くに楽

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徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾九

2015-09-30 22:04:11 | はらだおさむ氏コーナー

かおを あらう


ひとは ものごころつくころから、朝に夕に顔を洗ってきている。
 水道の蛇口をひねり、流れ落ちる水に両手をさし出して二度、三度と顔をゆすぐ。
 こどものころ、二年近く農村で生活をしたことがある(戦時下の疎開)。
 そのころの農村には水道は無く、井戸から汲み出した水を桶にあけ、柄杓で金盥に少し取り出して顔を洗っていた。
 若いころからよく入院したが、おしぼりで顔をぬぐわれるつど、早く起き上がって水道の水で顔を洗いたいと思っていた。
 両手で水を受けて、その手を上下に動かして洗顔する、この行為(動作)は、万国共通と考えることも無くそう思い込んでいたのだが・・・。

 八九年五月 帰国する上海の友人を誘って香港経由で広東省の経済特区を視察したことがある。
 深圳・珠海・汕頭の視察を終え、広州の白雲飛行場(当時)から上海へ行くべしであったが、北京へ行こうとする学生たちを阻止するためか全フライトはキャンセルになり、近くの機場賓館(エアポートホテル)の大広間でごろ寝をすることになった。
 翌早朝 北京行き以外のフライトはテイクオフすることになり、洗面場は大混雑で長い列が連なっていた。わたしも友人とタオルを持ってその最後尾についた。洗面を終わったひとがわたしの横を通り過ぎて行く。何気なく見ていると、その人たちのタオルが濡れている・・・洗面して顔を拭くだけであんなに濡れるわけでもないのにと、前の方の人の洗面を見ていると・・・水道の蛇口の下にタオルを広げて、ボトボトになったタオルに顔を近づけ、前後に顔を動かしている。手は濡れたタオルの下で停止、顔の動きで拭うことしばし、やおら顔を上げ、タオルをしぼって顔をぬぐい・・・洗顔完了。タオルをもう一度水にぬらして絞り、選手交代、となる。わたしの番になり、隣の蛇口には友人が・・・ちらっと横目でうかがうと、かれもおなじようなしぐさで洗顔している。蛇口の下に両手を広げて洗顔し、乾いた手ぬぐいで顔をぬぐっているのは、わたしのみであった???
 荷物を担いで搭乗手続きを終えたころ、わたしは友人にこの洗顔光景の?を尋ねた。
 かれはなぜそんなことを聞くの?といわんばかりに、あれは“老百姓(ラオ・パイシン=庶民)”の習慣、かれも数年の下放時代で身についた、大勢のひとがいるときには、同じ動作をするのが中国人の“生活の智慧”だよ、とのたもうた。わたしは、中国人ではありませんよとばかり、九ちゃんの♪・・・態度でしめそうよ・・・♪としていたことになるのか・・・。

 この体験があたまの隅に凍りついたまま、数年が経った。
 あるとき、十数歳年長の大先輩のご指名で、大学の同窓会(咲耶会)支部の席で中国事情のお話しすることになった。わたしは中国語出身ではないが、縁があって対中投資諮詢の仕事で中国の各地を廻っていた。
 この日は、冷戦時代の企業疎開(第三線)で上海のミシン工場が秦の始皇帝陵近くの山裾に移転、西安地区で唯一の“上海語圏”が形成されていた~そのようなおはなしをさせていただいたように思う。
 ディナータイムの話題も“方言”がらみのお話も多かったようだが、大先輩は卒業後赴任された天津での体験から、方言習得も若ければねぇ~とのことであった。それよりもねぇ~、言葉よりも習慣、しぐさだよ。満蒙あたりで行方不明になった同学や後輩たちも、それで苦労したんじゃないかなぁと、おっしゃったのである。

 「言葉よりも習慣、しぐさだよ」
 ピンときたのは、いうでもない。
 顔を洗う、その日常的な動作でさえ、異なっていたのである。

 山なみの迫る渓谷のせせらぎで、ひげ面の男が両手で水を掬って顔をごしごしと洗っていた。対岸の林の合間からこの光景を見つめているふたりの便衣姿の男がいた。あれは・・・あれは、日本人だ!日本の間諜に違いない。
ふたりは見え隠れつつ、ひげ面の男のあとを追って行った・・・。


 盆が過ぎてもなお厳しい残暑のなか、箕面市間谷の大阪大学外国語学部内にある咲耶会事務局をたずねた。
 咲耶会は第一次世界大戦後の1922年に設立された大阪外国語学校(戦後は国立大阪外国語大学、そしていまは大阪大学外国語学部)の同窓会。
 その校歌はつぎのように歌う。
 ♪世界をこめし戦雲ようやく晴れて 東の空に暁けの明星ひとつ・・・♪

 事務局にある戦前(~1945)の同窓会名簿8冊(昭和七年~昭和十八年)には、発行年度は不定期ながら1期生からの消息(氏名、勤務先、現住所など)が記されている。
戦前最後の発行となる昭和18年度版で、昭和16年(第18期)の「支那語」「蒙古語」卒業生の動向を調べてみた。
昭和16年12月の繰上げ卒業となっている(同月8日には真珠湾攻撃)。
「支那語」卒業生は69名、「蒙古語」は16名、この卒業二年後の名簿を繰ると、早くも「支那語」35名、「蒙古語」12名が既に応召中で、その比率は合計で55%となる。「非応召」者でも、外地(「満州」「蒙古」「中華民国」「朝鮮・台湾」)居住者は「支那語」で19名(54%)、「蒙古語」は4名全員が外地在住である。
戦後の咲耶会同窓会名簿は昭和26年(1951)からはじまる。
昭和29年(1954)版で、前述の18期生の動向を調べてみた。
「中国語」部で消息不明者は18名(「蒙古語」部はわたしの調査漏れ)。消息不明者は即「行方不明者」(または物故者)とはいえず、2年後の1956年版で4名の方の消息(住所)記入を見つけたときはホッとした。この年「蒙古語」部はなぜか名簿記載が3名減少の上、さらに3名の方が消息不明となっている。
  最新版の同窓会名簿は、2013年の発行である。
  当該「中国語」部第18期卒業生の「住所不明者」13名のうち、それ以前に判明している方を除く6名の方は「居所不明」のままである。
  昭和18年当時、この6名のうち2人は日本在住で、3名は「満州」、そのうち2名は在満日系企業勤務、1名は在満行政機関からの現地応召、他の一名は「入隊中」とのみ記載されている。この6名の方が戦後も「消息」不明のまま、いまに至っているのである。これはあくまでも同窓会名簿のみによる「私的調査」であるが、戦後七十年のいま振り返ってみても実に大変な時代であった。

 「いつまでも謝り続けさせることはできない」とおっしゃるひとが、きょうも赤絨毯を闊歩されているのであろうが、「かおをあらって」出直して欲しいものである。

                         (2015年8月23日 記)

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1 コメント

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お待たせしました (ku-ma)
2015-09-30 22:18:43
はらだ 様

ご心配をおかけしました
今後ともよろしくお願いします
さて
今の中国の記事、お待ちいたしております
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