くに楽

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徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾五

2014-06-30 16:31:16 | はらだおさむ氏コーナー
鉄斎のことなど


ホームに貼られたポスターに「鉄斎-仙境への道」があった。
富岡鉄斎没後90年とある。
きょうは久しぶりの好天気、わが家から二十分余の清荒神清澄寺境内にある鉄斎美術館に出かけることにした。
荒神川にかかる禊橋をこえるとやや急勾配の、蛇行する坂道にかかる。十数年前は毎朝山門まで往復40分ほどの散歩を繰り返していたものだが、いまはもうダメ、山門脇の休憩所で一服して、龍王瀧手前の鉄斎美術館に向かう。
今回展示の数十点の画幅のうち、60歳以下の作品は十余点のみ、80歳以上が三十五点もある。まことにおめでたい「仙境への道」の展示である。入館時にいただいた栞には「老荘思想への憧れ」「鉄斎の仙境図」「長寿の喜び」の小見出しがあり、古希を迎えた翌年(明治39年)、自宅の庭ではじめて不老長寿の薬-霊芝を採取していたとも記されている。

地の利があり、鉄斎の作品に触れる機会も多いので、今回の展示でもそのいくつかは目にしたおぼえがあった。50歳以下の数点のなかで、「漁樵問答図」(42歳)の「賛」について、展示してある解説に目が留まった。筆記用具もなく、その足で駅前の図書館内「聖光文庫」に向かうことにした。ここには鉄斎美術館入館料全額寄贈で購入の、世界の美術図書などが蒐集され、閲覧に供されている。
『鉄斎大成』(講談社)は大部の豪華本で、施錠されたガラス戸の書棚に収まっていた。その第二巻には同じような構図の「漁樵問答図」があったが、いずれも80代の作品で、「賛」も違う。第一巻の「漁樵問答図」は45歳の作品、漁樵ふたりの構図で雰囲気は似ているが、これでもない。冊子『鉄斎研究』(鉄斎研究所刊)を一号からひもといていくと、その第四号に展示されていた42歳の「漁樵問答図」があり、「賛」の釈文まで掲載されていた。
そうだ、この「賛」が気にかかっていたのだ。

  ・・・天下がまさに治まろうとする時代には、人は必ず行いをとうとぶ。
天下がまさに乱れようとする時代には、人は必ず言をとうとぶ。・・・言をとうとえば、いつわりあざむく風が行われる。・・・天下がまさに乱れようとする時代には、人は必ず利をとうとぶ。・・・利をとうとべば、ぬすみうばう風俗がさかんになる。
明治十年三月、この図を描き、あわせて邵尭夫の漁樵対問の語を録する

 なんとも意味深長な「賛」だが、このとき(42歳)、鉄斎は「漁礁問答図」をかりてなにを言いたかったのか。
ひとつき前の明治十年(1877)二月には、西郷隆盛などは鹿児島で明治政府に叛旗を翻してはいるのだが(西南の役)・・・。

鉄斎は古今の漢籍に通じ、誕生日が同じといういわれで蘇東玻を敬慕し、画幅の題材にも多く用いた。それは今風にいえば「オタク」ともいえるようなものであろうか、「東玻同日生」という印をいくつも作って作品に落款し、「百東玻図」という作品集も出している(蘇東玻を題材に百余もの作品を・・・)。西湖全景図の箱書の裏にも「余は天保七年を以て京師に生る  宛も東玻居士に生日を同じうす  即ち十二月十九日なり・・・」と書き付けているほどの、熱狂的なフアンであった。

 蘇東玻 WHO?
 知る人ぞ知る、であるが、トンポーロウはご存知か。
浙江名物の豚の角煮料理の「東玻肉」、あのジューシーな味付けは一度食べたらやめられない、この料理の元祖が蘇東玻(本名蘇軾)であったとか。北宋の詩人・文章家、唐宋八家の一で東玻は号であるが、鉄斎の宣伝が行きわたったのか、日本ではこの号・蘇東玻で知れわたっている。

