サンファンのふるさと
昨秋 莫言さんのノーベル文学賞受賞の報を耳にしたとき、書棚の奥からかれの短編集『白い犬とブランコ』(吉田富夫訳・NHK出版)を取り出して、この日本語版に寄せられた著者のメッセージを読んだ。川端康成の『雪国』を読んで“電光石火”のごとくに浮かんだ着想がこの短編の書き出しとなり、「それからというもの、『高密県東北郷』がわたし専属の文学領土となった。わたしもそこら中を彷徨い歩く文学乞食から、その領土の王となった」と述べている。
わたしは中国地図集を開いて、かれの領土「高密県東北郷」を探した。
それは、山東省青島市の近郊にあった。
そこはまた、わたしの“サンファンのふるさと”でもあった。
わたしが北京から夜行列車ではじめて青島へ行ったのは、“四人組”逮捕の翌年の2月、駅前旅館?に到着早々、魔法瓶を二本手渡され、ススだらけの顔を洗った。軍の飛行場に民間機が就航するのはそれから2~3年後のことである。
中国工芸品進出口総公司山東省分公司、これが今回の商談相手、北京の総公司とは基本的に合意していたが、具体的には現地でということにあいなって、仕切り直しの商談はその夜、この駅前旅館での“歓迎宴”ではじまった。60度は優にこえる“チンタオ・マオタイ”の一気飲み、同行の社員が次からつぎへと倒され、気がつけばわたしも部屋で服を着たままダウンしていた。
メイズクッション、とうもろこしの内皮を天日で乾燥させた繊維、それを手編みでクッションに仕上げたものであるが、これを自動車用に補強したものを輸入したい、それも日本総代理店として長期契約したい、というのが今回の商談内容であった。そのころ日本ではマイカーブ-ムのハシリではあったが、カークーラーを装着しているのは、高級車のみ。真夏のクルマに腰掛けると、飛び上がるほど熱い。竹製やいろんなマットが製造・販売されていたが、会社の自動車用品部がこのメイズクッションに目をつけ、貿易部に開発輸入、それも総代理店方式のビジネスを提案してきていたのであった。
製造現場は、郊外の農村にあった。
生産は地元の合作社が一括請負、農家に手作りで賃仕事させていた。
夏になると、辺り一帯は高粱ととうもろこしで覆われているという。
莫言の、「紅高粱」の世界である。
チャン・イモウの映画「赤いコーリャン」がヒットし、原作者の莫言が注目されるようになるのはまだ十年ほどのちのことになるが、その世界はこの周辺にあった。
公司との商談も順調に進み、販促にテレビコマーシャルもはじめることになった。帰国後、広告代理店との打ち合わせで商品名を「サンファン」とすることになった。語呂のよい、覚えやすいことば、サン=太陽、ファン=扇風機、意味づけはどうでもいい、メロディも、歌詞も・・・となり、外人の女性のスカートが風でそよ吹き・・・というカットをなんどもくりかえし収録さされたこのモデルは、とうとう風邪をひくということに・・・。
「サンファン」の売れ行きは、順調であった。
翌年の契約で、販促のひとつとして大口販売先の中国招待旅行がとりきめられた。題して「サンファンのふるさとを訪ねて」、このキャンペーンの展開にはいろんな課題が浮かび上がってきた。まず参加者への中国事情、現地事情の紹介と受け入れ先(青島)の宿泊事情の問題などである。
莫言のノーベル文学賞受賞後に手にした彼の作品のひとつに『白檀の刑』(吉田富夫訳・中央公論新社、文庫版も)がある。その文庫版(上)の裏カバーにつぎのような一文がある。
「清朝末期、膠州湾一帯を租借したドイツ人の暴虐の果てに妻子を奪われた孫丙は、怒り心頭し鉄道敷設現場を襲撃する。近代装備の軍隊による非道な行いの前に、人の尊厳はありえないのか。哀切なマオチャン(猫腔)が響き渡り、壮大な歴史絵巻が花開く・・・」
