くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

シムグリ(印度)まで

2012-05-31 11:49:07 | 
ブータン王国からインド国境を超えると別世界

ブータン王国からインド国境ごえ


インド側








アッサムティの農園では、茶摘みが始まっていた






インドの焼き物


インドの兵隊さん


シムグリのホテル








悪路をゆられて(日本にはこんな道はもうお目にかかれない)大きな穴のあいた道路をバスはその穴を迂回しながら時速30キロくらいのスピードで走る。揺れる揺れる・・・・歯の根が合わなくてがくがくするほど。
それが6時間ほど。
疲れる。疲れた。道は舗装されてなくて土埃はまいあがる。
きつい行程だった。よく寝る私が寝なかったのだから・・・・・
シムグリのホテルに着くころには、すっかり疲れていた。
















ブータン~シリグリ(印度)まで

2012-05-31 11:20:12 | 
今年の5月も去ろうとしている。
行事に追われて、インドの記事がUPできないでいた


◆思い出いっぱいのブータン王国からインドのシリグリへ


ティンプーからプンッオリン(ブータン)へ




ブータンの子どもたちの朝は忙しい(バス待ち)


途中休憩でミルクティを。 おいしかった!!





古希の旅・高千穂・熊本・大分

2012-05-26 23:08:54 | 
温泉もよし、天候もよし 絶好のドライブ日和の三日目

仙酔峡の咲きはじめたツツジ












そして、阿蘇山のドライブ


どこまでも続く草の原


外輪山の涅槃の形(左から顔・胸・腰・臍)


リンドウの花


白と紫のすみれの花


九重夢の大つり橋


下を見下ろせば、緑の重なり


水量豊かな滝も美しい


自然の大地に抱かれた三日間
いい旅でした






徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾壹

2012-05-24 15:50:07 | はらだおさむ氏コーナー
                
“あのころ”のこと      

 このところ むかしのことはよく思い出すが、いまのことはすぐ忘れる。
 老化が進行してきているということであろうが・・・

 76年の秋、ハイフォンの湾内見学で「ここは“海の桂林”といわれています。そのむかし、“封建中国”がわが国を侵略したとき、守護神の龍がまなこから火花を散らして敵を打ち破りました。そのときの“火の玉”が海に落ち込んで、このような美しい島々となりました」との説明に、わたしは思わず通訳の顔を覗き込んだ。“蒙古襲来”ということであろうが、まだベトナムが解放されて二年にもならないとき。物心両面でベトナムを支援した中国のことをそのようにいう筋合いではあるまいに、と思ったのである。
 ベトナム経済視察団に参加してタイ、ビルマ(当時)経由でハノイに着いたのは三日前。街のいたるところに空爆でえぐられた跡が残り、市内を貫流する“ホン・ホー”(紅河)の仮設橋には、中国製の“解放号”トラックが連なっていた。ハノイで貿易公司などを表敬のあと、きょうはガタガタ道を三時間かけてこのハイフォンにたどりついたのであるが・・・。
 沖合には無煙炭を引き取りに来た日本の貨物船、そして無数に散らばる“龍の火花”の岩礁、そこここでソ連や東欧圏の観光グループの歓声が上がる。

 翌日 小型機でホーチミン市と改称したばかりのサイゴンに飛ぶ。
 港はサイゴン陥落時に逃げ捨てられ、錆びついたクルマの墓場、ショロン(中華街)のシャッターは閉まったままで、関帝廟は香を焚いて膝まずくひとでごったがえしていた。ときおりアオザイのすそをひるがえして、女学生がスクーターで通り過ぎる、これはキタでは見かけない光景だ。
 昼食のあと、街なかをひとりであるいて、理髪店を見かける。
 シャンプーとひげそりのあと、二階へ上がらないかと誘われる。時間がないと丁重に断ったが、そうか、ここはまだサイゴンだと気づく。
 ホテルで夕食のあと、ショウがあった。
 ブラボー、ハラショーと歓声をあげるのは東欧圏の観光団ばかり。
 わたしたちは、三々五々と夜のサイゴンの探訪に出かけた。
 ネオンの消えた「BAR」があった。
 ドアを開けると、乳飲み子を抱えた女性が出てきた。
 ウイスキーはあるという。
 スタンドに連なって、オーダーする。
 GIがいなくなって、開店休業の由だが、英語が通じた。

