くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

ポストイナ鍾乳洞

2014-10-29 21:48:24 | クロアチア・スロベニア・ボスニアヘルツゴ
ヨーロッパの中央部にあるスロベニアはカルスト地形の宝庫
最大のポストイナ鍾乳洞はカルスト研究の中心地です
200年前から延べ
3400人の見物客が訪れています
日本からも2000年に紀宮内親王殿下(当時)も訪れています

最高に晴れ渡った空を見上げながら鍾乳洞に入ります






まずはトロッコ列車で内部に入り2㌔を走ります


説明は各国語でガイドがついてくれます
その説明の中で、絶対に鍾乳石に触れないでください
触れれば、その石の成長は止まってしまいます
ということでした


数百万年の時をかけて一滴一滴の水が作り上げた鍾乳洞です


天井から下向きに成長するもの、下から成長するもの
















沈殿したカルサイトの中に他の物質が含まれていない鍾乳石は白色になり
マンガンや鉄が含まれていると赤や黄色になります




この鍾乳洞には、暗闇に生きる100種類以上の生物が生息しています
その中で最も有名な「ホライモリ」昔の人は「ドラゴンの子供」と思って
いたそうです
もちろん、目は退化して見えません



途中でトロッコ列車から下車して歩きながら説明を受けたり
突然明かりを消されたり、そして何よりも足元が滑らなくて
凸凹がなく歩きやすい、素晴らしい鍾乳洞でした



そして50㌔ばかり車で走ってリュブリャーナへ




民家集落わくわくワークまつり

2014-10-24 09:23:17 | 日本民家集落博物館ボランティアの日々
10月25日(土)9:30~17:00

◇入館料  大人半額(250円)
      高校生以下 無料

わくわく販売

◇能勢町ふるさと物産展(冬野菜や栗の加工品など)

◇北摂のおいしいお店による模擬店(豆がし・鯖ドッグ・餃子)

◇博物館の畑で採れた野菜と手作りグッズの販売


わくわく体験

◇茅屋根ふき体験
 日向椎葉の民家前広場 10時 12時 24時
 (各約1時間)

◇和の装い体験
 摂津能勢の民家 10時~16時(約1時間・着付け散策込)

◇ドロドロ泥染ワークショップ 秋色のミニバッグを作ろう
 10時~12時  13時30分~15時30分
 材料費 200円   先着順 25名

◇お手玉作り  10時~12時
 堂島の米蔵

◇おりがみ教室  10時~13時
 日向椎葉の民家

◇はたおり体験  10時30分~15時30分
 南部の曲家

◇まゆだま人形作り  13時~15時 
 日向椎葉の民家 
 材料費 100円

◇竹で遊ぼう!  水鉄砲作り・竹ぽっくり作り
 小豆島の農村歌舞伎舞台 13時~15時

◇親子囲碁体験    13時~15時
 大和十津川の民家

◇こま遊び   11時~15時
 日向椎葉の民家

◇石臼体験 石臼体験コーナー  13時~15時30分
 材料費 100円

◇みんかクイズラリー   10時~16時
 受付 事務室前  


◇アカペラコンサート  14時30分~16時
 小豆島の農村歌舞伎舞台
 大阪市立アカペラサークル Accordライブ

◇北河内の茶室公開と茶会  11時~15時
 お菓子代  300円

 
お問い合わせ  06-6862-3137

 
  

 

ブレッド(スロベニア)

2014-10-13 20:54:57 | クロアチア・スロベニア・ボスニアヘルツゴ
1900年にオーストリアから鉄道が敷かれ避暑地となる
人口7千人 夏はハイキング 冬はスキーとヨーロッパ各地からの
観光客でにぎわう

ユーゴスラヴィアのチトー大統領お気に入りの地で別荘も持っていたが
現在はホテルになっているとか

スロベニアに入国するとイタリア・オーストリアとの国境に連なる
ユリアン・アルプス(2000m級の山でユリアス・シーザーの名前をつけた)
が悠然とそびえ、その麓にブレッド城があり、その城を取り囲むように
ブレッド湖がある

ユリアン アルプス
トリグラフ山(2864m)が最高峰でスロベニアの国旗にも山の姿が
デザインされているが、残念拝むことができなかった


ブレッド城





城の内部の教会






現在は博物館になっている








保養地でもあったブレッドは、浴槽で温泉浴もしていたとか)


いろり(現地ガイドは鋳造用の溶鉱炉というが?)


