KOKYOU
莫言さんのノーベル文学賞受賞から、もう十数ヶ月がたつ。
この授賞式に参列された吉田富夫先生が帰国後書かれた一文の最後に、つぎのようなはなしがあった。
ストックホルム最後の夜、あの事件で亡命を余儀なくされた詩人北島の仲間であった陳邁平さん(同夫人アンナさんはスウエーデンにおける莫言さん訳者の有力者のひとり)の招きで訪れた市内の店、名はKOKYOU。
「たぶん、日本語の故郷の意味。ご主人の王紅偉さんはスウェーデン華人商工会副会長。北京大学出身というのですが、ひょっとして文革で生まれたれいの労農兵学生だったかも知れません。ハルピンから香港を経ていまスウェーデンで店を開いていらっしゃるのですが、そのどこかで春雨の加工技術のことで日本ともかかわったことがあるらしい。KOKYOUという店名はそれと関係があるらしいのですが、なにしろ一筋縄ではいかない人生です」(吉田富夫『雪の幻影―莫言氏・ノーベル賞授賞式の一週間』「こころvol.11/平凡社」)
いつまでもこころの底にへばりつくおはなしである。
九十年代のなかばであったか、上海都市研究会の訪中団にパリの大学で教鞭をとる日本女性の参加があった。帰国も間近に迫ったある夜、彼女からむつかしい話があった。パリにいる知り合いの中国人から、上海の友人の近況を聞いてきて欲しいと手紙を預かってきている、なんとか連絡がとれないか。
苦労して、やっと連絡がつき、ホテルまで来てもらった。旅行社の通訳は、同席しないというので、ときには筆談を交えての面談とあいなったが、いまは毛沢東肖像のデフォルメ画が日本ほかで評判になって、銀座の画廊で個展を開いたこともある、パリの友人には元気でいると伝えて欲しいということであった。誘われて彼の家と作品を見に行ったひとは、写真も撮れたのでいい土産話ができたとよろこんでくれたが、パリにはこのようなひとが大勢いると話していた。
あの事件のあと、わたしは会員の要望で8月に二度スワトウへ出かけた。
いずれも香港経由であったが、二度目は香港-汕頭のフライトがとれず、深圳からクルマで出かけることになった。海岸線のいたるところに非常線が張られ、パトカーに二度ほど追いかけられてパスポートの提示を求められた。もう指名中のひとたちは海外に逃れて声明を発表しているのだが、この海岸線の警備の厳しさには驚いた。汕頭の商談会場には西側の経済制裁の網をくぐって押しかけた韓国や台湾の商人であふれていた。現地の人は、あれは北京の事件だ、ここ汕頭とはまったく関係がないと、ここは「一国二制度」の地といわんばかりの誘致優遇策を披露していた。
故郷を離れ、国を去るとはどういうことか。
日本が戦争に敗れ、台湾が「中華民国」になったとき。
日本に少なからぬ台湾出身の「日本人」学生がいた。
台湾に帰り、蒋介石政権ににらまれて香港経由で日本に逃れて「株の神様」になった人もあれば、祖国建設の一助にと解放直後の中国に渡った医師や建築家も大勢居られる。
二十数年前、はじめて海南島へ出かけたとき、わたしより十歳ほど年長の医師も一緒だった。現地でときおり通訳を介さず話しておられるのでお聞きしたところ、台湾出身とのこと。大学でインターンのころ日本の敗戦に遭遇、医師の資格をとるため日本に帰化したが、改名を迫られたことが辛かったと。日本の女性と結婚、日本で開業医を続けてきたがココロは台湾人。アメリカに留学していた甥が選挙に出るというので台湾へなんども応援に行った。国籍は日本だが、故郷は忘れ難い。故郷を捨てるというのはよほどのこと、覚悟のいることと話しておられた。
在日の中国人女流作家の楊逸さんが08年に「時が滲む朝」で芥川賞を受賞されたとき、その受賞者インタビュ―で「中国式無神経のすすめ」と称してつぎのように語っている(『文藝春秋』08年9月号)。
「日本人はみな真面目で、なんでも重く受け止めすぎますね。もっと楽観的で、無神経にならないと、生きていくのが難しいところもあるんじゃないでしょうか」「老後は気候のいい広東省の珠海あたりで、友達同士で暮らす老人村を作るのが夢なんです、皆さん、一緒に住みませんか(笑)」
