くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

9月の茶会

2013-09-13 12:33:12 | 四季おりおり
8月は日本民家集落博物館の茶室は公開見学のみ

9月に入って、例月通り第1土曜日と第3土曜日が『茶会』
大塩平八郎も立ち寄ったと由来のある守口の茶室で来館者に
茶室見学をしていただきながら、茶会を催している

9月最初の茶会は、



軸  日々是好日  泰道和尚筆

花  ススキ 金水引草 水引草 ムクゲ 風知草 釣鐘ニンジン 菊花 

花入れ  有馬籠

こんなお客様も





北川さんファミリー
マリアンヌちゃん  ロシア人の色白美人の奥様
お茶のお好きなご主人様

ご自分でお点前もしされ、楽しまれたかしら・・・・・

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾五

2013-09-10 15:10:45 | はらだおさむ氏コーナー
鬼  城

このところ“会うが今生(こんじょう)のわかれ”とか称して、数人の学友たちとの年二回の一泊旅行が続いている。
 今年の春は、岡山の総社(そうじゃ)に一泊し、鬼ノ城(きのじょう)に足を延ばした。かなり険阻な山頂に遺跡が発掘され、古代山城と認識されたのはまだ40年ほど前、国の史跡指定は1986年とのことである。
山頂の古跡に設けられた砦ふうの展望台から、古代吉備国の中枢地・総社平野が望め、その先に四国の山容がかいま見れる。
“桃太郎伝説”は人口に膾炙して、その本家あらそいはかまびすしいが、当地ではその“黍団子”は「吉備」ダンゴに通じるとその“歴史”をつむぐ。
ひとつは古代大和政権と吉備国との対立、もうひとつは白村江の戦いに敗れた「倭国」を攻める「異国の王子・温羅(うら)」の伝説。後者では吉備国に舞い降りた「温羅」の悪行退治のため朝廷から派遣された「吉備津彦命」が“鬼退治”に成功するおはなしであるが、それを裏付ける史料は乏しい。江戸の草双紙『桃太郎』『桃太郎昔話』で広まったものといわれているが、その端緒は室町時代にも遡るとのこと。

中国にも「鬼城」が出現してきているが、ご存知だろうか。
改革開放後の“産物”で、わたしの「岩波・中日辞典」(1983年版)には載っていないが、中国のいまの世相を象徴している。「グイ・チョン」は“鬼”(幽霊)の住む屋敷、つまり“ゴーストタウン”のこと、90年に土地使用権の有償譲渡が認められてからの“新生事物”(このことばもいまでは“死語”であろうが)である。
いまの“80后”たちが生まれたころ、上海など都市の住宅は極度に払底し、愛し・愛されて結婚した彼らの両親に“愛の巣”はなく、たまの休日には祖父母が公園などで日永時間をつぶして、孫の誕生をサポートしていたものである。
南市区の石庫門住宅街などでは、一戸に2~3家族が同居、その居住性を改善するため大阪から専門家を派遣、共同考察なども実施した。
85年9月には大阪の専門家(建築士、不動産鑑定士、弁護士)の「上海経済区房産視察団」を常州・無錫・上海に派遣、趙紫陽改革の実験住宅などを視察したことがある。
 常州の“実験住宅”は建築コストを市・企業・個人が各三分の一負担するという新しい住宅政策の“実験”であった。使用権、相続権(親子二世代)は認められるが、転売は認められない、いわば実質家賃の先払いといえた(『上海経済交流』第3号)。居住者の満足気な応対に、わたしたちもこころ和んだが、無錫の関係者は「住宅の私有化は社会主義でない」と否定、上海から同行の通訳も「私有が認められるのはテレビまで」と言い放った。

 90年4月の「浦東開発宣言」で国有地使用権の有償譲渡が認められ、当初は外資導入策として活用された。上海の行政組織「房地産(家屋・土地)管理局」はふたつに分離され、朱鎔基市長(当時)の呼びかけで「住宅基金」の積み立て(企業と本人が各50%)がはじまった。やがて国営企業改革の推進で、社宅の分譲がはじまり、住宅の私有化が進む。才気ある人はこの転売、買収などでふところを豊かにし、新しいマンションなどの建築需要を産み出す。老朽市街区の再開発をめぐっていくつかの汚職・疑獄も発生するが、庶民側から見たこの時期の住宅トラブルは、映画『上海家族』が赤裸々に描きつくす。

 90年代の終わりごろであったろうか、まちづくりプランナーの知友から相談を受けた。上海の某大学の知人から中国での共同事業の提案を受けているが、
どう対処したらいいかと。わたしは合作経営方式での処理をアドバイスした。
第一号のプロジェクトは、上海の浦東地区であったと記憶する。かれのプランしたスケッチのいくつかは大阪で他の同業者たちと拝見したが、中国のこれまでのまちづくりに見られない雅趣があった。プランだけで完売された、なんでも温州閥のグループ購入であったとか耳にする。日本ではこのような70年間の借地権付償却資産に過大投資するひとは多くはないと思うのだが・・・。
 後日かれにその後の状況を聞いたところ、入居者は少ないという。
 かれの、この花園住宅の設計コンセプトは、園内に流れる小川のほとりで孫の手を引いた老婆がたたずむ、ということにあったが、“鬼”の住む館になってしまっていた。“ゴーストタウン”のはじまりである。
 かれは、その後もパートナーの要望で、成都、青島、大連・・・のまちづくりに参画するが、プランナーとしての充実感を味わえないと口ずさむ。