この作品は単なる歴史小説ではない、スト-リー・テラーとしての莫言の能力がつぶさに展開される“おはなし”であるが、その時代背景は上記のようになる。
そして、義和団の乱のあと清王朝は崩壊、第一次世界大戦のあと、日本はドイツに代って青島を含めた一帯の租借権を受け継ぎ、45年の敗戦までこの地を支配している。日中の国交が正常化してまだ数年のこのとき、この地には日本の生々しい痕跡が残っている。
得意先の役員から青島の丘の上の教会はどうなっていますか、あそこで結婚式を挙げたのですがと問い合わせがあった。調べてみると、文革が終ってもまだ改革開放が進んでいない当時のこと、教会は食糧倉庫になったままであった。
初訪問時に眺めた海岸に連なる丘稜の、赤茶色の建物の数々は南欧の風景を思わせた。駅前旅館?の朝食も、当時の中国では見かけられない目玉焼きに野菜サラダがついたパン食であったから、これはまぁいいとして、数十人の日本人をどこに泊めるか。ホテルは夏場だけにオープンしている海岸沿いの桟橋賓館しかないが、これは避暑客で超満員、受け入れ側公司の大丈夫、まかせてくださいのことばをたよりに、キャンペーンが実施されることになった。
一年後の初秋であったか、シャンハイ・イン~ペキン・アウトとその逆コースの二団が青島で合流することになった。わたしは先に青島で待ちうけ、公司と打ち合わせをしていた。本団は迎賓館(元ドイツ総領事館)、あとは海岸沿いの別荘にと分宿することになった。歓迎宴も終わり、わたしは三十余名の方と迎賓館に宿泊した。夜も更けたころ、同宿の社員からみんなが寝付けないと騒いでいると言ってきた。なんでも廊下を軍靴で行進する音が聞こえ、ときおり“ハイール、ヒットラー”と叫ぶというのである。それも、ひとりやふたりの話ではない、寝付けない、なんとかならないかという。とにかく寝れない人を大広間に集め、夜明けまで酒盛りをする羽目になった。
翌朝、元重光公使(アメリカの戦艦・ミズリー号上で降伏文書に署名したあの重光外務大臣の北京大使館勤務時代の)別荘の三階の畳の間に宿泊した人たちは、夜中に浴衣を着た女性が窓から海の方へスゥ~と消えて行ったとか、別のところに宿泊したひとも松風のささやきが気味悪かったと話が続く。公司の人たちは、そんなバカな、と取り上げない、気のせいですよということになったが、そう、気のせい、なにか中国に臆する気持ちがあったのかも知れない。
莫言のほかの小説を読んでいても、かれは声高に主張するわけではないが、こころのそこに残る思いを綴り、読者に話しかけている。
『牛、築路』(菱沼彬晃訳・岩波現代文庫)の、『牛』は少年の目を通して文革中の人民公社の一断面を描いているが「これは無産階級文化大革命の偉大なる勝利である。この事件がもし、諸悪のはびこる旧社会で発生していたなら、三百八人の患者は一人として生存を望めなかっただろう」との語りは、ことのなりゆきから見ればこれは反語であり、痛烈な批判というべきであろう。
『蛙鳴(あめい)』(吉田富夫訳・中央公論新社)の表カバーには「これは禁書だ 現代中国根源の禁忌に莫言が挑む」とある、いってみればその通りであるが、中国のひとりっこ政策・産児制限は、当事者でなければその思いは体感できないであろう。この本の前半は、強制的な産児制限を描く悲劇であり、後半からはコミカル風でさえあるが、中国の根っこの部分でこれからも噴出してくるような問題の提起もある。裏カバーには「堕せば命と希望が消える 産めば世界が必ず飢える」とあり、さらに莫言のつぎのようなことばが記されている。「本書を書き上げて、八つの文字が重くわたしの心にのしかかっている。それは、他人有罪、我亦有罪(他人に罪あり、我また罪あり)」。
サンファンのふるさとは、いまも、気にかかるところである。
(2013年5月22日 記)