くにのかたち
仲間を募ってマレーシアに出かけたのは、もうひと昔ほど前になるか。
事務所近くのランチバイキング店で知り合ったマレーシアのひと(貿易観光事務所長)とのよもや話がきっかけであった。ずいぶん前にシンガポールからマレーシアへ半日足を踏み入れたことがあるというと、是非最近のマレーシアを見てくれ、とあいなった。
さて行くとなると、大阪の中小企業が主管しているというペナンの金型技術専門学校も見たい、クアラルンプール(KL)へはペナンからは森林鉄道に乗ってみたい、直行便はしんどいから香港トランジットにしたいと日程はどんどんとふくらむ。
上海の伊勢丹から連絡していただいて、同KL店も訪問した。
店内を案内してもらっているとき、写真で見たとおりのマハティール首相が現れて店長に声をかけ、子供連れの買い物客へも話しかける。遠くにSPらしき男性がひとり見えるが、まったくの丸腰。店長によると気さくによく店に来ていただいて、いろいろと気にかけていただいているとか。すでに首相の座について20年余になるが、日本のメディアが伝えるような独裁者?のイメージはない。
出発前にインプットしたこの国の豆知識では、人口の三分の二を占めるマレーシア人への優遇策(ブミプトラ)は、他の華人系やインド系の国民をふくめ問題がある由であったが、店長によるとそれよりも多民族、多宗教の国民の休日や行事がバラバラのため、従業員の勤務管理のほうが現場では大変とのこと。
郊外のM電機へと向かうタクシーの運転手は、チャイニーズであった。マンダリンと英語が少し話せる。彼によるとマレー人は怠け者、優遇策は間違っているともいう、みんな同じ国民じゃないか、働かぬもの食うべからずが彼の信条。キリスト教、ヒンズー教、回教、仏教、道教などなどのしきたりと習慣、風習のほうが煩わしいという。
一日 旅行社の案内でKL周辺の観光に出かけた。
緑ゆたかな清潔な街、という印象が強い。観光コースに王宮参観があった。
事前学習にもなかったこの王宮も緑のなかにあり、門の外から王族ファミリーのたたずまいや儀仗兵の整列などが見てとれた。まったく知らなかったが、この国はイギリスの植民地から独立のとき、「連邦立憲君主制」の国家をつくりあげたのであった。そしてこの君主は九人のスルタン(首長)による実質輪番制の、五年任期で務められている、という。任期が終わると君主は王宮を離れてスルタンに戻り、別のスルタンが君主となって王宮に入る。君主はマレーシア連邦の“象徴”であり、王宮はその行宮である。
中国の江蘇省常州市で「実験住宅」がはじめて設けられたと耳にして、専門家と連れ立って視察に赴いたのは87年ごろであったか。
「住宅」は本人・勤務先・常州市のそれぞれが三分の一の費用分担をして、親子二代限りの「借家権」(居住権)を取得、土地はあくまでも国(市)のものであった。帰途、隣の無錫に立ち寄ったとき同市の関係者は「私有が認められるのはテレビくらいまで、住宅なんてとんでもない」と言い放って、わたくしたちを驚かせたが、趙紫陽政権はいろんな「実験」を推し進めようとしていた。
89年6月、天安門広場で「来るのが遅かった」と学生たちに語りかける趙紫陽主席の後ろに、温家宝秘書(現総理)の姿があった。
事件のあと趙紫陽は解任され、翌年4月 李鵬総理が上海で「浦東開発」宣言をした。その目玉は、「国有土地の使用権有償譲渡」であった。これは上海の関係部局がそれまでに浦東の開発で上申していた案件にも含まれない、まったく画期的な、大胆な政策転換であった。この時点で改革開放は「実験」から脱却、新しい展開を見せることになる。
事件後、いくら日本を含めた西側諸国から経済制裁、経済封鎖をされたからといって、「実験」的改革、「ハエが入らぬように網戸で囲んだ」実験的経済開発区を十年間で四つしかつくれなかった中国が、いまでも禁句の「天安門事件」から一年も経たないうちに、なぜこのような「金のタマゴ」を産み出す経済政策の転換を図ることができたのであろうか。中国のシンクタンクである中国社会科学院などの研究員のほとんどが、89年の北京でのデモ参加は黙認され、事件後も“趙紫陽なき趙紫陽路線”を推進、92年春には保守派の“抵抗勢力”に対し小平が「南巡講話」の進軍ラッパを高らかに吹き鳴らす。