 ハノイから北京に着いたとき、中国は四人組の逮捕でゆれていた。
 ベトナムでは、そのあと南部で粛清があり、ボートピープルが海外に漂流、中国がベトナムに“懲罰戦争”を仕掛ける。しかし、中国も文革終結直後で多難のとき、“専守防衛”の中国軍は、“百戦錬磨”のベトナム軍に手こずる。
 改革開放のあと、両国を結ぶ“友好関”は中国商品流入の窓口となった。


 マンダレーはミャンマーの北部、中国との国境に近い古都であり、国境貿易の拠点である。
 96年10月、住民の五分の一以上が中国系といわれるこのまちに、わたしは足を延ばしていた。
中国で「西部開発」がはじまったとき、先進地域が後進地域とタイアップして支援する方式がとられ、上海市は雲南省がその提携先となった。ことの次第は知らないが、文革のとき、上海の“紅衛兵”たちが雲南省のビルマ国境の僻地に下放されていたこととも関係があるのかもしれない。上海の知人はそのときの思い出を短編小説のいくつかにまとめているが、彼の“戦友たち”がひもじさに耐えかねてビルマ領に脱走していたという。
現地を案内してくれたのは、ラングーン大学出身の才媛。福建省出身の両親は漢方薬商を営んでいるという。
まず有名な寺院の案内、それはいい、しかし、である。門前で靴を脱いで、寺内のすべてを素足で歩くのには、正直、これには参った、庭園の砂利道などには、ほうほうの体(てい)。街なかで見かける若い僧侶はすべて素足である。これは修行のたまものであろうが、いつの日か、僧侶のすべてが靴を履いてくれたら、これは大きな商売になると、むかしどこかの講座で聞いた話を思い出していた。
マーケットでは現地のことばに、ときおり上海語らしきものがまじる。通路にまではみ出た、メイドイン・シャンハイの、テレビや自転車やTシャツ・・・の数々。
ホテルは台湾系とか、フロントではマンダリンが通じた。
一泊二日のオプションからヤンゴンに帰ると、ホテルの前を学生たちの静かな行進が続いていた。軍事政権と民衆との対立が再燃しかけていた。

ネウインのビルマ社会主義が崩壊した88年、アウンサンスーチー女史は母親の看護のために祖国に帰り、そのまま軍事政権と対峙して今日に至る。91年、スーチー女史の活動に対しノーベル平和賞が授与されたが、このころから軍事政権と中国との関係が強化され、両国首脳の交流からミャンマーの橋梁・港湾・道路建設などへの中国のプレゼンスが顕著になる。中国式市場経済を採用したミャンマーの軍事政権は、96年の雨期明けから「ビジット・ミャンマーイヤー(ミャンマー国際観光年)」を企画、外貨増収に乗り出そうとしていた。
 わたしが全日空の誘いでミャンマーを訪問したのは、この直前であった。
 日本からのアレンジでヤンゴン周辺の外資の縫製工場や観光資源などを視察したが、基本的には中国式の外貨兌換券システムが機能せず、外貨の法外な闇レートと外貨管理の複雑さには日系企業だけではとても対応しかねる市場と思えた。日本の商社や銀行の駐在員の話でもODAがらみの商談のみに関心があり、中国企業のミャンマー進出には神経を尖らしていた。
 それにもまして、わたしは民族衣装といわれる男性のロンジ、スカートまがいのその着用に疑問を感じた。極端な表現だが十メートルほど歩くたびに、このロンジを締めなおさなければならない。工場などのマネジャーのその動作を見ていると、これはとてもじゃないが日系企業にはお薦めできない市場と思えた。
 スーチー女史の自宅前を通り過ぎたとき、ジープは二台横付けされていたが、監視の兵士は所在無げに道路に座り込んでいた。外国人の立ち寄りは制限されていたが、まだ軟禁状況ではなかった。女史と軍事政権との対立がさらに強まり・・・、そして、今回の補欠選挙によるNLDの大勝で、軍事政権と西側諸国との関係が改善されようとしてきている。

