くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

<あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [2]

2014-01-30 09:17:14 | はらだおさむ氏コーナー
拝啓 上海市長 殿


 着任早々、中国総領事館から一通の手紙が転送されてきた。

封筒の表書きには住所もなく、「上海市長殿」とあるだけ、日付を見るとすでに半年以上経っている。

総領事館の添書には、この手紙は住所未記載のまま上海市人民政府に無事届き、各部署を転々と旅したのち、外事辨公室から大阪総領事館で対処してほしい、との依頼があったのでよろしくとある。

これが85年の1月に、上海における日系製造業の合弁第1号契約調印となる、茨の道へのきっかけとなるのであった。

 差出人の住所を頼りに電話番号を調べ、いきさつを話してアポをとる。

阪急京都線淡路駅下車東数分のAレース、専務の話では前年に大阪で開催された現G-BOC商談会の記事を見て、社長が「拝啓 上海市長殿」と一筆したためたとのこと。

応接間には美智子妃殿下(現皇后)が展示会で同社製品を手に取っておられる写真が架かっている。

これは?と尋ねると、ご成婚の際、同社のレースのイブニングドレスが献上されたこともあってのお立ち寄りとか。

線路沿いに三棟の工場があり、スイス製の長さ13メートルの大きな自動レース編み機が10余台据付けられているが、稼動しているのは1台のみで、従業員も数名しかいない。盛業時には、地方から集めた“金の卵”の中卒女工のため、個室の宿舎にプールもある箕面工場も建てたが、そこもいまは開店休業、機械のメンテ要員を残しているだけという。

 「シャンハイをミラノに負けんくらいの、レースの産地にでけへんかと、あの記事を見て思いましてなぁ、ところもわからへんやったけど『上海市長』で届くやろと思いまして出しましたんや」と二代目の社長。

機械は自動だが紡績のように手先の器用な女工さんが要る、日本ではもうわらじを履いて集めて、お姫様が住むような御殿を作って定時制高校に通わせても、長続きしない、労働集約型の斜陽産業。しかし、機械設備はある、技術は残っている、デザインなどの型紙はそのまま使える。

「おカネはおまへんけどな、中国さんではこれはえぇ商売になりまっせ。どうでっしゃろなぁ、機械の現物出資、技術指導でということで、あちらさんは受けてくれはりまへんやろか」

 わかりにくい言葉遣いではあったが、興味がもてるプロポーザル、上海が待ち望んでいる投資案件になるかどうか。

帰路、これまで輸入商談の相手をしていた工芸品公司のレース担当者の顔が浮かぶが、これは投資案件。

「友好都市間の経済交流促進」の相手になった、上海市人民政府外事辨公室の関係部門―上海市人民対外友好協会に、なにはともあれ、「拝啓・・・・」と手紙を出したのであった。      (2004年5月23日 記)


はらだおさむの体感的日中経済交流史1983-2003

2014-01-29 15:43:38 | はらだおさむ氏コーナー
<あのとき・あのころ 第二部>

第二部のはじめに

 昨年11月14日に第一部を書き終えてから5ヶ月がたった。

あのときは退院してからまだ4日目。下垂体卒中で緊急入院、切除された腫瘍が視神経を圧迫して、左眼まぶたは自力で開かず瞳孔も左右動転不全のため、右の目をたよりに、いまは死語になっている“ブラインドタッチ”で書いた。

機関誌「上海経済交流」1月号の原稿「ユメは『中国』をかけめぐる~シュールなヴィジョンのドキュメント」を書き上げたのは12月1日であったが、状況は退院時と変わらなかった。

第一部のあとがきで第二部は3月ごろからと予告していたが、そのときの心境は芭蕉のように“枯野”をかけめぐっていた。

 あれから5ヶ月が経った。

外観上は入院前より健康そうで、血液検査でも“いうことなし”(主治医談)と回復しているが、なにしろ2年で二度の大病を患い、4ヶ月の入院生活を過ごした体力は従前とは比べるべくもなく、これからは「語り部」に専念したい思いである。

といっても、20年間の<経済交流>のうごきをどのように語るのか、まだ構想もなにもないが、毎月二篇のエピソードを二年くらいの予定で書けたら、と考えている。

第一部同様の身辺雑記、ご笑覧いただければ幸いである。  (2004年3月)