そうは言われても、真面目な日本人であるわたしにとって彼女の受賞作「時が滲む朝」を再読すると、結果的には学生たちを煽動して挫折させ、自分も欧州各国をさまよい、息子からの絶交文を見て帰国する元教師のKOKYOUを思う気持ちに胸が痛む。
到着ゲートの真正面に場所を構え、・・・2時間を過ぎたところで、やっとパリからのフライト到着のアナウンス。・・・あ、似ている人だ!厚手の濃紺のコートに赤いマフラーを巻いた紳士が現れた。・・・長き十年、短き十年、もろもろと何もかもが涙に溶かされ込み上げてくる。
「先生、帰ってからどうするつもりですか?」
「辺鄙な田舎にでも行って、小学校の先生になる覚悟だ」
「君のお父さんを見習ってさ。長年理屈ばかりで生きてきたけど、所詮一介の書生だ。・・・林林(息子)からの手紙だ。もう大学生だよ。妻は過労とストレスで去年亡くなった」
「父さん、昨夜母さんは息を引き取った。目尻に涙を一つ残し
たままだった。きっと僕が責任のある父親に恵まれることがな
いのを最後まで悔やんだ涙だと思います。妻も息子も顧みるこ
とが出来ない、そんな人は国を愛せるだろうか。これは僕から
の最後の手紙です。 林林 」
このときから更に十数年が経ったいま、この老教師といまは中年になっている息子の林林はどうしているであろうかとの思いが募る。
時は変わり、いま台湾で学生たちが立法院を占拠し、市民がこれを支援して「サービス業を自由化する中台貿易協定」の批准に反対している。台湾と中国の統一については、これはわれわれ第三者の口にすべきことではないかもしれぬが、一時公表されていた「一国二制度」「国旗、軍隊の現状維持」とまでいわれていたその推進策が、馬政権を巻き込む形で強引に進められてきていると台湾の市民は感じてきているようである。「クリミア」問題に敏感に反応する台湾の市民、KOKYOUを思うひとたちのこころは熱い。
(2014年4月5日 記)
莫言さんのノーベル文学賞受賞から、もう十数ヶ月がたつ。
この授賞式に参列された吉田富夫先生が帰国後書かれた一文の最後に、つぎのようなはなしがあった。
ストックホルム最後の夜、あの事件で亡命を余儀なくされた詩人北島の仲間であった陳邁平さん(同夫人アンナさんはスウエーデンにおける莫言さん訳者の有力者のひとり)の招きで訪れた市内の店、名はKOKYOU。
「たぶん、日本語の故郷の意味。ご主人の王紅偉さんはスウェーデン華人商工会副会長。北京大学出身というのですが、ひょっとして文革で生まれたれいの労農兵学生だったかも知れません。ハルピンから香港を経ていまスウェーデンで店を開いていらっしゃるのですが、そのどこかで春雨の加工技術のことで日本ともかかわったことがあるらしい。KOKYOUという店名はそれと関係があるらしいのですが、なにしろ一筋縄ではいかない人生です」(吉田富夫『雪の幻影―莫言氏・ノーベル賞授賞式の一週間』「こころvol.11/平凡社」)
いつまでもこころの底にへばりつくおはなしである。
九十年代のなかばであったか、上海都市研究会の訪中団にパリの大学で教鞭をとる日本女性の参加があった。帰国も間近に迫ったある夜、彼女からむつかしい話があった。パリにいる知り合いの中国人から、上海の友人の近況を聞いてきて欲しいと手紙を預かってきている、なんとか連絡がとれないか。
苦労して、やっと連絡がつき、ホテルまで来てもらった。旅行社の通訳は、同席しないというので、ときには筆談を交えての面談とあいなったが、いまは毛沢東肖像のデフォルメ画が日本ほかで評判になって、銀座の画廊で個展を開いたこともある、パリの友人には元気でいると伝えて欲しいということであった。誘われて彼の家と作品を見に行ったひとは、写真も撮れたのでいい土産話ができたとよろこんでくれたが、パリにはこのようなひとが大勢いると話していた。
あの事件のあと、わたしは会員の要望で8月に二度スワトウへ出かけた。
