くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

夏の『うたあそび』 ②

2012-08-28 00:16:53 | うたあそび
★何事も無く1日を終えし夕 さえた音色でコオロギの鳴く



★美脚見せ夏闊歩する若き等は戦争知らぬ幸せ世代



★震災の土地の活用定まらず 炎暑の夏をまた迎えおり



★流水にスイカ冷えたり その横で足浸しおり田舎の夏は



★「終戦をどこで聞いた」と話し合う 年をいわずと通じる話






   











夏の『うたあそび』 ①

2012-08-27 23:51:23 | うたあそび
★父笑い吾も笑いて夢の中 思いがけない再会果たす

 もう15年が過ぎました。父が亡くなって・・・・・
 これまで一度も父の夢を見たことはありませんでした
 それが、父と再会したのです
 もちろん私は姉や妹に鼻高々知らせたことは言うまでもありません



★人生の先が見え始めし友と吾 がん宣告を受けしとの知らせ

 平静に切り出したことばに、何と答えたらいいものかと
 頭の中は、真っ白でした
 こんなことって・・・・・
 こんなに身近なことなんだと・・・・・

 13日から治療に入りました
 携帯メールで治療が始まって12日間のご報告 
 喉頭ガンの治療です
 徐々に薬が効きはじめて、食事が取れなくなりはじめましたとあり
 心が痛いです
 返信メールを送りながら
 慰めの言葉も出てきません・・・・・



★麻の葉の模様のきもの着たわれが 玉音放送聞いた気がする

 私は今年 古希 を迎えます
 知人たちは、3歳にもならない子供が覚えているはずがないと
 申します

 でも 私の記憶では
 夏の日 稲田に水を引き入れるため母親と二人で井戸の小屋の前にある
 イチジクの木につるしたラジオを囲んで村人たちが泣いていた記憶が
 あるのです

 あれは、なんだったのでしょうか? 

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾四

2012-08-20 22:36:23 | はらだおさむ氏コーナー

                 
なんであったのか、この四十年      


  わたしはいま、加古隆のCDを聴きながらこの小文を書きはじめている。

  わたしがはじめて加古隆に会ったのは、上海音楽庁(コンサートホール)の楽屋であった。96年の秋のこと、上海の友人が日本の有名な音楽家と紹介してくれたが、わたしはそのときまでかれがNHKスペシャル「映像の世紀」の作曲家であるとは知らなかった。
  満員の会場の一番前に友人と座り、はじめてそのピアノが奏でる調べに引き込まれた。
  帰国後、わたしは知人たちのフアングループに加わって、京阪神で開催のかれのコンサートを数年追っかけた。サイン入りもふくめ、いまも手元に十数枚のかれのCDがある。
  96年の中国公演は、国際交流基金の主催によるものであった。このときは、中国公演(北京、上海)のあとスリランカ・インドなどへの公演旅行が続いたはずである。
  
  それから十余年後の、上海万博のとき。
  在上海日系コンサル会社の創業者・菫事長であるわたしの知友が、玉三郎主演、上海昆劇団・蘇州昆劇連合公演の昆劇「牡丹亭」の開催に深くかかわり、これを成功させた。なによりもすごいのが「人間国宝」玉三郎が、昆劇のセリフをすべて原語で語り、演じたことである。日中の文化交流もここまで深化したかと思わせるできごとであった。
  そして昨年の5月、日中韓三国首脳会議で来日中の温家宝総理が、会議の合間を縫ってSMAPのメンバーに会ったこと。上海万博会場での公演が「あの事件」で流れ、そしてこの年の秋、北京公演が確定していたSMAPは温家宝総理に♪世界にひとつだけの花♪を中国語バージョンで披露したのであった。

  七月末に白内障(両眼)手術で数日入院したとき、わたしは加古隆のCDをベッドで聴きながら、過ぎし日々を思い出していた。
目がすこしはっきりと見えるようになった。
今年は9月に日中国交正常化四十周年を迎える記念すべき年でありながら、日中双方の世論調査ではお互いに好感情を持たない比率が過去最高、つまり両国民、とりわけ日本人の対中感情は悪化の一途をたどっている。
  四十年前のあのとき、百貨店の「大中国展」会場で正常化実現のクス球が割れた時、手を取り合って涙したのはなんであったのか。

