鉄斎のことなど
ホームに貼られたポスターに「鉄斎-仙境への道」があった。
富岡鉄斎没後90年とある。
きょうは久しぶりの好天気、わが家から二十分余の清荒神清澄寺境内にある鉄斎美術館に出かけることにした。
荒神川にかかる禊橋をこえるとやや急勾配の、蛇行する坂道にかかる。十数年前は毎朝山門まで往復40分ほどの散歩を繰り返していたものだが、いまはもうダメ、山門脇の休憩所で一服して、龍王瀧手前の鉄斎美術館に向かう。
今回展示の数十点の画幅のうち、60歳以下の作品は十余点のみ、80歳以上が三十五点もある。まことにおめでたい「仙境への道」の展示である。入館時にいただいた栞には「老荘思想への憧れ」「鉄斎の仙境図」「長寿の喜び」の小見出しがあり、古希を迎えた翌年(明治39年)、自宅の庭ではじめて不老長寿の薬-霊芝を採取していたとも記されている。
地の利があり、鉄斎の作品に触れる機会も多いので、今回の展示でもそのいくつかは目にしたおぼえがあった。50歳以下の数点のなかで、「漁樵問答図」(42歳)の「賛」について、展示してある解説に目が留まった。筆記用具もなく、その足で駅前の図書館内「聖光文庫」に向かうことにした。ここには鉄斎美術館入館料全額寄贈で購入の、世界の美術図書などが蒐集され、閲覧に供されている。
『鉄斎大成』(講談社)は大部の豪華本で、施錠されたガラス戸の書棚に収まっていた。その第二巻には同じような構図の「漁樵問答図」があったが、いずれも80代の作品で、「賛」も違う。第一巻の「漁樵問答図」は45歳の作品、漁樵ふたりの構図で雰囲気は似ているが、これでもない。冊子『鉄斎研究』(鉄斎研究所刊)を一号からひもといていくと、その第四号に展示されていた42歳の「漁樵問答図」があり、「賛」の釈文まで掲載されていた。
そうだ、この「賛」が気にかかっていたのだ。
・・・天下がまさに治まろうとする時代には、人は必ず行いをとうとぶ。
天下がまさに乱れようとする時代には、人は必ず言をとうとぶ。・・・言をとうとえば、いつわりあざむく風が行われる。・・・天下がまさに乱れようとする時代には、人は必ず利をとうとぶ。・・・利をとうとべば、ぬすみうばう風俗がさかんになる。
明治十年三月、この図を描き、あわせて邵尭夫の漁樵対問の語を録する
なんとも意味深長な「賛」だが、このとき(42歳)、鉄斎は「漁礁問答図」をかりてなにを言いたかったのか。
ひとつき前の明治十年(1877)二月には、西郷隆盛などは鹿児島で明治政府に叛旗を翻してはいるのだが(西南の役)・・・。
鉄斎は古今の漢籍に通じ、誕生日が同じといういわれで蘇東玻を敬慕し、画幅の題材にも多く用いた。それは今風にいえば「オタク」ともいえるようなものであろうか、「東玻同日生」という印をいくつも作って作品に落款し、「百東玻図」という作品集も出している(蘇東玻を題材に百余もの作品を・・・)。西湖全景図の箱書の裏にも「余は天保七年を以て京師に生る 宛も東玻居士に生日を同じうす 即ち十二月十九日なり・・・」と書き付けているほどの、熱狂的なフアンであった。
蘇東玻 WHO?
知る人ぞ知る、であるが、トンポーロウはご存知か。
浙江名物の豚の角煮料理の「東玻肉」、あのジューシーな味付けは一度食べたらやめられない、この料理の元祖が蘇東玻(本名蘇軾)であったとか。北宋の詩人・文章家、唐宋八家の一で東玻は号であるが、鉄斎の宣伝が行きわたったのか、日本ではこの号・蘇東玻で知れわたっている。
ずいぶん以前に竹内 実先生からいただいた『岩波 漢詩紀行辞典』(竹内 実編著)をひもとく。
「気軽に携行できる分量でまとめる、というのがはじめの目安であった」よしだが、700ページになんなんとする大著。本文のほかに「表題・名句一覧」「作者略伝」「用語解説」「地名・事項索引」「人名索引」などがついていて、門外漢には利用しやすくできている。
蘇東玻(本書では本名の蘇軾で記載)は、収録総数三百余篇、百数十名の詩人のうち、李白34篇、杜甫15篇につぐ蘇東玻12篇と第三位の収録数で、以下白居易8篇、毛沢東7篇とつづく。
蘇東玻掲載詩の地名は、西湖と海南島が各2篇、江南、杭州、五丈原、蛾眉山、西湖はさておき、海南島の解説を見てみよう。
ここに流された李徳裕、蘇軾の遺跡はいまも残る。南海の果てまでは政争は波及せず反乱もないとはいえ、みやこの長安や江南の繁華の地にくらべ、暮しはあまりにも原始的で、たえがたいものがあったろう(P625)。
その時代の海南島のことは、わたしは知らない。
海南島が広東省から分離して海南省になった記念式典(多分第四年目の92年)があった省都・海口市の会場は、四月だというのに小雨に濡れそぼっていて寒かった。そのころ三亜市にはまだ空港も無く、海口市からの高速道路も途中までの一泊二日のたび。文革時代の名残だろうか、革命バレー劇で有名な「白毛女」や「紅色娘子軍」などの大きな立像が途次のロータリーや公園などに残っていた。