 数年前、上海で中年のドライバーのタクシーに乗った。
 かれの郊外の住宅はまだローンが残っており、息子の結婚をサポートしてやれない(中国では花婿が住宅を用意する)と嘆いていた。いまどきの上海では、住宅のない青年は女性から見向きもされないというが、70年代の日本で一世を風靡したとも言える「かぐや姫」のあのうた、♪三畳一間の小さな下宿♪(「神田川」)から新生活を営むカップルはもう中国にもいないのであろうか・・・。

 話は変わるが、昨今の日中関係で日本からの訪中団は激減、知り合いの中国の旅行社の日本部長はいまカナダ旅行も兼任、結構忙しいと耳にした。
 それで思い出したことがある。
 香港のAさんのことである。
 カラフト生まれ、上海育ちのかれは、上海解放のとき香港に脱出、小さなみやげ物商を営む。わたしは初訪中時の64年から、日中間の直接往来が定着するまでの間、毎年なんどかの中国との出入時にかれのお世話になった。
 香港の中国返還が話題になりかけたころ、香港の商人たちのカナダへの脱出が話題になった。Aさん夫妻も大金をはたいてカナダ国籍を取得した。すでに長女は在米華僑と結婚、次女はシンガポール大学、長男はジュネーブの高校に留学中であった。かれはわたしに、世界各地に同胞あり、これが中国人の処世術と語って、香港からカナダへ移住した。
 その数年後、かれと大阪で再会した。
 カナダでは商売にならないので香港に戻っている、家と国籍はカナダにあるが商売は香港、また立ち寄ってください、とのことであった。

 朝日新聞デジタルには、つぎのようなレポートが載っている。
 「カナダは、移民を目指す中国人にとって『天国』と称される。80万カナダドル(約6千4百万日本円)の投資などをすれば移民できたためだ。・・・07年ごろからは中国からの移民が急増した。いまや(バンクーバー)人口の2割にあたる40万人の華人が暮らす。
 バンクーバーで不動産業を営んで20年以上になるという華人の男性は言った。『党や政府の幹部の多くは、まず妻と子供を移民させる』なぜか『幹部だからこそ分かっている。彼らにとって中国は、安全ではないということを』」
            (『紅の党』(2)「赤い貴族」たちの権力と蓄財)

 90年の前後、「北京愛国、上海出国、広州売国」のザレことばをよく耳にしたものだが、いまではすっかり様変わりしているかのようである。

 在阪の中国人の友人は、こうもいう。
 いま罪を問われている人物のようなクラスで、汚職をやっていない人はいないと“老百姓(庶民)”たちは思っている。人気取りであったかもしれないが、低所得者向きの住宅をたくさん提供したことは、庶民のこころをつかんだ。“夢”よりも“実績”だよ、と手厳しい。

  
 先日一週間ばかり入院したときのこと、可愛い看護士から「吸血鬼が採血に来ました」告げられた。こんな“鬼”ばかりだといいんだがなぁ・・・。

                 (2013年8月24日 記)

 

9月になった

2013-09-08 10:57:36 | 四季おりおり
夏の猛暑と行事とであっという間に9月を迎えてしまった
6月13日に突然妹の「蜘蛛真下出血」の惨事があり我々姉妹は、命にかかわる
ただ事でないと、うろたえてしまった

おかげさまで、妹は手術後も順調に回復し、今はリハビリ病院での
生活で、電話もかけられる、体重も20キロ減(元の体重が60キロを超えていた)
料理も考え考えできる状態
日常に自分の行動には、支障がない様子

電話での話ぶりも、以前と変わらない
すこし、受け答えの間があるが、支障はない。

ただ
足し算の計算の答えが・・・・・掛け算の答え

これは、まだ改良されていない

今週末は、2日ほど自宅に帰り家族に行動観察をしてもらい、その結果を
リハビリ病院で修正するという現状
今まで13号の服が9号になり、携帯電話をスマホーに買い替え
ベッドを買って・・・・・と急に身辺があわただしくなったと悲鳴を上げながら
うれしそう!!

なにはともあれ、ひとまずはほっとしている。

政 策 と 対 策

2013-09-03 21:18:23 | はらだおさむ氏コーナー
  “上に政策があれば、下に対策がある”、これは中国を語る有名なことばであるが、昨年の“島”問題で「国交正常化四十周年」記念行事がすべて吹っ飛んだとき、中国側の窓口は“異口同音”に「上からの指示による」と語った。それは単なる記念行事に留まらず、“民間交流”のなかで生み、育ててきていた、たとえば「上海国際マラソン」のような定着していたイベントでさえ、“警備上、不測の事態を避けるため”と中止になった。そこにはこの行事を開催してきた“歴史”を守ろうとする姿勢、“対策”はまったく垣間見られなかった。このことは、豊中市で開催準備中であった「魯迅と友人展」に対しても同様であった。上からの“命令”にただひたすら従う“役人”の姿勢しか感じられなかった。個々の当事者を責めるのではない。この四十年で中国が変わってしまったのである。
  日中友好協会設立五十周年記念行事が北京で開催されたとき、わたしは盧溝橋の「抗日戦争記念館」で見たくない光景に遭遇した。大勢の小学生が「愛国教育」のため訪れていたが、まるでピクニックに来ているかのよう、「731部隊」の「生体実験」のパノラマ展示の前でおどけ、騒ぎまくっていた。わたしは随行の関係者に苦言を呈したが、数年後の全面改装時にはこれが撤去されて、A級戦犯の紹介に変わっていたという。むかしの中国では「軍国主義者は日中両国人民の共同の敵であり、99%の日本人民は戦争の犠牲者」ということがよくいわれていた。「敵」と「味方」を峻別して、物事に対処してきていた。いまはどうであろうか、“坊主憎けりゃ・・・”になってはいまいか。
  “島”が「核心」なのか、08年の「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」が基本なのか、よく考えてみたいものである。

  『大阪 与 中国』230号(2013年9月1日掲載)