「野口家文書」のこと

2014-01-20 08:16:44 | はらだおさむ氏コーナー

 「野口家文書」は、原田村(現豊中市原田元町二~三丁目)四株(梨井・中倉・南丁・角)の、梨井入組(相給)旗本鈴木領三百石の庄屋・野口家に伝来する、近世以降の文書である。野口家はまた、摂州八部郡西尻池村(現神戸市長田区)の鈴木領四百石余の大庄屋でもあった①。
 現在豊中市立岡町図書館に寄託されている同文書は、慶長五年(一六〇〇)以降の一八四四点。「近世初期から原田村にかかわり、野口家にかかわる出入りや紛争などの嘆願書や御用状類が多く、近世を通じての原田村の村政・経済・文化などの動向をよく知ることができる」(同目録まえがき)ものである。
 原田村に関する文書には他に「中倉村文書」(岡町図書館蔵)があるが、これは近世中期以降、とくに一橋家領時代のものが多く、忍藩領時代の原田村を入会の側面から眺めるにはこの「野口家文書」は格好の史料であるといえよう。

 まず原田村の全貌を見てみよう。
 原田村の九三七石余(全村の62%)が忍藩阿部豊後守の所領になったのは、元禄七年。下図②はそれから七年後の元禄十四年、原田村の領主役高を幕府代官長谷川六兵衛に提出した、その確認書である。




 これを株別に見ると、つぎのようになる(『旧高旧領帳』より作成)。



                 
原田村は総高千五百石をこえる大きな村で、所領別では忍藩領がダントツであるが、株別に見ると梨井が三領主の入組とはいえ総石高の半分以上を占める。野口家が庄屋を務める旗本鈴木領は三百石であるが、これも庄屋別では原田村のトップであり、同家はまた西尻池村の鈴木領四百石余の大庄屋も兼ねていて、後年には苗字(元から野口姓)帯刀御免の代官も務める名門である。
享保十五(一七三〇)から十六年にかけて、中倉の庄屋・永田兵太が筆写した野口玄好翁の日誌がある。『新修豊中市史 古文書・古記録』(以下「古文書・古記録」と称す)の同解説(P三四五)によると、「先祖は原田郷の土豪ないし在地小領主で原田城に居住した原田備中守直正の養子、野口満五郎冬永である。冬永は三好一族・淡州野口氏の系譜を引き、原田北城に居住した。後に元禄年間に野口姓に復している」とある。
関東在住の旗本鈴木家の総拝領高は千二百石③。梨井の領主変遷は、寛永から正保(一六二四~四八)にかけては阿部備中守、その後幕領となり、「御代官所ヨリ三百石切出しニて、御拝領かとも被奉存候」と鈴木領(相給)になった由だが、その年次は不明。関東の知行から西尻池村への所替えは寛文元年(一六六一)となっている(「古文書・古記録」P三三〇)。しかし「鈴木氏摂津知行所由来書」(同P三二八~三二九)によると「一 高三百石 同国豊嶋郡原田村之内梨井 寛文元丑年私親鈴木長左衛門御加増ニ致拝領、延宝四辰年私家督相続仕候」となっており、梨井も西尻池も「寛文元年」に鈴木知行所になったと当主・鈴木兵九郎はその由来を述べている。

別図は原田村の古絵図(元禄十二年)である④。
右上(北東)の森は、原田北城跡、中央の大きな家は一向宗誓願寺の添書きが見える(その南に原田南城があった)。左上(西北)から南へ蛇行して東へまわる水路は原田井(ゆ)で、この水路の東に民家が目測で凡そ百数十軒ほどある。
「北城のあたりを梨井町と唱エ、両城之間ニ有之を中倉町と申、(南)城の南を南町(みなんちょ)、巽角ニ御座候を角(すみ)町と呼候」との由だが、別に境界があるわけではない。まるで「碁盤上之如く内交ニ御座候」と入り乱れて散在していた、と伝えられている(『豊中市史資料集 3 村明細帳[上]』=以下略、「文政七年 原田村明細帳」)。



