“あのころ”のこと
このところ むかしのことはよく思い出すが、いまのことはすぐ忘れる。
老化が進行してきているということであろうが・・・
76年の秋、ハイフォンの湾内見学で「ここは“海の桂林”といわれています。そのむかし、“封建中国”がわが国を侵略したとき、守護神の龍がまなこから火花を散らして敵を打ち破りました。そのときの“火の玉”が海に落ち込んで、このような美しい島々となりました」との説明に、わたしは思わず通訳の顔を覗き込んだ。“蒙古襲来”ということであろうが、まだベトナムが解放されて二年にもならないとき。物心両面でベトナムを支援した中国のことをそのようにいう筋合いではあるまいに、と思ったのである。
ベトナム経済視察団に参加してタイ、ビルマ(当時)経由でハノイに着いたのは三日前。街のいたるところに空爆でえぐられた跡が残り、市内を貫流する“ホン・ホー”(紅河)の仮設橋には、中国製の“解放号”トラックが連なっていた。ハノイで貿易公司などを表敬のあと、きょうはガタガタ道を三時間かけてこのハイフォンにたどりついたのであるが・・・。
沖合には無煙炭を引き取りに来た日本の貨物船、そして無数に散らばる“龍の火花”の岩礁、そこここでソ連や東欧圏の観光グループの歓声が上がる。
翌日 小型機でホーチミン市と改称したばかりのサイゴンに飛ぶ。
港はサイゴン陥落時に逃げ捨てられ、錆びついたクルマの墓場、ショロン(中華街)のシャッターは閉まったままで、関帝廟は香を焚いて膝まずくひとでごったがえしていた。ときおりアオザイのすそをひるがえして、女学生がスクーターで通り過ぎる、これはキタでは見かけない光景だ。
昼食のあと、街なかをひとりであるいて、理髪店を見かける。
シャンプーとひげそりのあと、二階へ上がらないかと誘われる。時間がないと丁重に断ったが、そうか、ここはまだサイゴンだと気づく。
ホテルで夕食のあと、ショウがあった。
ブラボー、ハラショーと歓声をあげるのは東欧圏の観光団ばかり。
わたしたちは、三々五々と夜のサイゴンの探訪に出かけた。
ネオンの消えた「BAR」があった。
ドアを開けると、乳飲み子を抱えた女性が出てきた。
ウイスキーはあるという。
スタンドに連なって、オーダーする。
GIがいなくなって、開店休業の由だが、英語が通じた。
ハノイから北京に着いたとき、中国は四人組の逮捕でゆれていた。
ベトナムでは、そのあと南部で粛清があり、ボートピープルが海外に漂流、中国がベトナムに“懲罰戦争”を仕掛ける。しかし、中国も文革終結直後で多難のとき、“専守防衛”の中国軍は、“百戦錬磨”のベトナム軍に手こずる。
改革開放のあと、両国を結ぶ“友好関”は中国商品流入の窓口となった。
マンダレーはミャンマーの北部、中国との国境に近い古都であり、国境貿易の拠点である。
96年10月、住民の五分の一以上が中国系といわれるこのまちに、わたしは足を延ばしていた。
中国で「西部開発」がはじまったとき、先進地域が後進地域とタイアップして支援する方式がとられ、上海市は雲南省がその提携先となった。ことの次第は知らないが、文革のとき、上海の“紅衛兵”たちが雲南省のビルマ国境の僻地に下放されていたこととも関係があるのかもしれない。上海の知人はそのときの思い出を短編小説のいくつかにまとめているが、彼の“戦友たち”がひもじさに耐えかねてビルマ領に脱走していたという。
現地を案内してくれたのは、ラングーン大学出身の才媛。福建省出身の両親は漢方薬商を営んでいるという。
まず有名な寺院の案内、それはいい、しかし、である。門前で靴を脱いで、寺内のすべてを素足で歩くのには、正直、これには参った、庭園の砂利道などには、ほうほうの体(てい)。街なかで見かける若い僧侶はすべて素足である。これは修行のたまものであろうが、いつの日か、僧侶のすべてが靴を履いてくれたら、これは大きな商売になると、むかしどこかの講座で聞いた話を思い出していた。
マーケットでは現地のことばに、ときおり上海語らしきものがまじる。通路にまではみ出た、メイドイン・シャンハイの、テレビや自転車やTシャツ・・・の数々。
ホテルは台湾系とか、フロントではマンダリンが通じた。
一泊二日のオプションからヤンゴンに帰ると、ホテルの前を学生たちの静かな行進が続いていた。軍事政権と民衆との対立が再燃しかけていた。
ネウインのビルマ社会主義が崩壊した88年、アウンサンスーチー女史は母親の看護のために祖国に帰り、そのまま軍事政権と対峙して今日に至る。91年、スーチー女史の活動に対しノーベル平和賞が授与されたが、このころから軍事政権と中国との関係が強化され、両国首脳の交流からミャンマーの橋梁・港湾・道路建設などへの中国のプレゼンスが顕著になる。中国式市場経済を採用したミャンマーの軍事政権は、96年の雨期明けから「ビジット・ミャンマーイヤー(ミャンマー国際観光年)」を企画、外貨増収に乗り出そうとしていた。
わたしが全日空の誘いでミャンマーを訪問したのは、この直前であった。
日本からのアレンジでヤンゴン周辺の外資の縫製工場や観光資源などを視察したが、基本的には中国式の外貨兌換券システムが機能せず、外貨の法外な闇レートと外貨管理の複雑さには日系企業だけではとても対応しかねる市場と思えた。日本の商社や銀行の駐在員の話でもODAがらみの商談のみに関心があり、中国企業のミャンマー進出には神経を尖らしていた。
それにもまして、わたしは民族衣装といわれる男性のロンジ、スカートまがいのその着用に疑問を感じた。極端な表現だが十メートルほど歩くたびに、このロンジを締めなおさなければならない。工場などのマネジャーのその動作を見ていると、これはとてもじゃないが日系企業にはお薦めできない市場と思えた。
スーチー女史の自宅前を通り過ぎたとき、ジープは二台横付けされていたが、監視の兵士は所在無げに道路に座り込んでいた。外国人の立ち寄りは制限されていたが、まだ軟禁状況ではなかった。女史と軍事政権との対立がさらに強まり・・・、そして、今回の補欠選挙によるNLDの大勝で、軍事政権と西側諸国との関係が改善されようとしてきている。
ミャンマーの人たちの大半が、仏教信者であるといわれている。
その生活対応は、欧米でも中国でも、日本風でもない。
スーチー女史は、「権力への反抗」について、次のように述べている。
「私たちが権力への反抗ということで、思い描いているのは、インドの偉大な指導者マハトマ・ガンディーです。マハトマ・ガンディーは、平和的な手段で、穏やかな方法で、権力に対して反抗し、インド独立のために尽力してきた偉大な指導者です。私が言っている権力への反抗も、騒乱を起こすのではなく、穏やかに規律をもって、平和的な手段で、侵すべからざる国民の諸権利を獲得するために、不当な命令・権力に反抗していくということです」
(『アウンサンスーチー演説集』伊野憲治編訳・みすず書房1996年刊)
あのころといまと、・・・明日と。
「古続語(こどくがたり)」は、またまたと、次に・・・。
(2012年5月22日 記)