くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

椎葉神楽の公演

2013-10-29 16:22:20 | 四季おりおり
私がボランティアをしている日本民家集落博物館でこの秋最大のイベントが開催されます
九州の宮崎の椎葉村からの神楽公演 ぜひ お誘いあわせの上御観覧くださいませ


椎葉神楽(尾前神楽)の公演
国指定重要無形民俗文化財

☆日 時 11月16日(土)・17日(日)

☆会 場 日向椎葉の民家

☆観覧料 1公演につき500円(高校生以上/要入館料)
     同日中に2公演以上観覧する場合は、後の公演は100円引き

☆出演者 神楽 宮崎県椎葉村尾前神楽保存会

       民謡 黒木 忠(すなお) 
       (尾八重(おはえ)正調ひえつき節保存会会長)


☆演 目
 
 ◆16日(土)
       ①12:30~14:00 「占(しめ)ホメ」 
        病が治るように願いを立てる舞い            
        願いがかなえば、願成就(御礼)として舞う

      椎葉の民謡 「正調ひえつき節」

       ②15:00~16:30  「手力」(たじから)     
        天照大神が隠れた天の岩戸の戸を取り外す、手力男神の舞い

       椎葉の民謡 「駄賃付節」(だちんつけぶし)



  ◆17日(日)
       ③10:00~11:30 「芝引」(しばひき)       
        ジイ面・若面・女面の3つの面が登場する舞

       椎葉の民謡 「秋節」

       ④12:30~14:00 「森の下」(もりのした)     
        手には矢を持ち、狩人の様子を演じる舞い

       椎葉の民謡 「奥山節」

       ⑤15:00~16:30 「かんしん」       
        台所から舞い出て、御神屋に入るという舞で、目覚ましのかんしん
        と言われ、朝方舞われる

       椎葉の民謡 「正調ひえつき節」



   お問合せ  日本民家集落博物館 
         電話 06-6862-3137 月曜日休館



場所 http://blogs.yahoo.co.jp/stec_staff/15785939.html/

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾七

2013-10-24 14:43:08 | はらだおさむ氏コーナー
セブンか、エイトか
 七年後に、東京五輪の開催がきまった。
 日本ではこのセブン、ラッキーなセブンは、あの七回裏の風船飛ばしのように野球がその起源とかいわれているが、たしかなことはわからない。 
〇八年の北京五輪は、八月八日の午後八時八分に開幕された。88888(パパパパパ)、そう、中国では「八」がめでたい、ラッキーなのである。
くわしくは知らないが、古来中国では八人の仙人が実在、「八仙(八福神)」の絵が民間信仰の対象になっていたといわれている。日本にも「七福神」があるが、関係があるのかどうか・・・これは、まったくの落とし噺になるが、むかしむかし、蓬莱山(中国山東省)に集う八仙人が、東海の扶桑国(日本)へ向かって船出した、その途次嵐に遭い、ひとりが波にさらわれて・・・、日本に着いたのが七福神???その真偽はさておいて、いま日本でも七福神信仰が定着して各地にその廟や祠がある。
 この七福神の中国渡来説よりさらに有名なのが、「徐福東渡」のはなしであろう。

 江蘇省の北の海岸沿いに連運港というみなとまちがある。朧海鉄道の起点であり、西安・蘭州を経てその地の果てはユーラシア大陸に繋がる。
 80年代のなかごろ、大阪の泉北港とこの連運港が“友好港”になり、堺市と連雲港市の友好都市提携に発展した。
 わたしはそのころ友好都市間の経済交流の促進を図るべく、関係者と数回同市を訪問したことがある。まだ同市へのフライトもないころ、鉄路では上海からあの徐州を経由するか、クルマでは南京からのスタートであった。

 これは南京からはじめてクルマで連雲港市へ向かったときのおはなし。
道すがら周恩来総理の生まれ故郷―准安で竣工したばかりの記念館を参観、
 昼食のあと連雲港に向かったはずであったが、クルマは2時間ほど綿畑で覆われた人気(ひとけ)のない農村地帯を走り続けていた。連雲港へ行くのがはじめてのドライバーも、さすがにこれはおかしいと周辺を見回したが、尋ねる人もいない。カ-ナビはおろか、携帯電話もないころのこと。頼りにするのは地元の人の道案内である。やっと綿畑を脱出して地道にでたところで出会った農民に聞くと、右の方を指差して「ハイヨ―、イ―パイトゥコンリ」、あと100キロくらいという。
さらに2時間、すでに陽(ひ)は西に傾き始めている。ドライバーは焦りぎみにやっとつかまえた自転車のアベックにたずねると、ふたりとも前方を指差して「イ―パイトゥコンリ」と声をそろえて合唱。道の両側は干からびた畑のみ、このふたりはどこへ行くのか・・・。
 ようやく見つけた数軒の集落にはすでにランプが灯り、道端で親子が夕食中であった。ここでも「イ―パイトゥコンリ」、彼らは行ったことがないのだ。遠くだよ、まだずっと先だよと言っていたのであった。

