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日中首脳会談のとき、高倉健は死の床にあった。
その死亡が公表された11月18日、中国の報道官は、30歳以上の中国人でかれを知らない人はないと、日本の高名な俳優・高倉健の死を伝えてかれの功績を称え、名残を惜しんだ。
日本と中国が国交を正常化したのは、文革のさなかの72年であった。
そのころ習近平現主席もまだ農村に下放中であったはずだ。
文革が終わったのは76年9月の毛主席死亡のあと、10月に四人組が逮捕されたのちのことである。
その後、華国鋒政権から小平主導の改革開放路線へとギアチェンジして、毛沢東は功績第一、誤り第二と総括され、あたらしい時代を迎える。
80年代のおわり近くまで中国の政治を前面で主導していたのは胡耀邦総書記であった。中曽根総理と胸襟を開き、三千人の日本の青年・学生の訪中を(独断で)とりきめ、山崎豊子の「大地の子」執筆取材調査に便宜を図り、文革後の中国政治の全般をとりしきった(かれは89年のあのとき、憤死した)。
当時でも、いまでも、中国人にとって一番有名な日本人は高倉健であり、山口百恵である(中野良子は中国で日本より名が売れている)。
ジャ・ジャンクー監督の映画「四川のうた」(中国名:二十四城記)は改革開放のなかで展開される国営企業解体のストーリーで、山口百恵のテレビドラマ「赤い疑惑」の主題歌がとりあげられている。
ジャ監督はプレスミーティングでつぎのように語っている。
「中国で80年代を生きてきた人にとっては、山口百恵さんは共通言語です。
これまで中国の社会は、集団でどうやって生きていくかという、あまり個人が大切にされない時代で、禁欲的な社会でした。・・・そのようななかで彼女が主演した『赤い疑惑』というテレビドラマを観て、中国の大衆は、個人的なラブストーリーをこうやって語っていいのだな、とわかりました。・・・」
中国人の就学生が東京の彼女の自宅周辺をうろついて、お巡りさんから尋問を受けるということもあった。
高倉健の『君よ憤怒の河を渉れ』(中国名『追捕』)が中国で上映されたのは
1978年のこと。まだほとんどの人が人民服姿であったが、若い女子工員の服の袖からちらほらとカラーのものが見えはじめたころでもある。『追捕』のチケット代は給料の半月分ほどもしたが、それでもどの映画館もあふれんばかりの大ヒットとなり、全中国で半数以上の人が観たといわれている。
中国の国民的スターになった高倉健の作品は、その後中国で『新幹線大爆破』『幸福の黄色いハンカチ』『遥かなる山の呼び声』『海峡』『居酒屋兆治』が公開された。このなかでわたしが観ているのは「黄色いハンカチ」と「居酒屋」の二本だけである(『追捕』はいまユーチューブで見た)。
中国で上映される外国映画はすべて吹き替えで、字幕ではない。
かっこいい、中国語をしゃべる高倉健に、中国の若い女性はこころ痺れる思いがしたことであろう。
この吹き替えについて、後年その指導に当たられた‐文字どおりの老朋友からその裏話をお聞きしたことがある。
「居酒屋」であったろうか、「ごめん」ということばを若い翻訳者が「対不起(トイプチ)」と訳した。たしかに三字、口の動きはあっている。しかし、場面はどうか、外から内へ居られますかと伺っているシーン、ここは「在家嗎(ザイチャーマ)」としてはどうか・・・と。なるほど、これは字幕の翻訳より大変な作業とおもったが、これで中国の観客がすぅーと映画の世界に入り込めるのかと感心したものである。
いまは世界の映画界でその名を知られた大演出家のチャン・イモウは西安の映画館でこの『追捕』を食い入るように観ていた。高倉健とそのストーリーの展開、そしてそれをつくりだした日本とその映画界。まだ『黄色い大地』のカメラも撮っていない青年の張芸謀であったが、かれの瞼に高倉健が焼付いていたーそして、いつか高倉健を主人公とする映画を自分の手で作り上げたいという思いがこみあげていたのであった。