三亜はハワイと同じ緯度と聞いていて、楽しみにしていたが、ここも異常気象で水温は18度とあって海水浴は禁止、名前ぐらいは耳にしていた蘇東玻の「天涯海角」(天の果て 地の果て)が刻まれた絶壁の見物に出かけた。海浜を歩きはじめて靴を脱ぎ、ベトナム製の菅笠をかぶって、浪が洗う「天涯海角」を見つめる。
蘇東玻がこの地に流刑されていたときは、いまから千余年ものむかしで、すでに60余才の老人であった、しかし、この詩「半醒半酔問諸黎(なかば醒めなかば酔い もろもろの黎を問う)」には、そんな気配は感じられない。「酒を飲んで酔ったので話がしたく、四人の友人をたずねた」(P627)ではじまるこの詩の友人は、いずれも少数民族・黎族のひとたちで、いまも三亜市の主要構成メンバーである(海南島が省に昇格するまで、三亜は海南リー族・セオ族自治州の都であった)。
もうひとつの詩「餘生欲老海南村(余生老いんとす 海南の村)」は、思いもかけない皇帝即位の恩赦にあずかったときのもの。蘇東玻64歳、すでに三亜から離れて、大陸側の広西チワン族自治区の村に着いていたときの作。「青山一髪是中原」(青山がむこうに横たわっている。細い髪の毛のように、あるか、なきかだ。しかし、まぎれもなく、あそこは中原の地だ)(P629)と釈放された歓びを詩に綴ったが、都を見ることなく、それからの旅先で天寿を全うしたのであった。
この旅のおわり、わたしたちはベトナム製の菅笠をかぶって成田空港に降り立った。まるで旅芝居の一行の帰国のようであった。
数年前までは三亜から船でベトナムへ行くツアーもあったようだが、いまはもう、クローズされているかもしれない。
浪の洗う「天涯海角」は、何を見つめていることであろうか・・・。
(2014年6月5日 記)
ホームに貼られたポスターに「鉄斎-仙境への道」があった。
富岡鉄斎没後90年とある。
きょうは久しぶりの好天気、わが家から二十分余の清荒神清澄寺境内にある鉄斎美術館に出かけることにした。
荒神川にかかる禊橋をこえるとやや急勾配の、蛇行する坂道にかかる。十数年前は毎朝山門まで往復40分ほどの散歩を繰り返していたものだが、いまはもうダメ、山門脇の休憩所で一服して、龍王瀧手前の鉄斎美術館に向かう。
今回展示の数十点の画幅のうち、60歳以下の作品は十余点のみ、80歳以上が三十五点もある。まことにおめでたい「仙境への道」の展示である。入館時にいただいた栞には「老荘思想への憧れ」「鉄斎の仙境図」「長寿の喜び」の小見出しがあり、古希を迎えた翌年(明治39年)、自宅の庭ではじめて不老長寿の薬-霊芝を採取していたとも記されている。
地の利があり、鉄斎の作品に触れる機会も多いので、今回の展示でもそのいくつかは目にしたおぼえがあった。50歳以下の数点のなかで、「漁樵問答図」(42歳)の「賛」について、展示してある解説に目が留まった。筆記用具もなく、その足で駅前の図書館内「聖光文庫」に向かうことにした。ここには鉄斎美術館入館料全額寄贈で購入の、世界の美術図書などが蒐集され、閲覧に供されている。
『鉄斎大成』(講談社)は大部の豪華本で、施錠されたガラス戸の書棚に収まっていた。その第二巻には同じような構図の「漁樵問答図」があったが、いずれも80代の作品で、「賛」も違う。第一巻の「漁樵問答図」は45歳の作品、漁樵ふたりの構図で雰囲気は似ているが、これでもない。冊子『鉄斎研究』(鉄斎研究所刊)を一号からひもといていくと、その第四号に展示されていた42歳の「漁樵問答図」があり、「賛」の釈文まで掲載されていた。
そうだ、この「賛」が気にかかっていたのだ。
・・・天下がまさに治まろうとする時代には、人は必ず行いをとうとぶ。
天下がまさに乱れようとする時代には、人は必ず言をとうとぶ。・・・言をとうとえば、いつわりあざむく風が行われる。・・・天下がまさに乱れようとする時代には、人は必ず利をとうとぶ。・・・利をとうとべば、ぬすみうばう風俗がさかんになる。
明治十年三月、この図を描き、あわせて邵尭夫の漁樵対問の語を録する
なんとも意味深長な「賛」だが、このとき(42歳)、鉄斎は「漁礁問答図」をかりてなにを言いたかったのか。
ひとつき前の明治十年(1877)二月には、西郷隆盛などは鹿児島で明治政府に叛旗を翻してはいるのだが(西南の役)・・・。
鉄斎は古今の漢籍に通じ、誕生日が同じといういわれで蘇東玻を敬慕し、画幅の題材にも多く用いた。それは今風にいえば「オタク」ともいえるようなものであろうか、「東玻同日生」という印をいくつも作って作品に落款し、「百東玻図」という作品集も出している(蘇東玻を題材に百余もの作品を・・・)。西湖全景図の箱書の裏にも「余は天保七年を以て京師に生る 宛も東玻居士に生日を同じうす 即ち十二月十九日なり・・・」と書き付けているほどの、熱狂的なフアンであった。
蘇東玻 WHO?
