夏がくれば・・・
♪夏がくれば・・・と口ずさめば、♪はるかな尾瀬/遠い空、とつづくが、6月の曇り空を眺めていると、思い出すのは、やはり、あの日のあのこと、である。
あのとき、わたしは広東省の三つの経済特区(深圳・珠海・汕頭)視察の旅から帰国したばかりであった。福建省のアモイをふくめ、対外開放された四つの経済特区ではあったが、なんとか形が整って動きはじめていたのは深圳のみ、その数年後から輸出型加工基地として発展する東莞なども、関係者から青写真を見ながらお話を聞くだけであった。
6月4日のあの日、事務所には大勢の中国からの留学生が詰めかけ、テレビに映し出される北京の映像を食い入るように見つめていた。あのころはまだパソコンや携帯電話は普及しておらず、事務所のファックスで新聞の切抜きなどをふるさとの家族や友人に送っていた。
いまでも気になるのだが、戦車に向かってひとりで歩み寄る青年がいた。手に何か持っていたようでもあったが、そのあとの映像はない。かれはだれか、その後、どうなったのか・・・。
中国からの引揚げ者で、大学の受験外国語に中国語を選択した女性がいた。
わたしより数歳の年長者で、八十年代のなかばから旅行社の嘱託となり、経済視察や友好都市交流の訪中団の通訳・ガイドとして活躍された。団のエライひとにも遠慮せずにずけずけとモノを言い、却ってそれが気にいられて、あちらこちらの訪中団からお声がかかっていたようである。
ある会合で、同じような引揚者から中国の解放軍の紀律を褒め称えるはなしがあったとき、彼女は立ち上がって異議を申し立てた。スローガンは工場などの「整理、整頓」とおなじで、出来ていないから掲げるもの。毛沢東が解放軍兵士の「三大紀律」としてあげた<民衆のものは針一本、糸一筋もとらない>と訓示したのは、実際はそうではないから、のことでしょう・・・と。
彼女は愛飲家で、毒舌家でもあったが、乱れることはなかった。
十六歳の女学生のとき敗戦、「満州」で八路軍の後方衛生部隊に徴用されたとき、面接と称して身包みはがされ、素っ裸にされた苦い思い出がある。
それから数年「国共内戦」で各地を転戦、解放軍とともに過ごしてきた体験の持ち主。中途半端なお世辞や、知ったかぶりの話には、すぐノー(プトイ)とからだが反応したのである。
もう十余年前になるか、知人の告別式で寝屋川の外れまで出かけたとき、久しぶりに彼女に出会った。わたしも彼女ももう中国との仕事はリタイアしていて、久しぶりの出会いであった。帰路JR東西線で川西池田駅まで一時間ほど延々と四方山話に花が咲き、それでも別れを惜しんで駅前の喫茶店で話し込んだ。
そのひとつが、この「6・4」のときの青年の話。
あのとき、ゴルバチョフの北京訪問で世界中のメディアが集結していた。
胡耀邦の不慮の死去で、中国の学生運動に火がつき、天安門広場に掲げられた“自由の女神”像を目指して中国全土から学生が北京に集まってきていた。小平は事態の沈静化のため、北京に戒厳令を布告、北京軍区の解放軍に出動命令を出したが、北京軍区の将兵は人民には銃は向けられないと出動を拒否、瀋陽軍区から出動した連隊が北京に着くという直前、一定の成果を挙げたと撤退を主張する北京の学生とそれに反対する東北の学生とで話し合いがつかず・・・そして、「事件」がおこった。
わたしは、川西の喫茶店で、年来の疑問、ひとりで戦車に向かった青年のことを、「お姉さん」に聞いてみた。
彼女は複数の中国人から、旅先のあちらこちらで聞いた話だがと前置きして、つぎのようなことを話しはじめた。
当時中国の指導部は、割れていた。
実権を握っていたのは小平ではあったが、改革開放の実務を任せた胡耀邦は保守派の圧力で失脚、後任の趙紫陽もいま学生の前にひざまずいている。
戒厳令を出したが、北京軍区の出動拒否に手を打てない小平に保守派の長老(たち)は“匕首”を突きつけた。「反革命」をおこさせて、それを合図に「軍」が学生の「鎮圧」に向かう。どうだ、小平、ここが決断のときだ、ならずものなら、北京にごろごろいる、地方からの出稼ぎにカネをやって一暴れさせたらいい・・・と。
「お姉さん」も、このはなしもどこまでがホントかわからないと話していたが、「事件」の翌年、李鵬に「浦東開発宣言」をさせても、動いたのは上海の一部のみ。中央は保守派が結束し、小平は身動きが取れなくなっていた。92年春の「南巡講話」は、北京のこのときのもつれがあったのでは・・・と。
それから二~三年は「お姉さん」から年賀状をいただいたが、いまは“千の風になって”日中の空を飛びかっておられることであろう。
「6・4」も時間とともにその風化は避けられないが、日本の「60年アンポ」が高度成長のきっかけになったのとは次元も規模も異なる。世界史的にみてもこの事件がきっかけとなって、ソ連邦と東欧社会主義圏は崩壊、ベルリンの壁は打ち砕かれ、東西ドイツの統一がひとつのきっかけになってEU(欧州連合)の結成につらなる。
中国経済の成長の基点にもなったこの「6・4」を、中国も歴史的に見つめなおす日が一日も早く到来することを期待したいものである。
いま、中国語・日本語・英語とバイリンガルで詩を書く、田原(テイエン・ユエン)という詩人がいる。かれは「亡命者」という詩を発表しているが、91年、公費留学で来日した65年中国河北省生まれの中国人、いわゆる亡命者ではない。思潮社の現代詩文庫205「田原 詩集」の扉には、つぎのような紹介がある。
2つの国の間に宿命を定めた精鋭中国人詩人の日本語詩集を集成。
H氏賞受賞『石の記憶』ほか、日本と中国を詩のことばで結ぶ、新しい時代への懸け橋。
かれの詩「亡命者」の一部を紹介しよう。
祖国の風は
あなたの心の中のともしびを吹き消したのか
それとも異郷の太陽は
あなたが遠出することを誘惑したのか(中略)
網膜にうつされた風景は支離滅裂
祖国は依然として彼の夢に見た古里
郷愁は埠頭から始まり
母語は死ぬまで続く(了)
(2015年6月4日 記)