ラインの機械に貼りつき、写真を撮り、機械のメーカー名を筆記している。予定時間をはるかに過ぎても工場から離れようとしないので、工場長は団長を招いて先に会議室にもどり、休憩することになった。
 やおら顔ぶれもそろい、おしぼりと茶菓の接待などがあって小憩のあと、工場長の挨拶があった。
 いくぶん皮肉交じりであったが、みなさん方の熱心な見学に感心しましたとジャブを入れたあと、工場長からこの製品開発のいきさつの話になった。
 基本設計の導入はアメリカのD社からで、技術者がひとり来日(かれの報酬は当時の日本人の平均の十数倍)、芦屋の住宅に三年間滞在、週に三日ほど京都の本社に会社のクルマで出勤したが、詳細設計などに関わる質問にはそれは契約条項に無いと一切答えることはなかった。会社としては協力工場の技術力を結集して自力で周辺技術を開発、この製品の完成を図る以外に方法は無かった。苦労したが、技術の開発は他力に依存することは出来ない。いまではアメリカのD社の技術レベルを上回り、逆に周辺の製造技術はD社に売るようになっている。モノをつくるのに、近道は無い。みなさんがたの研鑽をお願いしたいという工場長の言葉に、団長は短い答礼を述べて席を立った。

 「あのとき・あのころ 第二部」(はらだおさむの体感的日中経済交流小史)でもふれているが、日本ミシン部品訪中団が派遣されたのは86年4月からであった(日本ミシンタイムスと共催)。以後今世紀のはじめまで11回実施されている。その都度参加部品メーカーは異なるが、この交流はいまの日中ミシン団体主催の展示会への相互参加などにつながっている。ミシンメーカーの中国進出は80年代後半からであるが、部品メーカーは本体メーカーと不即不離の関係もあり、独自の行動が取りにくい側面もあった。
 表題の「ネジをかむ」現場を見たのは、80年代末の第3回訪中団であったろうか。天津のミシン工場を見学のとき、団員のひとりが部品箱のネジをつかんで口に入れ、「まだやなぁ、これはあまい」とつぶやかれた。わたしはなんのことかわからないのでお聞きすると「ネジのヤキがあまいのや」とのこと。つまり「焼入れ」が不十分という意味らしい。ミシンのネジは自動車の部品と違って何度も締めたり緩めたりするので、硬いだけではダメ、柔らかすぎてもダメ、小さい部品やけどむつかしいもんでっせ、と教えていただいた。
 九十年代のはじめまで中国のミシンメーカーは家庭用ミシンの製造が主力であった。ミシンは嫁入り支度の三種の神器の一つであったが、衣料の大量生産・大量販売が中国社会でも定着し始めると、工業ミシンへの生産転換がはじまった。中国ミシン協会(当時)とわたしたち日本ミシン部品訪中団との接触・交流が深まり、工場見学が技術交流会にもなり、技術導入の要請などに変わってきた。
 90年代も後半に入ると、工業用ミシンの部品のなかで、中国で最も技術導入したいものとしてネジがあげられるようになってきた。わたしもお手伝いをして西安や上海の工業用ミシンメーカーとの技術交流や合作商談などもしたが、その関連で、日本のネジメーカーの金属熱処理の工場を拝見する機会があった。熱処理の炉は上海の新設のラインと同じようにコンピューター管理であったが、現場の監督者の話では、いくらコンピューター管理でも熱処理は微妙なもので炎の動きと温度計が微妙にズレルこともある。それを見ながら調整するのが人間の目であり、熟練度である。この現場では年末の30日に火を落として、正月4日に炉を点火、それから360余日の終日、火を落とすことなく24時間交代で炎をチェックしている、ということであった。上海の熱処理工場では月曜日の朝点火して、金曜日の夕方5時に火を落としている。炉が万遍なく熱せられているのは週2~3日くらいか、これでは熱処理をうまくコントロールできないのではないかと思えた。わたしはネジメーカーの社長にいまの状況では日本からネジを輸出する方が製品の品質を保障できる、中国の労務管理が機械的に労働法遵守を呼びかけているかぎり、品質的に均等なネジを市場に供給することは出来ないだろうと述べて、対中投資は時期尚早とアドバイスした。
 それから十余年、いま状況がどのようになっているかは知らない。

 日経の村山さんは、日本が二十余年前、バブル破綻のなかでに演じた銀行の実態をふまえて、中国の“愛国青年”に訴えている。中国の銀行には半沢直樹のような人間が必要なんだ、不動産と国有企業への融資を優先するのではなく、中国の中小企業を育成、その成長を支援する銀行マンが必要なんだ、“愛国青年”よ、中国の銀行に入って中小企業を育成するためにがんばれ、中国の半沢直樹になれ!と。

