莫 言 効 応(モ- イエン シャオ イン)(莫言効果)
(公社)日中友好協会の機関紙「日本と中国」に劉笑梅さんのコラム「新語手帳」の連載があり、その58回(11月15日)に表題の「莫言効果」が掲載されている。莫言さんのノーベル文学賞受賞後の、中国の寸描である。
<1 代表作「赤いコーリャン」をはじめ、すべての作品が売り切れ、出版社は増刷を急いでいる 2 高校の教材にも急遽、取り入れられることになった 3 莫言の故郷・山東省高密市のかれの旧居に観光客が毎日殺到、観光地化の動きもでている>
いずれも結構なことである。
この受賞を機会に中国はもちろん、大勢の方が莫言の描く“世界”に入り込んでいただくことを期待したい。
もう十余年前になるか、京都で二度莫言さんにお会いしたことがある。
一度目の会食のとき、日本入国のビザ申請をしに在北京の日本大使館に出向いたら、応接間に案内され上司の方からこれから何回も日本においでくださいと数次ビザの押された旅券を手渡されたと耳にした(そのころはまだ日本の身元保証人がないとビザが発給されなかった、まして数次ビザなどは)。
二度目は翻訳本の出版記念会であったか、京都の大学での講演のあと催された立食パーティのとき。このあと東京で大江健三郎さんにお会いして、それから北海道を旅するとかの話であった。大江さんはかれの高密の自宅にもすでに立ち寄っておられて、久しぶりの面談を楽しみにしておられた(ノーベル賞受賞者の大江さんは、アジアからの次の受賞者は莫言さんと信じておられた)。このときの来日は、もちろん前回の数次ビザが活用されている。
彼の小説が原作の映画「赤いコーリャン」、「至福のとき」、「故郷の香り」はいずれも二十年ほど前に日本でも上映され、わたしも見ている。
「赤いコーリャン」は張芸謀(チャン・イモウ)監督の第一作として話題を呼んだ。わたしはかれが撮影を担当した「黄色い大地」(陳凱歌監督)のカメラアングルに魅せられてかれのフアンになり、その監督処女作というこの映画を待ちわびた。原作者の、莫言という作家はその時はまったく知らなかった。
二十数年前、数多くのすぐれた中国映画が日本でも上映され、そのなかでいまでもわたしの心に深く残るのはやはり「黄色い大地」であり、「芙蓉鎮」である。この「黄色い大地」に魅せられて、その後ヤオトンに住み込み、そこから覗いた「中国」を学究のテーマにした後輩もいるが、わたしはやはり民謡採集の、解放軍文芸班の兵士に心惹かれた主人公の心情に魅せられた。あの最後の、川を筏でひとり渡ろうとするあのシーンはいまでもわたしの目に焼きついている。そのシーンを撮ったのは、張芸謀のカメラであった。
「赤いコーリャン」は原作もシナリオも読んでいないので、あまり記憶が定かでないが、ドギツイばかりの原色の“紅(あか)”と、のちのチャン・イモウとコン・リーのコンビが描きだす“愛憎”の世界を思い出す。宴たけなわになれば、わたしの友人が声を張り上げて歌う「紅高粱」の主題歌は、こうした思い出を紡ぎだす。
「故郷の香り」は莫言さんの原作『白い犬とブランコ』に基づいている。監督は張芸謀ではない。わたしはしっかり原作を読み、そして映画を見た。わたしはかれの著作は、短編集をふくめ数冊ほどしか読んでいない。しかし、この原作の映画化に期待し、そして感動した。原作が読みこまれ、映画になっていた。原作では、わずか2~3行の文章が、しっかりと映像になってそのふんいきを深く映し出していた。この監督(霍建起)についてはほかにどのような映画があるのか知らないが、わたしはこの一作でかれの名を胸に仕舞い込んでいる。そして、この映画でわたしと莫言さんはつながったのであった。