 ミャンマーの人たちの大半が、仏教信者であるといわれている。
 その生活対応は、欧米でも中国でも、日本風でもない。
 スーチー女史は、「権力への反抗」について、次のように述べている。
 「私たちが権力への反抗ということで、思い描いているのは、インドの偉大な指導者マハトマ・ガンディーです。マハトマ・ガンディーは、平和的な手段で、穏やかな方法で、権力に対して反抗し、インド独立のために尽力してきた偉大な指導者です。私が言っている権力への反抗も、騒乱を起こすのではなく、穏やかに規律をもって、平和的な手段で、侵すべからざる国民の諸権利を獲得するために、不当な命令・権力に反抗していくということです」
(『アウンサンスーチー演説集』伊野憲治編訳・みすず書房1996年刊)

 あのころといまと、・・・明日と。
 「古続語(こどくがたり)」は、またまたと、次に・・・。

(2012年5月22日 記) 

九州の旅・高千穂・熊本・大分

2012-05-23 09:11:14 | 
五月晴れの朝
熊本に行く途中で水潤橋(すいじゅんきょう)があるとの標識を見つけ立ち寄りました
道の駅の方が、水漏れで少し水が出ていますが放水すると前と後ろと両方から放水されきれいです。とのこと
この放水は、ごみ掃除のためだそうです




熊本では路面電車が走っている


熊本城・加藤清正公が築城・後細川公の居城となる








城内の謁見の間・豊臣秀頼公のために加藤清正公が作ったとの説もあるそうです










天守閣から見下ろすと


菊池渓谷、水量も豊富でした









古希の旅 九州・高千穂

2012-05-21 10:57:44 | 
ことし70歳になる私と
姉夫婦と我夫婦で九州に記念の旅をすることになった

他の3人は、数年前に古希を迎えて元気はつらつ日々を過ごしている
阿蘇パノラマラインや九重連山を眺めながらの2泊3日
温泉三昧、土地のものを食べ、土地の方と語り、名所旧跡を見て回り
日本の旅もいいものです


天鈿女命(あまのうずめのみこと)像


高千穂神社




高千穂渓谷・真名井(まない)の滝






高千穂神楽


手力雄(たじからお)の舞


鈿女(うずめ)の舞


戸取(ととり)の舞


ご神躰(しんたい)の舞
結婚式の三三九度の杯事の起源とか


神話の故郷、高千穂、宿泊したホテルは温泉も食事もすべてこだわりの土地のもの、お世話していただく方たちも行き届いていて居心地良く過ごすことができました。すこしホテルの施設が古いのでと恐縮していただきましたが、夜食も蒸しパンを温泉から帰ると部屋に用意してあり、朝のチェックイン時には、お焦げのおむすびを持たせてくれました。
ホテルで出る食材はすべて高千穂の山や里でとれたもの、素朴ですがおいしかったです。


ホテル 四季見(しきみ)の方


ブータンのゾン(寺)

2012-05-08 09:52:57 | 
ドチュラ峠(標高3150m)の108基のチョルテン(仏塔)
ここからヒマラヤ山脈が望めました。その向こうはチベット(ブータン人のルーツはチベットからの移住です)






タクツァン僧院(ブータン人の信仰のもっとも熱烈な対象のゾン)
急峻な山の中腹に建っています(我々は写真撮影のみ)




メモリアル・チョルテン(ティンプー市民の信仰の厚い寺)


マニ車


参拝者は熱心にマニ車を回しています


5体倒置の女性










チャンガンカ・ラカン(子どもが生まれたらつれてくるゾン)
子授けも祈願するそうです

親子連れで参拝していました


猫ものんびりと・・・・・
ブータンの動物は、いじめられないのでどこでもゴロゴロ寝たり、歩いたり・・・・・



オイルの灯明がたくさんあがっています


けっこう高いところありました



ブータン人の生活の中には、自然に仏教への信仰がありました
 朝、学校や仕事に行く前に、昼休み、そして少しの時間でも、ゾンに参拝しマニ車を回しています
 年長者は、お弁当を持参で日がな1日ゾンで5体倒置をしたり、マニ車を回したり、世間話をしたりして過ごしています。

★ブータン人のステータスは、お金が出来るとチョルテンを建てたり、マニ車を寄付したり、仏像を建てたりするそうです。
 ちなみに私たちを案内してくれたソナムさんは、マニ車を寄付したいそうです。