ずいぶん以前に竹内 実先生からいただいた『岩波 漢詩紀行辞典』(竹内 実編著)をひもとく。
「気軽に携行できる分量でまとめる、というのがはじめの目安であった」よしだが、700ページになんなんとする大著。本文のほかに「表題・名句一覧」「作者略伝」「用語解説」「地名・事項索引」「人名索引」などがついていて、門外漢には利用しやすくできている。
蘇東玻(本書では本名の蘇軾で記載)は、収録総数三百余篇、百数十名の詩人のうち、李白34篇、杜甫15篇につぐ蘇東玻12篇と第三位の収録数で、以下白居易8篇、毛沢東7篇とつづく。
蘇東玻掲載詩の地名は、西湖と海南島が各2篇、江南、杭州、五丈原、蛾眉山、西湖はさておき、海南島の解説を見てみよう。
   ここに流された李徳裕、蘇軾の遺跡はいまも残る。南海の果てまでは政争は波及せず反乱もないとはいえ、みやこの長安や江南の繁華の地にくらべ、暮しはあまりにも原始的で、たえがたいものがあったろう(P625)。

 その時代の海南島のことは、わたしは知らない。
 海南島が広東省から分離して海南省になった記念式典(多分第四年目の92年)があった省都・海口市の会場は、四月だというのに小雨に濡れそぼっていて寒かった。そのころ三亜市にはまだ空港も無く、海口市からの高速道路も途中までの一泊二日のたび。文革時代の名残だろうか、革命バレー劇で有名な「白毛女」や「紅色娘子軍」などの大きな立像が途次のロータリーや公園などに残っていた。
 三亜はハワイと同じ緯度と聞いていて、楽しみにしていたが、ここも異常気象で水温は18度とあって海水浴は禁止、名前ぐらいは耳にしていた蘇東玻の「天涯海角」(天の果て 地の果て)が刻まれた絶壁の見物に出かけた。海浜を歩きはじめて靴を脱ぎ、ベトナム製の菅笠をかぶって、浪が洗う「天涯海角」を見つめる。
 蘇東玻がこの地に流刑されていたときは、いまから千余年ものむかしで、すでに60余才の老人であった、しかし、この詩「半醒半酔問諸黎(なかば醒めなかば酔い もろもろの黎を問う)」には、そんな気配は感じられない。「酒を飲んで酔ったので話がしたく、四人の友人をたずねた」(P627)ではじまるこの詩の友人は、いずれも少数民族・黎族のひとたちで、いまも三亜市の主要構成メンバーである(海南島が省に昇格するまで、三亜は海南リー族・セオ族自治州の都であった)。
 もうひとつの詩「餘生欲老海南村(余生老いんとす 海南の村)」は、思いもかけない皇帝即位の恩赦にあずかったときのもの。蘇東玻64歳、すでに三亜から離れて、大陸側の広西チワン族自治区の村に着いていたときの作。「青山一髪是中原」(青山がむこうに横たわっている。細い髪の毛のように、あるか、なきかだ。しかし、まぎれもなく、あそこは中原の地だ)(P629)と釈放された歓びを詩に綴ったが、都を見ることなく、それからの旅先で天寿を全うしたのであった。

 この旅のおわり、わたしたちはベトナム製の菅笠をかぶって成田空港に降り立った。まるで旅芝居の一行の帰国のようであった。
 数年前までは三亜から船でベトナムへ行くツアーもあったようだが、いまはもう、クローズされているかもしれない。
 浪の洗う「天涯海角」は、何を見つめていることであろうか・・・。
                      (2014年6月5日 記)

オビドス

2014-06-24 15:37:42 | ポルトガルの旅
もう忘れてしまいそうなポルトガルの旅
いや 最後まで記憶を頼りにUPしてしまおう

紀元前300年ごろ、ケルト人により作られた街
ブドウ畑の中、城壁に囲まれた都市
ゆっくり歩いても20分から30分 城壁から見下ろす田園も素朴
駐車場の横にローマ時代の水道橋が残っている

1288年、ディニス王とイザベル王妃が婚礼旅行でオビドスに滞在した折
結婚祝いに王が王妃にプレゼント その後直轄地となり代々王妃に受け継がれ
「王妃の街」となった