  いま加古隆の「パリは燃えているか」を聴きながら、考えている。
これは前述NHK「映像の世紀」のオリジナルサウンドトラックである。
  独仏国境の街ザールは、普仏戦争のむかしから互いに領有権を主張して二度の大戦の発火点となり、戦場となった。そして、いまは不戦の誓いも新たに緑したたる独仏公園になっている。

  尖閣問題は、来年三月地権者と国との使用契約期限が満了したとき、新たな局面をむかえる。
  このとき、日本の対応いかんで中国の“憤青”たちが日本大使館や企業を襲撃する事件がおこらないとはいえない。東京の中国大使館などを取り囲むひとたちの動きも出るかもしれない。両国の交流は、民間ベースも含め一頓挫するのは目に見えている。それを承知で、拱手傍観していていいのか。
  不測の、偶発事件を避けるために両国首脳間にホットラインはあるのか。
  この島を、平和と友好のシンボルの島にするための話し合いはどの程度進められているのか。犬の遠吠えでは、困るのである。

  ビジネスと政治の世界は異なるだろうが、交渉ごとの基本は同じではないだろうか。
  わたしの経験から、交渉では大いに論争し、喧嘩をすべし、といいたい。
  そのなかで、お互いの本音と妥結点が探り合える。そのときの鉄則は、ケンカをしても憎しみあってはならない、ということである。
  80年代初めの、まだ合弁企業実施細則もないころのこと。
  上海での日系製造業合弁契約第一号交渉のとき、あまりにも高飛車な、無理難題な相手の要求に、ホトケの原田さんもついにキレてテーブルをたたき、
 声を荒げた。先方の責任者は席を立ち、姿を消した。交渉決裂かと腹をくくったとき、相手はヒルメシにしようと誘ってきた。無言の、まずい食卓であったが、ふと見ると隣席で先ほどまで大声で遣り合っていた海外華僑と公司の担当者が談笑しながら箸をつついている。交渉(ネゴ)術を教わった気がした。そして、たとえまずい食卓であれ、席をともにしたことは交渉継続のサインを出したことになると思った。

  アモイの目と鼻の先に台湾領の小金門島がある。
  朝鮮戦争休戦後の58年、アモイから台湾の前線基地兼司令本部のある金門本島に数十万発の砲弾が打ち込まれ、小金門島は「大陸反攻」の前哨基地であった。わたしがはじめてアモイを訪れた86年9月では、午前中は小金門島からジャズが流れてきて、アモイからは午後京劇の唱(チャン)が拡声器で伝えられる音楽の応酬になっていた。二回目の訪問の92年にはそれもなくなり、沖合いには中台の軍艦が双方の漁民の密貿易(辺境貿易?)を見守っていた。いまはアモイから金門島へフェリーがひっきりなしに行き交い、小金門島には「大陸反攻」に代って「三民主義 統一中国」のスローガンが岸壁に書かれている。軍事対立から、今日の状況まで数十年の時間がかかっている。

  来年の三月、地権者から尖閣諸島のいくつかの所有権が東京都経由で国に移転するであろうそのとき、日本政府は中国と対立を激化させるだけでいいのか。わたしはこの島を平和と友好のシンボルにするため、中国と積極的に交渉すべきではなかろうかと思う。
  まず周辺航行の船舶の安全のため灯台を設置する。そして、緊急時のためのヘリポートの建設と台風など悪天候時の緊急避難港をつくり、国籍を問わずあらゆる船舶の受け入れを認める。この費用と管理は日本が行うが、その運用などは適宜関係諸国と話し合っていけばいいのではないだろうか。
  日中両国にとっての「核心的利益」とはなにか、大局的な見地からみれば08年5月に胡錦涛主席と福田康夫首相が署名した「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」の誠実な履行こそが求められるのではないだろうか。これが一番最近の、国としての約束ごとになる。
  そのために政府は当然、企業家も学者も、各界各層の団体・市民も、40年前のあのときのように熱意を持って問題点を整理し、話し合いを進めるべきではないだろうか。いまは40年前と違っていろんなパイプが存在しているはずである。日中間の危機的状況は、話し合いのなかで解決されなければならない。