 翌日に持ち越された歓迎宴のなかで、連雲港の郊外に徐阜(徐福と中国語では同音)村があることを耳にした。大阪でも徐さんという人が経営する中華料理店があり、かれの本社所在地の和歌山県新宮市には徐福神社があることなども話題になった。「徐福伝説」の本家争いは、日本でも中国でもいろいろとあるが、この「徐福東渡」は七福神の中国渡来説よりかなり歴史的裏づけがある。           
司馬遷の『史記』や北宋の詩人・欧陽脩の作品などに、秦の始皇帝の求めに応じて不老長寿の薬を探しに行くと、徐福が三千人の若い男女と百工(多くの技術者)を連れて東方に船出したまま帰って来なかったとの記述がある。いまに残る日本の伝統工芸品や農業・漁業などに、その技術と面影が偲ばれるとさえいわれている。

連雲港市にはもう二十年近く行っていないので、その後の発展ぶりは定かではないが、サントリービールの中国法人(「花果山啤酒」)発祥の地であり、同地出身の知人も大阪に定住していて、いまも懐かしいところである。当然この地が“徐福”本家争いの筆頭であろうと思っていたが、昨年の「徐福東渡2222年」行事は、浙江省の象山県で開催されることになっていたという。『中国地図集』を開いてみると、わたしも行ったことのある、寧波市や舟山列島の南、天台山の東北にあたる。わたしはこの象山県を訪れたことはないが、十数年前、温州市からクルマでこの海岸線を北上して台州市まで行ったことがあり、天然の良港・象山港やその海岸線は『史記』の記述とは少し異なるものの、徐福一行の船出の地としても悪くはない。

  わたしはいま、東海日中関係学会の逵(つじ)志保さんのレポートを読んでいる(日中関係学会ホームページ掲載「徐福を通しての日中交流」)。 
昨年10月の12号はつぎのような書き出しではじまっている。
「 なんとも重い秋を迎えました。
    9月15日~18日に中国浙江省象山県で開催を予定していた、『2012中国徐福文化象山国際大会』が、9月12日晩、他の多くの日中交流行事同様、開催見送りを決定したとの一報を受けました。・・・いま思えば、その時同じような連絡を受けて頭を抱えた方が、きっと日中のあちこちにいらしたことでしょう」

    中国徐福研究会は1983年に設立され、全国で14の研究会があり会員は約10万人。現在の第三代会長は張 雲方・中日関係学会副会長だとか。
    このとき会場に選ばれた象山に徐福研究会が設立されたのは07年とまだ新しいが、習 近平主席が浙江省の党書記であったころ(02~07年)、同省のお茶とこの徐福伝説が「無形文化財」の対象となり、08年には「国家級文化遺産」に登録されたとのことである。
    その国際大会が、開催の三日前になって中止になったのである。
    「あの島」が問題になったのはいうまでもない。
    「ほどなく主催者から大会中止のお詫びのメールが届きました。主催者からの文面は、尖閣諸島の問題に一切触れず、ただただ開催見送りをわびるものでした」

    今年になって、中国徐福会は動き出した。
一月に研究論文の表彰が張 雲方会長名で行われ、八月には舟山市で国際シンポジュウムが開催されている。30数名の小さな会合であった。日本からは、逵(つじ)志保さんひとりの参加だけであったが、とにもかくにも動き出したのである。

「政治の世界」は動き出そうとしているのか、どうか。
「三中全会」をひかえ、日本の中国情報は相も変わらずかまびすしいが、昨年の中共全国党大会で最高指導部は、チャイナナインからセブンになった。スリム化か、意思統一が図りやすくなるのかよくわからないが、庶民にとってはナインでもエイトでも、セブンでもどうでもいい。わかりやすい政治と「庶民」のささやかな「夢」を実現してくれる体制であって欲しいと願っていることであろう。
「不老長寿」の薬は、どこで手に入れるのか・・・。             
(2013年10月15日 記)
【追記】
   このところ、しきりと思いだすことばがある。
   「もう、<友好乾杯>の時代は終わった」
   八十年代のおわりごろ、故鮫島敬治・「日経」初代中国特派員が
  よく話されていたことばである。