ローマ時代の水道橋


ここでもアールデェージョ


街の中心地にある咎人を見せしめに縛った塔



城壁の間から見下ろす田園風景




街の風景






協会






 2重構造の城門 18世紀の祈祷室があり聖書の場面を描いたアズレージョで覆われている


路地を歩けばファドの歌声が聞こえ立ち去りがたかった










これまでの出来事

2014-06-19 13:40:38 | 四季おりおり
5月半ばからもう1ケ月

この間、近在の花を訪ねたり

姫路城での同窓会

翌日はボランティア仲間と大垣市まで

そして

お茶会を催したり
神戸の弓弦羽神社のお茶会に出かけたり



姫路城


墨俣一夜城資料館


茶会


北河内の茶室 桂籠に黒姫アジサイ・斑入りドクダミ・風知草


弓弦羽神社のお茶会床飾り



池田 水月公園の菖蒲







日本民家集落博物館の永良部ユリ



奈良 矢田寺のアジサイ










月日はとどまらない !!







徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾四

2014-06-10 09:55:59 | はらだおさむ氏コーナー
保上知令のことなど


夏が近づくと、よく思い出すことがある。

そのひとつは、敗戦詔勅(ラジオ)の数日後のこと。
疎開先の農繁期休暇の繰上げ登校で、「国民学校」の五年生であったわたしたちが先生の指示で一番先にしたのは、教科書を墨で塗りつぶすことであった。たしか“国造り神話”の一節、神の矛先のしずくから“淡路島”が産まれた、とかの話であったように憶えている。この思い出は、わたしのこころにトゲのように突き刺さり、後年入院時に書き綴った詩集のなかの一篇にもなった。
 わたしの同世代は、「小学校」を出ていない。
創設されたばかりの「国民学校」の一年に入学、戦時体制下の“ホシガリマセン カツマデハ”と疎開や空襲などのときを過ごして、敗戦後の最後の「国民学校」を卒業した。そのあとは「新制中学」の第一期生として、自前の校舎も無い、“六・三制 野球ばかり 強くなり”の日々を過ごすことになる。

 ふたつ目の思い出は、高2の夏、テニス部の合宿のときのこと。
 テニス部部長の数学の先生から進学のことを聞かれた。文系の大学受験には数学は不要と信じ込んでいたわたしであったが、それは旧制のはなし、新制大学ではたとえ文系であろうと理数は必修科目と、即刻退部を命じられた。それからは不得意の数学に熱中したが、一期校は見事“サクラチル”、二期校の数学は、いまでも満点と信じ込んでいるが、わたしの人生設計は大きくカーブを切った。この独断と思い込みは、人生のたそがれ、“午後七時の太陽”になったいまも健在のようである。

 “七十の手習い”ではじめた古文書の学習にも、この性癖がちらつく。
いまだ判読できない文字も多いが、地方文書(じかたもんじょ)だけでは地元の歴史もつかめないと、四年前から同好の士と『宝塚市史』の輪読会をはじめた。知らないこと、わからないことばかり、それは地元の歴史だけではなく、日本の歴史全体にもつながって、間口は広がり、迷路に入り込んで身動きが取れなくなってきている。
そのひとつに「天保の上知令」があった。


わたしの生まれ育った尼崎市では、上知令(あげちれい、じょうちれい、とも)というとすぐ脳裏に浮かぶのは、明和六年(一七六九)のあの上知令、いまの西宮市、芦屋市、神戸市の東部(兵庫津=神戸港を含む)の豊かな海岸線沿いの尼崎藩領が幕府に召し上げられ、その代替地として播磨の農村地帯があてがわれた。絞油、酒造、海運業など豊かなこの地域の上知は、尼崎藩にとって表向きの石高では測りきれない経済的損失であった。
ところが、である。
念のため、「上知令」を電子辞書などで確認すると、一般的には「天保上知令」を指すらしい(『広辞苑』ほか)。
さてさて、という次第で昨秋書き上げたレポート「“雪の殿様”と天保上知令」(宝塚の古文書を読む会冊子「源右衛門蔵」16号へ寄稿)のことになるのだが、この時代の中国はどうであったのだろうか・・・。

いまユーチューブで中国映画「阿片戦争」(謝晋監督)を見直した。
清国第八代道光帝のとき、イギリスの持ち込む阿片で国の財政が行き詰まり、林則徐にその廃棄処理が命じられる。そうだ、広州での林則徐のあの勇姿を思い出した。一八四〇年四月、イギリス議会は討論の末(花瓶=チャイナが割られ)、9票の差で中国への懲罰戦争が議決される。同六月に出兵、イギリス艦隊は意表をついて広州ではなく天津を攻撃した。清軍の敗北、そして二年後の南京条約の締結・・・このときから中国の「屈辱の百年」がはじまるのでる。