それから20余年の年月が流れ、日中合作映画『単騎、千里を走る』(中国名『千里走単騎』)のカメラが日本(東京)と中国(雲南省麗江市)を舞台に廻りはじめた。
日本語で「千里を走る」といえば、ついついその前に「悪事」をつけた常用語がひらめくが、この「千里走単騎」は「三国志」に由来する京劇の演目であるとか。この映画では高倉健がひとり中国の僻地に向かうことからはじまる。
その出発点となる雲南省の麗江は風光明媚の土地で、わたしも90年代はじめからいろんなグループと三度現地を訪れた。
はじめは雲南省の省都昆明市にあるニエアル(中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲家)の墓地や遺跡などを訪ねたあとのオプションツアー。聶耳は1930年代に上海の映画界で活躍、日本経由でソ連へ向かう途次、神奈川県藤沢市の湘南海岸で遊泳中死亡した、享年24歳。その視察のあと、麗江へ飛んだ小型機はかなり離れた郊外に着陸したが、そこから市内までの悪路に閉口した記憶がある。
二回目は友人たちを誘って、麗江経由大理のたびを企画した。
ナシ族のガイドの案内するトンパ文字の世界にすっかりはまりこんだ。
三度目は世界遺産に認定されたあと。観光客が世界各地から押し寄せていた。玉龍雪山の最高峰は未踏の処女地とか耳にしたが、その五千メートル近くまでクルマとロープウエイを乗り継いで上がれるようになっていた。タイなどからも国際線が通じ、大勢の若者たちが押し寄せてきていた。雪が珍しいかれらはロープウエイを降りるなり雪合戦に興じ、高山病で倒れていく。わたしは酸素ボンベを握りしめ、あのラッパ旗手のように、(死んでも)離さず、であった。
ついつい、高倉健から離れてしまった。
映画は麗江からまだ奥地へ、奥地へと入っていく。
チャン・イモウはできるだけ多く現地の人を登用したため、北京からの撮影隊はもちろん、通訳が足らずに監督やスタッフも立ち往生が続いたらしい。
わたしはこの映画は日本で見たので字幕であったが、なるほど、日本での撮影部分を除くシーンは現地の言葉が氾濫していた。中国でこの映画はあまりヒットしなかったようだが、どうなんだろう~吹き替えも、字幕もなかったとしたら、中国の観客でもお手上げになったのではないだろうか。
高倉健の遺作になった「あなたへ」は、二年前の作品である。
わたしが観たミニシネマは、中年の女性で大入り満員であった。
かれは、中国でも日本でも、女性の心を捉えて離さない。
この映画の副産物として、兵庫県朝来市の竹田城が天空の城-日本のマチュピチュともてはやされ、城壁の一部が崩れ落ち、入場制限の措置がとられる始末。いまはオフシーズンだが、来春にはまた高倉健を偲ぶ登山者が押しかけることであろう。
あなたへ、お伝えしたいことがある。
高倉健の亡くなる一月ほど前の10月15日、習近平総書記は作家協会をはじめとする映画、演劇、音楽、美術、書道など10団体72名の著名人を集めて「文芸工作座談会」を開催、重要講話を述べたと伝えられている。日本ではほとんど報じられていないようだが、毛沢東が延安で述べた「文芸講話」の再来である。いまは八千万人の中国共産党員の学習会、学習指導の主要テーマとなっているらしい。
高倉健の死を惜しみ、嘆き、彼の功績を称える中国。
日本でなら言論の自由の抑制、思想統制と騒がれるであろうこの「新文芸講話」の発表。
そのどちらもが中国、そのうらとおもて、内と外、タテマエとホンネ。
日中首脳会談で二年ぶりに両国政府間の交流の扉は開きはじめたが、領海に張りつめた氷を溶かすのはだれか。それはひとりとひとりの民間交流からはじまる。
あなたとわたし、大家 新年 好!
(2014年12月14日 記)