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾六

2013-10-17 09:10:27 | はらだおさむ氏コーナー
ルビコンの川


“七十の手習い”で学びはじめた近世地方文書(じかたもんじょ)は、庄屋さんなどが備忘録として書き残した村方文書が主で、あとではご本人も判読に苦しむような、書きなぐりのものも多い。
はじめて参加した学習会(月二回)は、わたしより数歳年長の方が指導される10名ほどのクラスであった。二時間の学習時間では、受講生三名が順番にテキストの文書を釈文して黒板に書き、それをみんなで検討しあって誤りを正し、最後にリーダーがその内容を解説するという仕組みであった。
文頭の「乍恐・・・」も読めないわたしは、つぎの「以書付奉願上候」が読めるはずがない。順番が回ってくるたびにパスを繰り返していたが、あるときリーダーから「ルビコンの川を、思いきって渡りなさい」との指摘を受けた。
わたしのあたまに一瞬「クワイ川マーチ」(映画「戦場にかける橋」主題歌)のメロディが流れかけたが、あわててさにあらずとストップ、あの「賽は投げられた」の故事のことと思いついた。そうだ、古代ローマの時代、ルビコン川より内側に軍隊を連れて入ってはいけないとされていたが、カエサル(シーザー)はこの規則を無視して渡河、ローマに向かった。爾来「ルビコン川を渡る」とは、ある重大な決断・行動をすることのたとえとなっている。リーダーはわたしの古文書学習態度を、この比喩を使って叱正されていたのであった。


♪人生~いろいろ♪、そう、わたしの人生にも、いろいろと決断を迫られる場面があった。
22歳 さる中小企業経営者と意気投合して、社員がわたしひとりの日中貿易の会社に入り、実務も経営の何たるかもわからずに船出したこと。32歳 湿性肋膜炎で加療・養生半年のあと、まだそれほど施術の確立していなかった胸部外科手術で右肺三分の一を切除したこと。48歳 こと志と異なり和議再建が実らず、会社破産で一年の浪人のあと、対中投資コンサルタントとして再出発したことなど、いくたびか、わたしもルビコンの川を渡ってきている。

86年の初夏のこと、これはさほどの決断をしたという記憶はないが、伊丹から上海へ向かうJALで搭乗直前 ストップがかかったことがある。
同上海支店からの緊急連絡で、わたしたちを招聘先が受け入れできないと連絡してきたとか。なにを馬鹿な、わたしたちは正式のビザを取得している、大丈夫と機内に乗り込もうとすると、もし上海で入国拒否された場合、帰国便の費用は自費負担をご確認下さいと書類に署名を求めてきたのであった。
 これにはつぎのような事情が背景にあった。
 その前年の一月 日系合弁製造業第一号の設立批准を受けていたが、日本にあるスイス製プラントの解体・輸送と上海における工場建屋の新設遅れなどでまだ操業には至らず、スイス人の技術者が現場でプラントの組立て指導に着任した直後のことであった。かれは上海での生活環境がなじめないと中国側に無断で、日本経由で帰国してしまった。突然姿を消したこの技術者の行方を捜していた中国側は、かれが虹橋空港から帰国前に投函していた手紙を見て一安心するやら、これは日本側の手引きに違いないと、今度はわたしたちにその怒りを突きつけてきた。誤解もいいところ、わたしたちはこの事件発生以前から今後の業務推進打ち合わせに訪中の予定であったが、何はともあれ、事態の改善にと空港へ駆けつけたのである。
 上海虹橋空港の入国ゲイトを出ると、いつもの中国側担当者が出迎えに来ていた。ぎこちない会談のスタートであったが、話せばわかる、誤解は氷解し、仕事の改善策が話し合えるようになった。もちろんキーパーソンの、スイス人技術者の再訪中のため、日中双方がそれぞれ役割分担をして対処することになった。
 もしも伊丹空港で、あのまま搭乗せずにいたらと思うと、いまでもゾッとするときがある。


