砲弾と包丁
砲弾は爆薬を装填した火器であるが、包丁も使いようによっては凶器ともなる。使用済みの砲弾を原材料に作られた包丁は、なんといえばいいのか。
日本が戦争に敗れて降伏したとき、わたしは「国民学校」の五年生であった。
「欲しがりません 勝つまでは」と六甲山の北の農村に疎開していたわたしの戦後は、教科書を墨でぬりつぶすことからはじまった。こころに重い「シミ」が残り、後年病床にあったとき書き綴った詩集『ふくらみ』にそのことを記した。
小学校の間借り教室を転々と移り、「六・三制 野球ばかり 強くなり」で過ごした「新制中学第一期生」が高校に進学した、その年の六月、朝鮮戦争が勃発した。全校生が校庭に集められ、校長先生の上ずった声でそのことが告げられた、そのとき、わたしの全身に寒気が走り、あのひもじかった「こどものころ」を思い出した。戦争は、もうごめんだ!!わたしは図書館で手にした『きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記』でその思いを強くし、54年の第五福竜丸の水爆被爆事件が明らかになると、いち早く街頭に飛び出して「原水爆反対」の署名活動を展開した。「反戦・平和」運動がわたしの学生生活の主軸となり、「日中不再戦」がその後の「友好貿易」の核になった。
詩集『ふくらみ』におさめた「しみ」のおわりは、つぎのように綴っている。
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そして、
一九六四年の、
あのとき―――。
パスポートにつけられた入国査証。
橋の上で迎えたお下げ髪の兵士。
商談成立の祝宴で
<東京―北京>をうたいながら
片手で<乾杯>をくりかえす
あの ものを云わない もう一本のきずあと。
あの時のしみ、
あのときの、
おれの息づかいは
いま、
ホルマリンづけになって凝結している。
(1968年10月)
87年であったか、上海での会議のあとアモイをはじめて訪れたとき、海岸から目と鼻の先にある台湾の小金門島には「大陸反攻」のスローガンが岸壁に書き連ねてあった。まだ「中華民国」も「大陸」との交流を認めていなかった。ジャズと京劇の「唱」(チャン)の“交戦”はあったが、両岸を隔てる海には静かな漣がたゆとうていた。わたしは“朝鮮戦争”のことを思い出しながら、このさざなみを見つめていたのであった。
それから二十余年後の上海。
すっかりご無沙汰していた上海の老幹部と会食したとき、わたしは「歴史にイフはないが、もし朝鮮戦争がなかったら・・・」と訊ねた。上海がまだ国民党支配下にあった学生時代からすでに地下活動をされていたこの老幹部は、杯の酒を飲み干してこう断言された。「台湾本島まで国民党軍を追い詰め、殲滅させていただろう」。
朝鮮戦争勃発にはいろんないきさつがあるが、中華人民共和国建国の翌年六月にはじまり、その数ヶ月後(建国一年目)に中国の「義勇」軍が参戦した。中朝国境まで迫った国連軍を撤退させるため、ということであった。
89年の秋、上海で放映されたテレビドラマ「上海の朝」(周而復・原作)は、この朝鮮戦争参戦で揺れる“愛国資本家”の苦悩を描いている。
アモイ周辺から金門島本島に砲弾が打ち込まれたのは、朝鮮戦争終結後の58年8月23日であった。2時間で6万発、アメリカの軍需支援がなければ台湾本島も危機に陥るほどで、10月6日までに打ち込まれた砲弾は50万発近かったといわれている。
この中台の“敵対関係”がほころびはじめたのは、蒋介石の長男・蒋経国が
亡くなる一年前(金門島砲撃後30年)の88年、戒厳令の解除と共に認められた「大陸親族訪問」からであった。
「国共の戦い」は、中国のひとびとを巻き込んだ「内戦」であった。上海出身でいまは香港に居留するわたしの知友も、ふたりの叔父、父の長兄は解放軍の幹部、その弟は国民党の幹部という、戦乱の中国ではこうもありえたであろう家庭の出身であった。多くの大陸出身の兵士や軍属が、家族や親戚と離れ離れになって台湾に移って四十余年が経っていた。88年に認められたこの「親族訪問」は、海峡両岸の“緊張関係”を徐々に氷解させていった。
92年に二度目にアモイを訪問したとき、郊外には早くも台湾の経済特区が開発され、台湾投資の“別荘”には大陸の親戚が住みはじめていた。
大陸のカラオケでは、テレサテンの歌がヒットチャートを独り占めにし、台湾の“康師傅”が即席麺の王座に輝く。三通(通信・通商・通航)の制限は徐々に緩和され、大陸からの台湾訪問もはじまる。エバグリーン(台湾)のコンテナ船が中国商品を満載して世界を駆けめぐり、“上海万博”への臨時便がやがて定期路線としてシャンハイとタイペイを結ぶことになる。
09年3月 わたしはアモイからフェリーで金門島へ向かった。日本人の団体
乗船第一号である。中国人の観光グループで満席であったが、アモイの日本語通訳はわたしたちのメンバーとはみなされず、急遽彼女の友達を誘っての団体乗船とあいなった。
わたしたちは金門島の史跡と戦跡めぐりが中心であったが、不思議というか、当然というか、滞在二日間で中国人の観光客と出会ったのは土産物店だけであった。そして、ウワサには聞いていたが、砲弾から作られる包丁の製作実演コ
-ナ-は押すな押すなの超満員。毛沢東は「鉄砲から政権が生まれる」と語ったが、まさか“敵”に打ち込んだ砲弾から、切れ味のいい包丁が作り出されるとはユメにも思わなかったことであろう。その切れ味の良さは、噂にウワサを呼んで、いま長蛇の列とあいなっている。後で聞いたはなしだが、中国の観光地でも“寅さん”よろしく、この包丁売りの街頭実演販売もあるとか。そのブッタギリの、切れ味の良い“口演”に商売繁盛との由だが、モノは本家本元で買うのが“ゴリヤク”が多いというもの。そして、包装のメイドインタイワン、金門島がなんといってもモノをいうのである。
WTOの中台同時加盟からすでに十余年が経った。
その加盟の瞬間の台湾企業の表情をさぐるため、わたしはそのときタイペイに飛び、数社の台湾企業の対中観をヒアリングした。企業のポジションで反応はさまざまであったが、交流の拡大は中台双方の経済関係の発展には避けられないとの見解では一致していた。
その後わたしは訪台を重ね、その都度行く先々で多くの中国からの観光団と巡り会った。故宮博物院では、あの喧騒に眉をひそめる参観者も多く、土産物店では正札販売に慣れずに大声でトコトン値切る中国人観光客に音をあげていたが、それでも“お客様は神様”、台湾経済にとって中国人観光客の増大は欠かせない。日本も高度成長期、ノウキョウの猛者が花のパリで醜態を演じて天下にその名を轟かせたことがある。なによりもダイジなのは、中国の人たちが台湾の人とその社会のなりくみに深く触れ、自他を振り返ることにある。「衣食足りて 礼節を知る」は中国発の格言であるが、世界のマナーでもある。
砲弾からつくられた包丁で、調理にいそしむ日々は旅の思い出を深め、相互理解を進めることにつながることだろう。いま漁界をわきまえず、自己流の漁法で稚魚まで吸い獲って、明日の海を護り育てようともしない人たちにも、こうした中台の交流も必要なことではないだろうか。
(2013年11月10日 記)