張芸謀は莫言さんの『幸福時光』を映画化している。はっきりとした記憶はないが、そのシナリオを見て原作者が監督に意見を出したというはなしを、なにかの映画雑誌で読んだような気がする。この映画も見る前に原作を読んでいたが、期待は完全に裏切られた。映画はまさに「至福のとき」をイメージするようなシーンをくりひろげていたが、原作はそうではない。九十年代はじめの「国営企業改革」がその背景にあり、登場人物はそのなかでさまざまな行動に出る。映画はその表面的な動きだけを捉えて、ストーリーを展開しているが、その動機なり、背景を説明するプロットがない、組み立てがない。莫言さんの小説はときには難解であり、読み手の解釈に任されていることも多いが、この映画はそのエッセンスを抜き取って形骸だけを取り上げているように思えた。
チャン・イモウは中国を代表する世界の映画人に昇りつめているが、わたしはこの「至福のとき」以後のかれの映画に琴線をゆるがされたことがない。
12月のストックホルムは雪が降り続いていた。
莫言さんは7日の記念講演では人民服姿で「物語を語る人」と題して、母親の記憶を手がかりにした四つの話「古い記憶」「最もつらい記憶」「最も印象深い記憶」「最も後悔している記憶」を語ったという。川端康成の愛読者であるかれは、康成の受賞スピーチ「美しい日本の私」を参考にしたともいわれているが、その内容について中国では賛否両論の議論が起きていると中国新聞網は伝えていた(12月7日「レコードチャイナ」)。
「・・・その細やかな観察眼や母親への深い愛情、貧困の中でも誠実さを失わなかった母親の素晴らしさに対して賞賛する声も上がった一方で、まるで中学生の作文だと皮肉る意見も。あまりに中国的、農村的すぎて欧米の人間には伝わらないのではとの意見もあった」
10日の授賞式では、燕尾服姿の莫言さんの席は山中伸弥教授(医学生理学賞受賞)の隣であった。口さがない中国の「網民」はあれやこれやとネット上で騒ぐが、いいじゃないか、中国の首脳もTPOで服装を使い分けている。
晩餐会で莫言さんはつぎのように語ったと報じられている。
「・・・自身の受賞に対する賛否両論を念頭に『私は受賞発表後に起きたことを、一歩引いた冷静な目で見ようと努めてきた。それは世界を、それ以上に私自身を知る貴重な機会になった』」(12月11日「ストックホルム=共同」)。
中国の「人民網日本語版」(12月12日)は「莫言氏に『言論の自由』について問い詰めるのはとぼけた話だ」と現状における中国の言論の自由について解説している。
莫言はペンネームである。
本名は管 謨業、この謨の一文字を偏と旁に分解して出来たのが莫言というペンネーム、名前そのものを意味づけるのは読者の勝手というものであろうが、
これは<言う莫れ>と解釈できる言葉にもなる。
かれは文学者、作家である。
政治家でもなければ、アジテーターでもない。
しかし、『蛙鳴(あめい)』(吉田富夫訳・中央公論新社刊)を読めば、中国の「一人っ子政策」のもたらした悲劇を、山東省高密県の風物と歴史のなかでみることになる。そして、それは中国のこの三十余年の歴史といまに思いを致すことにつながるのである。
そのなかにつぎのようなフレーズがある(P248)。
「十数年前にわしは言いました。書くときは心のいちばん痛いところに触れ、人生のいちばん振り返りたくない記憶を書かねばならない、と。いま、わしは、
さらに人生のいちばん恥ずべきことを書き、人生のいちばん無様な境地を書くべきじゃと感じています。おのれを解剖台の上に置き、集光レンズの下におくのです」
ひとつのことに対しても、ひとの感じ方、考え方は多様である。
この一人っ子政策の「産児制限」について、盲目の弁護士・陳 光誠さんは中国政府の対応・措置に抗議してアメリカ大使館の保護を求め、アメリカへ「留学」することになった。莫言さんは同じテーマに挑んで、この本『蛙鳴(あめい)』を書き上げた。対応は異なるが、莫言さんも「おのれを解剖台の上に置き」
苦吟している。中国公民ではないわたしには、それ以上のコメントはできないが莫言さんの思いは受け止めることができる。
莫言さん
桜の咲くころ、京都に、日本にいらしてください。
もうビザは要りません。
そして、散り行くサクラを肴に酒盃を傾けあいましょう!
(2012年12月13日 記)