 わたしは業務から離れて十余年、いまの経済の実態は承知しないが、日本のバブル崩壊時、不動産投資の失敗で銀行の合併が進捗、その損失の穴埋めのため低金利政策が施行され、国民にそのシワ寄せが来ていることだけはわかる。
 中国も日本も、政治の失敗を国民に転嫁させるようなことはさせてはならないと老婆心ながら思う次第である。
(2014年1月29日 記)

ポルトガル  《ポルト》

2014-03-16 14:09:07 | ポルトガルの旅
ポルト  ポルトガル第2の都市
紀元前3~2世紀(ローマ時代)貿易の要所
12世紀にポルトガル建国の中心都市
14世紀ドロウ川流域でワインの製造が始る
17世紀にはイギリスの貴族たちがポートワインを食後酒として人気となる



リスボン~ポルト移動途中の村


ドロウ川に架かる橋


トラムが坂の多い街の移動手段


ポートワイン老舗セラー サンデマン


ワイン樽
ポートワインの説明を聞き、口当たりのいいワインを試飲ができる
ワインは甘口でおいしい


サンデマン前のドロウ川に浮かぶワイン輸送船


アズレージョの美しいサン・バント駅


アズレージョ(絵タイル)


駅舎の内部壁面の歴史絵のアズレージョは素晴らしい


たそがれ始めたポルトの旧市内








ポルトガルの旅  

2014-03-10 09:38:47 | ポルトガルの旅
関西国際空港~ルフトハンザでフランクフルトへ 12時間



フランクフルト空港でトランジット
EU圏での乗り換えが楽になった
フランクフルトで入国手続きをすれば、ポルトガルへは手続きなしでいける
だた、6時間の待ち時間
フランクフルトでお茶を飲んだり空港内をぶらぶらしたり、2時間ばかり眠ったり

フライトでリスボン空港 3時間
空港から10分ほどバスで移動しホテルへ

リスボン~トマールへ (今は雨季、早速雨)
キリスト修道院(世界遺産)





壁面にはアーズレージョ(絵タイル)


木彫りのキリスト像に金箔張り(素晴らしい!)


修道者の食堂


教会の食堂(かまど)


壁面にこんな可愛いポルトガル兵


バスで移動中の風景



ポルトガルは日本の4分の1ほどの面積に10分の1ほどの人口
キリスト教(カソリック教徒97%)の国

<あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [7]

2014-03-06 10:53:30 | はらだおさむ氏コーナー

合弁企業経営管理研究会


 いま手元に88年2月、当協会発行の『渉外税法知識』(中国財政部税務総局条法局編集員会編著)の訳本がある。

訳者は公認会計士の三戸俊英(現当協会会長)・近藤友良(同監事)の両氏である。

三戸先生は86年9月に実施された大阪市経済交流訪中団(9/7~16、上海-アモイ-広州-香港)に参加、「その後の自分の中国とのかかわりに大きな影響を受け」(『上海経済交流』92・9、10周年に想う⑥)、帰国後は故高橋正毅弁護士などと当協会の合弁企業経営管理研究会の主宰メンバーとして活躍される。

この研究会は現地進出企業の実務担当者と専門家で構成され、隔月開催で基本法はあるが実施細則も不備な状況のなか、進出済みの現地法人が現場で抱える諸問題を専門家が吸収、それを中国の諸規則と照合、日本における専門的対応と判断を加えて研究することを指向していた。

企業はタバイエスペック(当時)、ナリス化粧品、三和化研などが常連メンバーであった。

この冊子は研究会の事例研究のなかで、「中国税法」の研究・理解が焦眉の課題と認識の上翻訳に着手されたもので、訳者は「本書は《渉外税法知識》(1987年2月中国経済出版社)のうち、法令を抄録した後半を除く、前半のQ&A部分を訳出したものである。

現行の中国渉外税法に対するわかりやすく、権威のある解説書となっている」と紹介している。

出版に先立ち内容の理解を深めるため、87年10月実施の第22次経済交流団のA団(団長高橋正毅弁護士)は専門家を中心に構成、上海会計師事務所と渉外律師事務所と交流した。

上海会計師事務所との会合では日中双方が向かい合って並び、上海友協のRさんが黒板の前に座って通訳を務めたが、条文の解釈をめぐってそれぞれの席で喧々諤々の論争が起こり、これでは通訳が出来ない、日中双方でお互いに意見をまとめて代表質問をおこない、それに対して回答をまとめた上で発言してほしい、と名議長役を演じたのが印象深い。

高橋・三戸コンビはその後日本と中国で対中投資に関する法律・税務の専門講演会を頻繁に開催、当協会でもこの合弁企業管理研究会を発展的に解消して協会内の組織として中国総合研究所の設立準備が進められたが、高橋弁護士の急逝で定款にその名を記しただけに終わった。

無念なるかな、とご冥福をお祈りする次第であるが、この研究会の初一念は,いまも当協会のメンバーに脈々と流れ、受け継がれてきている。
                                 (2004・8・27 記)