★マニ車(チベット仏教の場合はマニ車を右回り(時計回り)に回転させる。
 回転させた数だけ経を唱えるのと同じ功徳があるとされている。

★平均寿命は男子90歳、女子はもう少し若いとのことでした。










ブータンの建築

2012-05-07 10:53:48 | 
ウィンディ・ポタン 17世紀に建てられたゾン(寺)の建て替え中




















ホテル増築の建築現場(竹がやたら使われています)








ブータンでは世界遺産として建造物や自然を守るのではなく、生活の一部として活用する絵も建築も使いながら修復して使うという思想のようです。
 博物館・美術館での保存は望んでいないようです。

★伝統のゾンの建築現場は、ブータンの職人さん達が大勢働いていますが、一般建築現場や道路工事の現場はインドからの出稼の人たちでした

★屋根は本来、平石を並べ、風で飛ばないように丸い石で重しを置いていますが、これだと2年に1回やり替えがあり、現在はインドから輸入したトタン屋根が人気があるようです。トタン屋根だと20年くらい持つそうです。(見た目はきれいではありませんが・・・・・)
 






ブータンのゾン

2012-05-03 13:28:39 | 
ゾンは17世紀にブータンを統一したシャプドゥンのンガワン・ナムゲルが全国を統制するための戦略的・政治的拠点として各地に整備した城塞(ぱろ・ゾンの正式な名前は、リンプン・ゾンで「宝石の城」という意味)(添乗員さんからの受け売り)


◆ティンプー



ワンチュク5世の宮殿・思いのほか小さい
3部屋だそうで、ほとんど王宮にいないで学校や各村を訪れているそうです
学校では生徒たちと同じ給食を食べて、話しあうそうです
(私たちもティンプーへ行く途中のバスと王様の車とすれ違いました)





王宮の正面(護衛がいるときは在中)





ワンチュク5世の執務室もあるタシチョ・ゾン
(王宮から歩いて通われるそうです)



プナカ



プナカゾン(ティンプーが通年首都になるまで300年ほどブータンの「冬の首都」
全国のゾンのなかでも信仰的・歴史的にも最も重要なゾン
現国王の戴冠式・結婚式もここで執り行われたそうです





プナカゾン入口





プナカゾン入口の大きな蜂の巣(黒い袋状のもの・もちろん殺しません)





外壁





内部




庇にはこんな鳥飾り




龍の彫刻





プナカの「冬の宮殿」




冬の宮殿は静かなたたずまいの中にありました







ブータンの食事

2012-05-02 21:33:41 | 

ブータンの食事は赤米、そして青いトンガラシとチーズや野菜の炒めたもの(からい)

牛肉、豚肉、鳥肉、サーモンも炒めもので食べている

ソーメンの炒めたもの(焼きそば)
ジャガイモ、玉ねぎ、ピーマン、キャベツ、からし菜、ホーレンソウ、ブロッコリーなどの炒め物
エンド豆、インゲン豆、かぼちゃ、トマト、なす、ニンジン、大根と食材は豊富
そば粉で作った餃子風のもの、ナン風なパン等など





旅行者には、ナイフ・フォークが出るが、ブータン人は指で食べる。
今回の旅では、ほとんどバイキングでした。





市場では、みかん(甘くておいしい)、小さいりんご、バナナなど豊富


★(川魚は、釣りが禁止なので食べない。外国観光客が川に魚がたくさんいるので釣りを希望すると、政府に許可をもらわないといけない。政府は許可は出すが、魚のいない川に許可を出す。生き物とは共存共栄が原則、それにしては牛や豚や鳥は別なのか?
インドからベンガル虎がブータンに入っているが、本来標高3千m位で生息しているがブータンでは4千mでも生活しているらしい。
そして、家畜を襲った場合は、政府にその家畜を届けると家畜の代金をもらえるそうで、ベンガル虎は殺されない。
ロシアから越冬してくる鶴が電線に首をひっかけるので電線を空中に張ることができないと発表すると、ニュージランド政府から地下ケーブルの対策案を出してもらったそうで、ほとんど電線は見かけない。)



日本では、いたるところ電線が張り巡らされていて、写真を撮ろうとしても電線がはいってどうしようもないと、観光客から不評
いつも、どうにかならないかと残念におもっている。