先日 リービ英雄さんの「国境越える文学」を読んで思うことがあった(8月24日「日経」夕刊)。
 少し長くなるが、以下引用する。
 「・・・中国にも強い関心を寄せ、頻繁に訪れ、作品のテーマにしている。
 『中国に行くのは子供のころ台湾で育ち、中国語が話せることが大きい。僕は日米という枠の中で生き、米国人だからどうのこうのとずっと言われてきた。結構、息苦しかったのですが、中国というもう一つの軸ができて、逆に小説の日本語が深まった気がする。日米、日中など二つの国だけの視点だと、どうしても優劣を比較することになる。これに第三国が加わることで、初めてそれぞれの文化の特徴が比較でき、広い世界が見えてくるのです』
 『日本もこれから欧米とは違ったアジアの国々との国際化が重要になります。でも日中韓のナショナリズムの高まりが心配です。特に中国のそれを見ていると、どこか戦前の日本に似ていて、現代の出来事とは思えない。中国は19世紀に受けたトラウマ(心的外傷)を今になって癒そうとしている。19世紀は民族、人種で発想する時代でしたが、21世紀は言語と文化の時代です。世界全体が21世紀に向かうよう望んでいます』(聞き手:編集委員 藤巻秀樹)」

 昨年ひとつき遅れで開催された中国共産党第18回党大会の開幕式で、十年前に引退、一時死亡説も出ていた老幹部が意気揚々と壇上に姿を見せたのには驚いた。最近このことを中国消息筋に聞くと、解放軍の総参謀長を含む人事がかれの思惑通りに実現したからだろうとのことであった。日本でも引退した古老がときおり政界の裏で暗躍することはあるが、ここまであからさまなことはないし、その実力もない。
昨年8月の北戴河での“駆け引き”はまったく報道されないが、秋の党大会の開催が一月延長されたのは、あの「島の問題」が原因ではない。まさに死力を尽くした“権力闘争”が展開されていたのである。この状況を日本政府がどこまでつかんでいたのか、外交は内政の反映とも言われるが、日本はその火中に“栗”を投げ込んでしまったのである。


故事によると、ルビコンの川を渡ってライバルを倒し、独裁の道を歩みはじめたシーザーは、「王」への階段を昇りはじめる。しかし、ローマの伝統的な元老院による共和政治を、シーザーの専制政治にしてはならぬとするグループは、決起して白昼かれを刺殺したのであった。

ブルータス、お前もか・・・。

(2013年9月11日 記)

平山郁夫展

2013-10-14 23:58:09 | 四季おりおり
久しぶりに琵琶湖へ
私の第3の故郷 琵琶湖
そのほとりにある佐川美術館へ






竹中工務店が設計・建築をした美術館は
琵琶湖の水をふんだんに取り込んだしずかなたたずまいの美術館だ





(佐藤忠良作・蝦夷鹿)



常設の平山画伯と佐藤忠良彫刻と15代 楽吉左衛門の楽焼きと茶室に
会いに来た


(正面に見えるのが茶室)


平山画伯のシルクロード製作のヒントが先の東京オリンピックの聖火リレーのコースが
ギリシャからシルクロードを経て、日本と言うルートに三蔵法師の仏教伝来を重ねたことから
始まったというのを、この博物館をたびたび訪問しながら、今回初めて知りました

茶室は3度目の見学でしたが、水底の寄り付き・水路地・小間の茶室(盤陀庵)・
そして水面と並行の広間の茶室(俯仰庵)
そしてまた水底に降り、楽焼きの抹茶碗と茶入れとを見せていただいた

一度この茶室で、一服のお茶を飲まなければ・・・・・

多忙な9月そして10月になった

2013-10-09 22:59:34 | 四季おりおり
9月の思い出の『うた遊び』


☆ 早朝のテレビの前で待つ五輪 日本バンザーイ ようやったな~

☆ ひぐらしや 森のベンチで ひと休み

☆ 思うまま 気温に合わせ ころもがえ

☆ 萩揺れて田舎の小道思いつつ 変わりなき日の幸せ思う




☆ うたたねの耳に届くや秋の虫 澄んだ音色にしばしを癒す

☆ 幼き日 影踏みした友を 思い出してる今宵名月

☆ 赤き蕊天に差し伸べマンジュシャゲ 季を忘れず群がりて咲く




☆ 豪雨きて濁流となりし淀川の 土手に鴨らはあつまりている

などと四季を通じての『うた遊び』会のうたを作りました
こんな思い出が、つづられて私の夏は終わり、そして10月になりました