中国の、世界第二位の経済大国にいたるこの二十年の成長の原動力は、90年4月の「浦東開発宣言」にあった。歴史にイフはないが、「天安門事件」がなかったら、中国の経済政策のここまでの大胆な転換は無かったであろう。
中国が「文革」の総括にあたって、毛沢東の業績を「功績第一 誤り第二」と評価して体制の転換を図った。これにはいろんな見解もあるだろうが、日本も敗戦時、「人間天皇」宣言で占領軍による他力の体制転換が図られており、マレーシアにおいても植民地からの脱却には斬新的な制度の移行を選択している。
文革など政治闘争に明け暮れた中国では、その反省も含め90年以降、五カ年計画の先行設定からその実施を担当する政権が一期五年で二期、2ラウンドで計二十年続き、胡錦涛・温家宝現政権も、次を担うであろう習近平・李克強コンビも地方政治から実務を積み上げて執権能力を高めてきている。その政権与党ー中国共産党は八千万人強の党員を擁する(成人人口の10%)強力な組織であり、その中で切磋琢磨、選び抜かれた人材が地方から中央へ昇る。日本では中国の権力闘争的な思わせ報道のみが話題にされるが、その政策決定にはかなり激越な論争もあり、上意下達のみではない“党内民主”もある。「浦東開発」の政策決定に至るプロセスなどはまだ明らかにされていないが、上海からの「下意上達」を上回るプランニングがシンクタンクなどから提示され、それが政権中枢の判断材料になったことであろう。
遠藤誉『ネット大国中国―言論をめぐる攻防』(岩波新書)を読んでいて、4・5億人の「網民」の今後に期するものを感じた。
それに引き替えというわけでもないが、いくら明治の昔から日本の新聞(メデイア)の伝統であるとはいえ、政局報道に明け暮れるその姿勢にウンザリする昨今。「バカヤロー」解散までやったあの吉田総理ですら、最後はメディアと組んだ勢力に政界から追い出されてしまった。
先日 「次元が低すぎないか 地方から永田町を変えよう」と題するアメリカ人政治学者-ジェラルド・カーティス氏の提言を読んだ(神戸新聞6月22日朝刊「針路21」)。少し長くなるが以下その要旨を書き続ける。
「与党も野党も政界にいる人たちは一体何を考えているのか。日本人も、日本に関心を持っている外国人もそろってあきれている様子である・・・批判ばかりが多く、国民に顔を向けていない・・・それに日本の政治報道はあまりにも政局報道が多すぎる・・・要するに、日本のマスコミも永田町の論理にはめられている」そして、筆者は数回の被災地訪問と数人の被災地首長との会談でつぎのように確信する「危機はリーダーを生む。・・・(被災地の首長には)決断力があり、ビジョンも戦略もあるリーダーがたくさんいる」そして、こうも思うのである「日本の社会がしっかりしているからこそ、政治家たちが緊張感もなく権力闘争に集中している。政治家たちは国民に許されると思って日本社会に甘えている。しかし、地方から、市民社会から日本を変える力が出てきていると思う。遠くない将来にその力が永田町の論理を変えると確信している」
少し時間が経っているが、5月6日につぎのようなアンケートの結果が出ていた(「ダイヤモンドオンライン」)。
設問の前提は、このようになっていた。
「この国の政治はなぜかくも劣化したのか。『選良』たちの厚顔無恥と議院内閣制の制度疲労」、そして、以下のような設問が提示された。
<日本でも国民が首相を選べる公選制を導入すべきだと思いますか>
このアンケートの実施対象者は、おそらくこのネットの読者のみであろうが、
・そう思う 58.6% ・制度の内容による 30・6% ・思わない 9・5%
・わからない 1.3% の結果が出ていた。
このくにのかたちを変えるのは、主権在民、わたしたちである。
(2011年7月11日 記)