ゆりかご



ブレッド湖
周囲6㌔ 水深235m 
湖に浮かぶ島に聖マリア教会・女子修道院がある
90種類の魚がいて2月ごろには寒く湖が凍ることもあるらしい
魚釣りは禁止されている





街中にはどの家にもリンゴの木があった





そして53㌔移動してリュブリャーナへ














ザグレブ

2014-10-13 18:31:31 | クロアチア・スロベニア・ボスニアヘルツゴ
78万ほどの人口でクロアチア最大の首都

午後からの自由行動は楽しみだった
のんびりとゆったりと、教会めぐりやイエラチッチ広場で人の往来を眺めたり
買い物をしたり

聖母被昇天教会(105mの尖塔が素晴らしい)
夜のミサは、パイプオルガンの音も高い教会内に響いて敬虔な気持ちになった




市庁舎


結婚式に巡り合った




イエラチッチ広場


広場の一角で HONDA の車の展示がされていて、人々は写真を撮ったり
車内を眺めたり
(この旅では、トヨタ・ホンダ・マツダ・日産の車をよく見かけた
特にマツダが多かった





まるで町全体が中世の趣






黄昏て、そして明かりがともり始め






気持のいい秋の夜だった





















プリトヴイッツエ湖畔群国立公園

2014-10-10 10:00:42 | クロアチア・スロベニア・ボスニアヘルツゴ
昼食のレストランは、プリトヴイッツエ湖畔群国立公園へ行く途中の森の中
羊の丸焼きが目の前で見ることができる
ここでは、いい天気だったのだけれど・・・・・



ごく当たり前に、焼かれている羊


中では羊の調理中


この羊を食べなくて良かった
サラダとシチューとポテトのランチ (まずい)






世界遺産 プリトヴイッツエ湖畔群国立公園



ビデオ室で国立公園の映像を見て、外に出ると雨
自然公園が雨なんて最悪
4㌔は森と湖と滝を満喫できるというのに


森の中は、滝の音と小鳥の鳴き声で爽快なのだけれど雨












あ~ あ~ 最後まで雨だった  2㌔ほど歩き、船に乗り湖を遊覧した



自然遺産のすばらしさは満喫できた。
負け惜しみかな~ 雨の中を水の音や滝音を聞きながら歩くのも
いいものだと、思ったが・・・・・

そしてクロアチアの首都ザグレブへ





ボスニアヘルツゴビナ

2014-10-08 09:23:24 | クロアチア・スロベニア・ボスニアヘルツゴ
クロアチアをちょっと離れて、ボスニアヘルツゴビナへ国境越えして
世界遺産のモスタルの町の石橋を見に立ち寄る


城壁が続くこの島がマルコポーロの出身地(クロアチア)


アドリア海の内海沿いを国境までクロアチアとボスニアヘルツゴビナとの国境


ボスニアヘルツゴビナのブドウ畑(整然とした畑)


独立後5年間の内戦で国策の遅れたボスニアヘルツゴビナ


世界遺産の石橋


石橋の上流(上流にはサラエボがある)


街中の建物には弾痕跡が残されている


オスマントルコ時代の名残のトルコ街


綺麗な売り子さん


ボスニアヘルツゴビナは、日本からの援助が大きく、全てのバスの後ろには日本国旗が
描かれている

クロアチアの豊かな穀物や果物の宝庫のネバトヴァ川の上流にボスニアヘルツゴビナの
農業地帯が続いている

3つの国には、重工業がないので、水も自然もきれいです

石橋は先の内戦で取り壊されたが、石組みで橋桁が両側にしかなく貴重なもの
ユネスコ(?)の出資で再現されたとのこと


309㌔バスで移動してクロアチアのプリトヴイッツエへ








徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾八

2014-10-05 23:02:03 | はらだおさむ氏コーナー
“友好乾杯”のときは過ぎて・・・


 七十の手習いではじめた古文書学習の関係で、各地の史料館や文書館とのおつきあいがふえてきた。史料の収集(蒐集)などの範囲をみているとまさに“10年ひとむかし”、いまはいずれ“歴史”になるという感覚である。
 日本が明治以降、諸外国、特にアジア近隣諸国との交流のなかで犯した“負の遺産”はいまのわたしたちが受け継がねばならないことは当然ではあるが、それはすべてが“負”ではない。

 わたしの中国とのつき合いは“日中不再戦”がその原点であった。
 中国側の視点も「一部の軍国主義者を除く大多数の日本国民は戦争の犠牲者」とみなし、日中両国民の共通の目標として「日中国交の正常化」が掲げられた。
 1956年の「北京・上海日本商品展覧会」、58年の「広州・武漢日本商品展覧会」の会場では、朝夕日本国旗が解放軍の兵士によって掲揚下され、護衛されていた。ところが58年5月、長崎の百貨店で開催されていた中国物産展会場の中国国旗が暴徒に凌辱されたにもかかわらず、ときの岸内閣はこれに謝罪せず、日中間の友好交流は数年間の断絶を余儀なくされた。
 これは、もう古い歴史に属することかもしれない。
 ところが、である。
 2010年の上海万博のとき、出展した日本館では日本国旗を掲揚しなかった。「反日感情を刺激する」、「日本政府の主催ではない」、という曖昧な説明で逃げてしまった。尖閣沖で酔っ払い船長の漁船が日本の巡視船に衝突したのは、上海万博閉幕の一月前のことである。
 日本の無原則、事なかれ主義が、問題を大きくしてきている。
 これは、歴史の教訓である。

 昨秋の『徒然中国』67号「セブンか、エイトか」の末尾につぎのような追記を書いていた。
 < このところ、しきりと思いだすことばがある。
   「もう、『友好乾杯』の時代は終わった」
   八十年代のおわりごろ、故鮫島敬治・「日経」初代中国特派員がよく話されていたことばである >