梨井の旗本鈴木領三百石は面積にして約二六町(=ヘクタール)、田・畑の石高比は八六対二四、面積比は七十対三十で田のほうが収益性が高い。本免毛付(年貢対象)は石高の九一パーセント、面積の八六パーセントであった(「天保十四年 
原田梨井村明細帳」)。貞享二年(一六八五)の「免状」では、田五ツ六分、畠一ツであった⑤。
元禄十七年(一七〇四)の名寄帳⑥によると、二九戸のうち十石以上の家は約三分の一の十戸、庄屋(野口)藤右衛門宅は約二十パーセントの持分であった。
梨井の戸数などの変化・推移をまとめたのが以下の表である。
名寄帳、宗門改帳、五人組帳、村明細帳など性質の違う史料から取り出したのでやや統一性に欠けるきらいもあるが、百数十年にわたる梨井旗本鈴木領の戸数などの推移を見てみたい。





 宗門改帳で庄屋と年寄の家族構成を覗いてみよう。
 貞享三年の庄屋藤右衛門は当年五七才、本宅には女房四八才と長男二三才、嫁二十才、孫二才の家族のほか下男四名、下女二名がいる。年寄七兵衛は当年五三才、女房三九才に八二才の親と二二才の長男を含め四名の息子、二三才の長女を頭に四名の娘の大世帯、ほかに二人の下男と下女一人がいる⑧。このころは相対的に大家族であったとみえる。
 約百年後の寛政二年の場合、庄屋藤右衛門はまだ三三才の青年、女房は三才年下で子供は六才の長男のみ。五一才の母と下男ひとり下女二人を抱えている。
年寄は八右衛門となっている、四七才。女房は十才年下で、十才の息子と七才の娘の四人家族⑨。この時期から全体の人口もなぜか半減してきている。
 元文五年(一七四〇)の大洪水は、それから百余年後の村明細帳(「天保二年」、「天保十四年」)にもふれられているように、復旧作業に砂石を田畑の下に入れたので以後「から地ニ相成り」、「実入り薄く、凶作勝ニテ嘆ヶ敷奉存候」との被害をもたらした。寛政二年以降の人口減には、こうした事情が繋がっているのかもしれない。

 これまでもふれてきたように、梨井は鈴木・船越・忍藩の入会・相給の地であった。
 享和三年(一八〇三)の野口(マヽ)八右衛門から江戸の用人宛の手紙に、つぎのような入り組み具合が述べられている(以下の引用資料は『豊中市史・資料編第三巻』、文中のカッコ書きは筆者による)。

 「二月 船越様知行所ニ而、家壱軒出火、阿部様御領下類焼壱軒(隣近所か)、
四月 私(野口)所持之林(=阿部様小物成所)ニ而、首縊変死、六月 船越
様御知行所水掻池ニ而溺死、・・・入組互ニ右躰変成事者、融通仕合候」⑩
 領主は異なるが同じ共同体で生を営むものたちである。祭りでは神輿を共に担ぎ、災害時には一蓮托生、お互いが助け合い、対処する。

 元文五年の大洪水から数十年を経た寛政・享和・文化にかけてのころ、洪水被害の文書がふえてくる(六年で十五件)。このときの庄屋は、野口藤右衛門、(年寄八右衛門)、郡太と世襲されているが、そのいずれもが文才に長け、表現はビビッドで、読んでいてその体感を共有する思いがする。
 「当十三日(享和三年七月)夜、夜半過雷鳴壱つ弐つ有之、頻にちなり(地鳴り)いたし、扨大雨降出し、誠に車軸を流す勢ニ御座候。未明には大ニおたやミ(小弛む=雨が小降りになる)候故、・・・ゆるりと于蘭盆いたし可申存候処、北の方にて釣鐘太鼓夥敷(おびただしく)聞へ・・・又鉦太鼓を敲き候故、打驚き、村方よりも千里川へ馳参し・・・」(八右衛門)⑪。
 「・・・味噌汁之様成ル泥水、一日一夜かむり申候而、湖水之様ニ相成候」
(享和三年九月、八右衛門)⑫。

 村の田畑の中央を貫流する千里川は「当村地内凡六百間、巾平均十五間」の、普段は「一滴も養水之助ニ相成不申」の空川であるが、ひとたび大水になると鉄砲水が流れる暴れ川となる。こうなると「堤危く、昼夜十五歳以上六十歳までの男、村中堤へ出張、相防」ぎの作業となる。まことに「行燈・松明・杭木・土俵等之雑費も相懸」(る)難渋な川である(「原田村明細帳 文政七年」ほか)。