  加古隆のアルバム「静かな時間」に収録の数曲は、上海生まれの世界的二胡奏者・姜建華(ジャン・ジェンホア)とのコラボレーションである。ピアノと二胡の合奏によるその調べは、「パリは燃えているか」よりこころを慰めてくれる。日中関係のあすもそうであってほしいとおもう。
                 (2012年8月15日 記)
   「パリは燃えているか」http://www.youtube.com/watch?v=Iv-FTxisEpM

パリ ルーブル美術館

2012-08-20 08:54:37 | 




ちょうど日曜日で入館料は無料
その分 来館者は多い
音声ガイドも無料
日本語の配置図も手に入れ
お目当ての展示物を先ずは見ようと頑張った!!

残りの時間は
彫刻と彫像の部屋から離れることはできなかった

勝利の女神 ニケ




ミロのビーナス







いい時間でした!!



リヨン  フランス 

2012-08-19 00:19:46 | 




 




フランスでの金融センターのひとつ、多くのフランスの銀行の本店が置かれている
 永井荷風が横浜正金銀行の社員として滞在した

★ローマ帝国の植民市として古代から栄えた物資の集散地、中世には市の立つ町として
 ヨーロッパでも有数の交易地として栄えた

★絹織物の産地(中学時代に社会科の教科書にのっていたな~)

★フルヴィエールの丘に建つサン・ジャン大教会がある。ローヌ川と、ソーヌ川が
 リヨンの南部で合流する

ボーヌ  フランス

2012-08-14 11:16:06 | 




ボーヌのオスピス(ホスピス, 施療院)- 1443年にブルゴーニュ公国の宰相が創設したもの
貧しい人たちに無料で医療を施した
入院の条件は、貧者であることただひとつだった





王侯貴族から寄進されたブドウ園とそこから生産されるワインで、費用は賄われていた
もちろん金持ちも施療を受けることが出来る(高額で)






この建物は、屋根瓦が、黄色や赤、茶色とカラフルで、しかもブルゴーニュ風の文様を
描くようにデザインされていてとても美しい
施療院は、当時、オテル・デュー(神の宿)も呼ばれた





現在では、その当時の薬品、医療器具を展示した医学博物館
今では11月にワインオークションがこの博物館で開かれている







そしてワインを試飲できるワインバー(9ユーロ)
ひんやりとしたワインのにおいに包まれて、ずいぶん飲みました

残念 この地下にはロマネコンティは置いてなかった!!











古文書徒然其之四(1)

2012-08-12 21:04:12 | はらだおさむ氏コーナー

猪名川の氾濫
~ 元文五年(1740)の洪水を中心に ~




(一)

 「六月九日、・・・九つ時くもり七つ時よりふり、・・・暮六つ時神鳴(雷)夕立六つ過よりひかり大夕立、夜大雷火に光り大夕立、夜中時より門々ニ火ヲつる。大水夜中時より北ノ口①京や太右衛門流レ、・・・流レ、木部新田流レ出在家ノ上切レ山王岩下切れ、中山海道より小花へ切り込み・・・」(池田市史・史料編第二巻「伊居太神社日記」)。

 元文五年(1740)六月九日、畿内全域に豪雨が降り、とりわけ摂州川辺郡周辺では大きな被害が出た。
 猪名川下流の尼崎藩杭瀬村にある真宗西本願寺派末寺・西光寺の住持了諦は、「家の記録」②に「能勢郡より多田郡之山を吹出ス水 池田川筋切所多当寺境台(内)へ水入」と認め③、六月十三日付けで尼崎藩の寺社奉行田中清助様あて以下の被害届けを出している。



 一 当寺所持之田地水押
     高拾九石壱斗壱升六合九勺
 一 死人    無御座候
 一 牛馬怪我  無御座候
 一 潰家    無御座候
 一 寺内倒木  無御座候