わたしと同世代の方ならよく覚えておられるであろうが、鮫島さんは文革初動期の68年6月、北京市公安局軍事管制委員会によって逮捕され、翌年12月釈放されるまでの一年数ヶ月拘留された。鮫島さんとは学部は異なるが、大学の一年先輩、岡崎嘉平太さんなどLT関係者からもかれの逮捕に憤りの声が上がったが、中国の対日関係者もすべて「文革」で下放・軟禁中であった。
 わたしが鮫島先輩とのお付き合いを深めたのは、86年9月、上海で開催された第2回大阪・上海経済会議のときからである。鮫島さんは当時日本経済新聞大阪本社副代表・編集局長で、このときは大阪側基調講演のスピーカーであった。講演の骨子も、これからは実務の時代、<友好乾杯>の時代は終わった、であった。
 大阪ではわたしの事務所と『日経』が同じ路線上にあり、地下鉄でも会合でもよくお目にかかった。東京へ転勤されてからも、日中関係学会などでお会いすることがあり、その都度この逮捕事件のことは是非書いてくださいよ、いや、まだ関係者がご生存中なので、と話したりしていた。わたしが編集の『上海経済交流』にはよく目を通していただいて、アドバイスもいただいていた。
 04年12月、二度目の舌癌手術のあと、薬石効なく昇天された、享年72歳、日中経済交流の先駆者であった。

 一年後、『追想 鮫島敬治』が刊行され、功子未亡人よりその贈呈を受けた。
 末尾 第3部に「回想録メモ」があった。未発表の、未完のメモ「プロローグ」37ページ分が掲載されていた。臨場感あふれる逮捕の瞬間、友好商社駐在員の逮捕・軟禁のはなし、廫承志さんやLT関係者のことのほか、その後、当時の取調官との二度にわたる取材・会食のことなど、“大河”執筆の構想が感じられる「プロローグ」である。
 末尾近くには、「この夜の拘留には、手錠も捕縛も用意されていなかった。その後の取り調べ、拘留期間中も、彼らが私の身体に指一本ふれなかったことだけは、明記しておかねばなるまい」と冷静にこの事件を「歴史」としてとらえようとする姿勢が垣間見られる。
 第1部 「追悼」には多くの方の追悼文が掲載されている。
 中江要介(前・日中関係学会名誉会長、今春ご逝去!)さんの<「日中友好」を言わない>がある。鮫島先輩と元中国大使のやりとりが楽しい・・・<鮫島さんによれば「日中友好は口で唱えるものではない。日中間の様々な部門や側面でそれぞれ尽力して相互理解を深めてゆけば日中友好はおのずからついて来るもの(ついて来るべきもの)であるという考え方です。私はこの鮫島さんの考え方に大賛成で、以後今日まで、わが日中関係学会では「日中友好」を前面に押し出して謳うことをせず、地道に真面目に日中両国及び両国民の相互理解に役立つことを堅実に探求しています」とある。宜なるかな!わたしの大好きな『らしからぬ大使のお話』の著者・中江先生、泉下の鮫島先輩もウイ!とうなずいておられることであろう。

 鮫島先輩の逮捕・拘留は、中ソ対立の象徴ともいえる“珍宝島事件”をはさんでいる。
 69年3月、ウスリー川の珍宝島(ダマンスキー島)で中ソが軍事衝突、死傷者が出た。
 当時私たちは物産展活動を通じて、日中国交正常化への世論喚起に努めていたが、それは[中国を知り、知らせる]運動でもあった。この珍宝島事件をめぐって、わたしたちの仲間でも意見が分かれた。この事件を物産展会場でも紹介すべきかどうか、わたしは「日本と中国」に焦点を絞るべき、中ソ問題は物産展会場での紹介対象にそぐわないと主張、年配の方からきみは現場を見ないと判断できないのか、中国の主張には賛同できないのかと難詰されたことがある。
 事件は同年9月、ホーチミン・ベトナム大統領の葬儀の帰途、北京空港で急遽設定されたコスイギン・ソ連首相と周恩来総理との会談で全面衝突は回避されたが、この事件も契機になって中国のアメリカ接近、日本との国交正常化への動きが出てくる。

 先日 NHKで中国の青年たちに好評の雑誌『知日』についての特集番組があった。これを観たわたしの友人・知人から好意的な反応が多く届けられた。そして日中の世論調査で、中国のほうが日本に好感を持つ人が多いのはなぜかとの質問もあった。
 以下は独断と偏見の私論になる。
中国の人はメディアよりも自分の「情報源」を信用する人が多いが、日本人はメディアや政府に文句タラタラながら、結局はその情報に操られているのではないか、自分のアタマでモノを考える習慣、自分の「情報源」を持つ必要が日本人は中国の人より少ないのではないか、というのがわたしの結論である。頼りになるのは「五星紅旗」なのか「日章旗」なのか、はたまた友人や親族なのか、その是非はさておくが、もう友好乾杯の時代は終わった・・・、いまは「日中不再戦」を原点に「戦略的互恵関係」の構築に智慧を絞るべきときであろう。
                   (2014年9月23日 記)