 

 庄屋郡太はつぎのような筆致でレポートする。
 「七月廿日(文化元年)大白雨有之、・・・同廿六日夕方より大雨降、翌廿七日未明より、外野一面湖水之如く水冠り申候。・・・又廿八日水弥増申候、剰廿八日黄昏より大雷雨誠ニ車軸を流すと申す歟、又桶より打明る歟といふ降様・・・」
 「麦秋頃ヨリ数度の霖雨(ながあめ)」「八月中、日々之陰雨(降り続く陰気な雨)」
「凡(およそ)日のめ(目)拝まず」「廿三年巳年(天明五年)ニも、凡不相変凶作」「当(九月)十七日鶏鳴頃より、大夕立、大北風樹木吹打し・・・」「人家ハ屋根抜ヶ、或者壁落し・・・」⑬

 梨井は鈴木領だけではない、忍藩阿部領、旗本船越との相給・入会の地である。濁流は分け隔てなく、田畑を押し流していく。

 「・・・阿部様御領分字坂田南町街道ヨリ南大崩れ、是ハ元文五年申年大切れ跡也、馬踏少も不残、内腹斗(バカリ)残リ、・・・堤者阿部様領ニ候得共、根
ニ御地行所(鈴木領)四五ヶ所も入組御座候・・・」(文化元年=一八〇四)。⑭
 その復旧も共同作業だが、費用はそれぞれの負担となる。
 忍藩は攝津に二万石の領地があり、中野(伊丹)に陣屋がある。
 旗本船越⑮は豊島郡、川辺郡に知行所七百石のみの江戸住まいであるが、地元には陣屋を設けている。相給の他二領は何事につけ地元で決裁は可能であるが、鈴木領の庄屋郡太はその都度「飛檄料」を費やして江戸へ御窺いを立てねばならない⑯。
 この堤の修復も「阿部様 根杭入候」で、他領の普請が完了し、こちらのみが遅れているときに洪水などが万一発生したら、「村役人共も甚以不面目・・・御入会之なみに・・・」と江戸の返事を待たずに「相掛リ可申候」ということになる(文化元年)⑰。

 「阿部様、船越様此地御陣屋有之」と郡太はこの年(文化元年)の九月廿二日、江戸の用人に他領の災害後の年貢減免の動きを伝えている。
 「阿部様等も御見分・・・内野 御理解、願書御下げ。外野 願書納リ、船越様 見分とも遠見(とおみ検見=遠隔地又は錯綜した場合、前年までの年貢を参考に当年の年貢率を定める検見のひとつ『音訓引き古文書事典』「柏書房」)とも未決定。当年破免見分願出」の動きのなか⑱、鈴木領の百姓たちが「喧く」「相歎、日夜申出」、このままでは「御取立相滞可申」とその苦境を述べている。
 「近々御相給方御取扱之処、極内密承リ合せ候上、御窺申上候」と江戸の用人宛情報蒐集をはじめると手紙する(文化四年九月廿八日認)⑲。

 これがはじめてのことではない、いつも相給方の免状を内偵、報告している。
 享和三年(一八〇三)の場合、こんな気配りもしている。
 発状は十一月二八日付、この情報は「極内ニ承リ合セ、鳥渡(チョット)申上候」「内密之事ニ御座候」として「阿部様者十一月十五日御免状」「船越様も十一月十一日御免状」、それぞれが江戸屋敷まで到着するには「飛脚ニ而十五六日」なので、鈴木の用人がこの情報(相給方の免状)を問い合わせするのは「左様御承知可被下候」と念を押している⑳。
 このときの相給領の減免は「阿部様 外野 定免→三割九分 内野 二割」「船越様 玄米ニテ弐拾五六石(三分の一位か?)」であった(21)。