知る人ぞ知る、であるが、トンポーロウはご存知か。
浙江名物の豚の角煮料理の「東玻肉」、あのジューシーな味付けは一度食べたらやめられない、この料理の元祖が蘇東玻(本名蘇軾)であったとか。北宋の詩人・文章家、唐宋八家の一で東玻は号であるが、鉄斎の宣伝が行きわたったのか、日本ではこの号・蘇東玻で知れわたっている。
ずいぶん以前に竹内 実先生からいただいた『岩波 漢詩紀行辞典』(竹内 実編著)をひもとく。
「気軽に携行できる分量でまとめる、というのがはじめの目安であった」よしだが、700ページになんなんとする大著。本文のほかに「表題・名句一覧」「作者略伝」「用語解説」「地名・事項索引」「人名索引」などがついていて、門外漢には利用しやすくできている。
蘇東玻(本書では本名の蘇軾で記載)は、収録総数三百余篇、百数十名の詩人のうち、李白34篇、杜甫15篇につぐ蘇東玻12篇と第三位の収録数で、以下白居易8篇、毛沢東7篇とつづく。
蘇東玻掲載詩の地名は、西湖と海南島が各2篇、江南、杭州、五丈原、蛾眉山、西湖はさておき、海南島の解説を見てみよう。
ここに流された李徳裕、蘇軾の遺跡はいまも残る。南海の果てまでは政争は波及せず反乱もないとはいえ、みやこの長安や江南の繁華の地にくらべ、暮しはあまりにも原始的で、たえがたいものがあったろう(P625)。
その時代の海南島のことは、わたしは知らない。
海南島が広東省から分離して海南省になった記念式典(多分第四年目の92年)があった省都・海口市の会場は、四月だというのに小雨に濡れそぼっていて寒かった。そのころ三亜市にはまだ空港も無く、海口市からの高速道路も途中までの一泊二日のたび。文革時代の名残だろうか、革命バレー劇で有名な「白毛女」や「紅色娘子軍」などの大きな立像が途次のロータリーや公園などに残っていた。
三亜はハワイと同じ緯度と聞いていて、楽しみにしていたが、ここも異常気象で水温は18度とあって海水浴は禁止、名前ぐらいは耳にしていた蘇東玻の「天涯海角」(天の果て 地の果て)が刻まれた絶壁の見物に出かけた。海浜を歩きはじめて靴を脱ぎ、ベトナム製の菅笠をかぶって、浪が洗う「天涯海角」を見つめる。
蘇東玻がこの地に流刑されていたときは、いまから千余年ものむかしで、すでに60余才の老人であった、しかし、この詩「半醒半酔問諸黎(なかば醒めなかば酔い もろもろの黎を問う)」には、そんな気配は感じられない。「酒を飲んで酔ったので話がしたく、四人の友人をたずねた」(P627)ではじまるこの詩の友人は、いずれも少数民族・黎族のひとたちで、いまも三亜市の主要構成メンバーである(海南島が省に昇格するまで、三亜は海南リー族・セオ族自治州の都であった)。
もうひとつの詩「餘生欲老海南村(余生老いんとす 海南の村)」は、思いもかけない皇帝即位の恩赦にあずかったときのもの。蘇東玻64歳、すでに三亜から離れて、大陸側の広西チワン族自治区の村に着いていたときの作。「青山一髪是中原」(青山がむこうに横たわっている。細い髪の毛のように、あるか、なきかだ。しかし、まぎれもなく、あそこは中原の地だ)(P629)と釈放された歓びを詩に綴ったが、都を見ることなく、それからの旅先で天寿を全うしたのであった。
この旅のおわり、わたしたちはベトナム製の菅笠をかぶって成田空港に降り立った。まるで旅芝居の一行の帰国のようであった。
数年前までは三亜から船でベトナムへ行くツアーもあったようだが、いまはもう、クローズされているかもしれない。
浪の洗う「天涯海角」は、何を見つめていることであろうか・・・。
(2014年6月5日 記)