   右ハ当月九日之夜満水ニ付、水押入及破損候儀
   書付指上申候 以上

     元文五申六月十三日
                  杭瀬村 西光寺 印

田中清助様

                        
①池田郷町の能勢街道に通じる「北ノ口」。いまの池田市新町、猪名川に面し対岸は小部村。
②「家の記録」(「源光寺文書」)は尼崎市杭瀬西光寺の元禄三午(1690)六月~天明七年(1787)六月の記録。本山からの連絡を含む宗教行事、御触れなどの写しが中心であるが、ときおり本文のような身辺記述もある。
③本記述は、「右案文同事ニ而」と閏七月、八月の三度の「水押」時に寺社奉行へ「書付差上候写」に書かれている。この覚の末尾に小さく追記されたもので、挿入した時期は不明であるが、出水後の伝承を書き添えたもの。

       (二)

 猪名川は、猪名川町の大野山から発し、渓谷を南流して屏風岩の狭窄部を通って南下、大小あわせて42本の支流と合流しながら兵庫県と大阪府の境界流域を通過、戸の内の南で神崎川に合流して6.5km下流で大阪湾に流入する。流域面積383平方km、幹線流路延長43.2kmの典型的な都市河川で、流域には猪名川町、川西市、宝塚市、池田市、伊丹市、豊中市、尼崎市の6市1町が連なっている(国土交通省ホームページなど参照)。

 「摂津国名所旧跡絵図」①でその流れを辿ってみる。
 能勢の奥から多くの枝川が銅山(川辺郡)を越えて一庫川に集まり、多田院の手前で猪名川本流に入る。箕面(豊島郡)の奥から五月山の後背を通り抜けてきた久安寺川(余野川)と鼓滝の南で合流、川辺・豊島の郡境に沿って南下する。左岸(東)に池田郷町、右岸からは中山寺への巡礼道や小浜宿に向かう有馬街道が連なる。郡境は猪名川からすこし東に寄り、伊丹郷町が近づいてくる。荒木村重古城附近(現神津大橋南)で本流から藻川が分かれ、いまの尼崎市域②に入る。本流は岩屋の下(しも)で千里川を合流し、再び川辺・豊島の郡境に沿って下る。この流域は水争い(水論)の頻発した九名井(原田井)の地点である。この先で「池田川」がはじめて絵図に大きく「猪名川」と記載される。州到止(すどし)で神崎川に合流、藻川も戸ノ内の先で神崎川に入る③。対岸は西成郡加島、「カンザキノワタシ」の右岸に「遊女塚」がある。

 元文5年6月9日の夜半から10日にかけて、杭瀬村の西光寺周辺に流れ込んだ「水押」は、どの川からきたのであろうか。
 「能勢郡より多田郡之山を吹出ス水 池田川筋切所多当寺境台(内)へ水入」来たのは、上流の決壊箇所から灌漑用水路を伝って溢れ出してきたのか、それとも近くの左衛門殿川の堤が決壊したのであろうか。「当寺所持田地」は冠水したが、死人・牛馬怪我なく、潰屋・倒木なし、という被害届からみれば、この書き出し―「能勢郡より多田郡之山を吹出ス水」―は、上流地域からの被害の大きさを漏れ伝え聞き、恐れおののいているかのようである。
                       
①「摂津名所図会でみる猪名川の今昔」(国交省猪名川事務所編)の付図。
②藻川流域の村々は当時尼崎藩領ではなく、直領、大名、旗本領またはそれらの入組が多かった。
③この絵図では藻川は直接神崎川に流入しているが、現在は昭和40年前後の戸ノ内、利倉の捷水路工事の結果、猪名川と合流後神崎川に注入している。藻川の流れはときおり移り変わっていたのだろうか。

ポン・デュ・ガール  フランス

2012-08-08 09:39:46 | 


2千年前にカエサルの兵士を住まわせるために水道橋をつくった
 この橋は、水道を通し馬と人のみ通行をさせた3重の水道橋
 設計はローマ人  作るのは奴隷
 橋げたのどこかに魔よけのウサギがいる












ガール川にかかっている
 カヌーを楽しんだり、ピクニックしたり、泳いだりと今も観光客が
 楽しんでいる