 文化元年の場合、「阿部様 例年之三割内外御宥免」「船越様 遠見定免之内引 大底阿部様同様之御取噯(扱)」(22)となっており、文化四年(一八〇七)では「船越様 遠見、玄米納・・・定免高之三ツ余ニ相当」、「阿部様 極内々問合候所・・・外野 四わり→三わり、木綿 五わり→四わり、内野 二斗八升→弐わり」と報告している(23)。
 これまでは御窺を立てていた郡太ではあるが、このたびはこれまでの情報提供の実績を踏まえてか、「当知行御毛見御入用も不掛候事故」と以下のような要望(要求といってもいいだろう)を提出している。
「外野・綿 壱わり、内野 八歩」、鈴木領の被害状況はわからないが、相給他領の比率からみれば、これはかなりの優遇を求めているやに見てとれる。
「万一此上少々ニ而も、減石等被仰付候而ハ、村方相治リ不申候」と頭百姓十一名の連署を付けているのは、決意表明とはいえ、いささか脅迫じみてもいる(文化四年十一月十二日)(24)。
 結果は十一月弐六日要望(要求)どおり認められ、年末には御請書を提出している、メデタシ、メデタシであった。

 今回は野口家文書のなかで、主に相給の忍藩阿部領と船越地行所の、特に災害時の年貢減免の状況を中心に調べ、述べてきた。「文書目録」を眺めると、村政や経営などの項目にも面白そうな事件の文書があり、「道中旅日記」も残っているようである。これらは他日の課題としたい史料である。(了)

 豊中市史編纂資料室、豊中市立岡町図書館ならびに尼崎市立地域研究史料館から資料の提供とアドバイスを賜りました。末尾ながら厚く御礼申し上げます。

[注]
① 『豊中郷土資料目録 [Ⅲ] 原田村野口家文書目録』(一九七七 豊中市立岡町図書館)[以下「目録」と称す]のまえがき(小林 茂・名古屋学院大学教授)
② 「目録」 A-施政―2―4 原田村領主役高(元禄十四年)
③ 「古文書・古記録」P七四
  鈴木正左衛門(旗本) 拝領高 一二〇三石(豊中市内領有高 三〇〇石)
  『徳川実記』第三巻(六五、七六、一九〇頁)に鈴木兵九郎の名前が三度出て来る
 (寛永一四年九月、同十月、同十七年五月)、いずれも江戸城普請大工頭のひとり。十七年の作事奉行は、船越三郎四郎永景であった。
④ 『新修豊中市史 第九巻』より収載、「目録」 Q-絵図面―2
⑤ 「古文書・古記録」P七六 「原田郷梨井村免状」 「目録」 C-免状―2
⑥ 「目録」 B-名寄帳―1
⑦ 「目録」 名寄帳(B-名寄帳―1)、宗門改帳(E―宗門改帳-1、1-2)、五人組帳(E―五人組帳―1~4)、村明細帳(天保十四年 梨井村明細帳)、『豊中市史 資料編四巻』P六〇
⑧ 「目録」 E-宗門改帳-1 ⑨ 「目録」 E-宗門改帳-1~2
⑩ P二〇八 差出人は野口八右衛門となっているが、同年三月の文書では年寄八右衛門となっており、野口姓(庄屋)は誤記であろう ⑪ P二〇九~二一〇 ⑫ P二一〇 
⑬ P二二八~二二九 ⑭ P二一五
⑮ 『旧高旧領帳』によると、豊中市内に船越主計と船越柳之助名義の旗本知行所があった(「古文書・古記録」P七三~七四)。前掲②の「元禄十四年」の領主役高をみると、梨井の船越知行所は船越三郎四郎名義となっている。『寛政重修諸家譜 八八八』によると、同人は船越伊予守永景(三郎四郎)の二男で「寛文十年十二月十日 父が遺跡攝津国豊嶋・川辺二郡のうちにして、七百石をわかちたまふ」とあり、船越左衛門景通(三郎四郎)と称した。同じく三代下る船越龜五郎景貞も三郎四郎と称し、享保二〇年にこの遺跡を継いでいる。江戸城、中奥御小性組の番士であった(『寛政重修諸家譜 第一四巻』P二一九~二二一)。
⑰ P二一六 ⑱ P二一六 ⑲ P二二九 ⑳ P二二一 (21) P二一二 
(22) P二一七 (23) P二三〇 (24) P二三〇

                          (「遊心」23号に掲載)






 
 

大寒ですね

2014-01-19 15:28:44 | 四季おりおり
月日は百代の過客にして・・・・・

その通りです

反省しながら、今朝の寒さを体感しました

我が家の椿の花もなかなかほころびません

咲いている椿は、雪囲いのない椿

花がかじかんでかわいそうです

しかし、日差しの明るさは気持ちいいです

日々是好日がつづきますように!!


今年は私の『午年』です