鎖国日本ではあるが、長崎経由で外国の情報は絶えず入ってきていた。
また、イギリス船やロシア船などがそれまでにも来航、文政二年(一八二九)には「異国船打払令」も出されている。
「天保期は気象上からみれば、小氷期にあたっていた。降水は雨でなく、雪になることが比較的多かった」との書き出しではじまるわたしの前述のレポートは、幕閣「ロウジュウ(老中)・シックス」で執行される天保の改革の一断面を描いている。もちろん老中首座は水野忠邦である。他の五人の老中は月番(交代)制ではあるが、大塩平八郎の乱のとき大坂城代であった土井利位(どい・としつら)が京都所司代を経て天保十年(一八三九)幕閣に加わっている。
老中首座について二年目の天保十二年、忠邦は将軍家慶の支持のもと、いわゆる「天保の改革」に乗り出す。ひとつは農村への帰農を促す「人返し令」による殖産振興策、さらに物価の騰貴を抑え、流通経済を促進させる「株仲間の解散」などであった。十余年前の「異国船打払令」を撤回して、外国船に薪や水など必要な物資を与えて穏便に帰す「薪水給与令」を定めたのは、前年の中国における「阿片戦争」への対処であろう。
さらに翌天保十三年、江戸や大坂の十里四方の大名や旗本領(いわゆる私領)の幕府への返上(上知)令は、ホントに首都防衛にまで意識していたのか史料的には明確ではないのだが、そのあたりの不明確さが発令半年足らずで撤廃に至り、水野忠邦本人も辞任に追込まれることにつながってくる。
この撤廃にいたる過程で明らかに中国と異なるのは、土地(領土)のこと。中国では土地はすべて皇帝のものであったが、日本では年貢を支払う義務はあるが土地の実質所有は、農民のものであったということである。
天保の上知令が施行されずに頓挫した最大の原因は、幕閣ナンバーツーになっていた土井利位の、大坂の領地の農民(庄屋など)たちがおこした上知反対闘争による。大坂城代や京都所司代の就任は譜代大名にとって幕閣への昇進コースではあるが、実質は名誉職で国許から連れてきている供侍の滞在費用も自己負担である。つまり宛がわれた所領の年貢から費用を捻出することになるのだが、江戸も中期を過ぎると貨幣経済の時代になり、所領からの年貢も定免制(年貢比率の固定化)が定着して、領主は借金財政にあえいでいた。下総古河藩主土井利位は所領八万石のお殿様であるが、その所領の三割は畿内にあった。
地味が比較的豊かなこの地域では、綿実や菜種など庶民の生活に欠かせない産物が多く、その流通などで生産者に不利な事由が発生すると、これまでも村の有力者や庄屋などの連判による集団示威行動―「国訴」を行ってきていた。大坂町奉行所などに対するこの経済闘争の実績と村々の連携は、「お上」を圧倒する智慧と行動力があった。
六月中旬に古河藩の地元陣屋から「上知」の話を聞いた村役人や百姓代は、衆議の上、要望書を出している。「御永領」と思っていたから、三年分も借金して年貢を前納しているのです。もし上知になるのなら、その前に年貢前納分のすべてを即刻返して欲しい、お願いします。
幕閣ナンバーツーの土井利位でも、無い袖はふれぬ。
武士にも二言はありやとばかり、上知反対派に取り込まれる。
かくして勝算なきとみた忠邦の家臣も、反対派に寝返り、忠邦は失脚、上知令は発令から五ヶ月足らず、閏九月に撤回されることになった。

清代の中国の土地は皇帝のものであったが、戦いに敗れるたびに列強の帝国主義諸国(日本も)に割譲されていった。
中華人民共和国が成立して、中国の領土は中国共産党が指導する政府と国民のものになった。
90年の浦東開発の宣言で、国有地の借地権有償譲渡が認められて今日に至るが、その利権を巡る不純な動きはあとを絶たない。
国の寸土も侵食を認めないとする対外的行為とその国内での対応はどう判断すればいいのか。
自他の歴史から考えることが多い。
                 (2014年5月15日 記)