いずれも香港経由であったが、二度目は香港-汕頭のフライトがとれず、深圳からクルマで出かけることになった。海岸線のいたるところに非常線が張られ、パトカーに二度ほど追いかけられてパスポートの提示を求められた。もう指名中のひとたちは海外に逃れて声明を発表しているのだが、この海岸線の警備の厳しさには驚いた。汕頭の商談会場には西側の経済制裁の網をくぐって押しかけた韓国や台湾の商人であふれていた。現地の人は、あれは北京の事件だ、ここ汕頭とはまったく関係がないと、ここは「一国二制度」の地といわんばかりの誘致優遇策を披露していた。
故郷を離れ、国を去るとはどういうことか。
日本が戦争に敗れ、台湾が「中華民国」になったとき。
日本に少なからぬ台湾出身の「日本人」学生がいた。
台湾に帰り、蒋介石政権ににらまれて香港経由で日本に逃れて「株の神様」になった人もあれば、祖国建設の一助にと解放直後の中国に渡った医師や建築家も大勢居られる。
二十数年前、はじめて海南島へ出かけたとき、わたしより十歳ほど年長の医師も一緒だった。現地でときおり通訳を介さず話しておられるのでお聞きしたところ、台湾出身とのこと。大学でインターンのころ日本の敗戦に遭遇、医師の資格をとるため日本に帰化したが、改名を迫られたことが辛かったと。日本の女性と結婚、日本で開業医を続けてきたがココロは台湾人。アメリカに留学していた甥が選挙に出るというので台湾へなんども応援に行った。国籍は日本だが、故郷は忘れ難い。故郷を捨てるというのはよほどのこと、覚悟のいることと話しておられた。
在日の中国人女流作家の楊逸さんが08年に「時が滲む朝」で芥川賞を受賞されたとき、その受賞者インタビュ―で「中国式無神経のすすめ」と称してつぎのように語っている(『文藝春秋』08年9月号)。
「日本人はみな真面目で、なんでも重く受け止めすぎますね。もっと楽観的で、無神経にならないと、生きていくのが難しいところもあるんじゃないでしょうか」「老後は気候のいい広東省の珠海あたりで、友達同士で暮らす老人村を作るのが夢なんです、皆さん、一緒に住みませんか(笑)」
そうは言われても、真面目な日本人であるわたしにとって彼女の受賞作「時が滲む朝」を再読すると、結果的には学生たちを煽動して挫折させ、自分も欧州各国をさまよい、息子からの絶交文を見て帰国する元教師のKOKYOUを思う気持ちに胸が痛む。
到着ゲートの真正面に場所を構え、・・・2時間を過ぎたところで、やっとパリからのフライト到着のアナウンス。・・・あ、似ている人だ!厚手の濃紺のコートに赤いマフラーを巻いた紳士が現れた。・・・長き十年、短き十年、もろもろと何もかもが涙に溶かされ込み上げてくる。
「先生、帰ってからどうするつもりですか?」
「辺鄙な田舎にでも行って、小学校の先生になる覚悟だ」
「君のお父さんを見習ってさ。長年理屈ばかりで生きてきたけど、所詮一介の書生だ。・・・林林(息子)からの手紙だ。もう大学生だよ。妻は過労とストレスで去年亡くなった」
「父さん、昨夜母さんは息を引き取った。目尻に涙を一つ残し
たままだった。きっと僕が責任のある父親に恵まれることがな
いのを最後まで悔やんだ涙だと思います。妻も息子も顧みるこ
とが出来ない、そんな人は国を愛せるだろうか。これは僕から
の最後の手紙です。 林林 」
このときから更に十数年が経ったいま、この老教師といまは中年になっている息子の林林はどうしているであろうかとの思いが募る。
時は変わり、いま台湾で学生たちが立法院を占拠し、市民がこれを支援して「サービス業を自由化する中台貿易協定」の批准に反対している。台湾と中国の統一については、これはわれわれ第三者の口にすべきことではないかもしれぬが、一時公表されていた「一国二制度」「国旗、軍隊の現状維持」とまでいわれていたその推進策が、馬政権を巻き込む形で強引に進められてきていると台湾の市民は感じてきているようである。「クリミア」問題に敏感に反応する台湾の市民、KOKYOUを思うひとたちのこころは熱い。
(2014年4月5日 記)