http://www.oshirobu.com/blog/archives/4706
この看板というか由緒書?を読んだ時に、九里が石見国から出たのか、あるいは近江国から佐々木氏と共に赴いたのか・・・もう一度考えようという気になった。
果たして、真実はどうなのだろうか。
近江国での、初めての城であろう久里城・そして初見の文書 久里次郎左衛門。
両方ともに【久里】という漢字になっている。
石見国の方ははじめは久利であり、途中から久里、混在のようである。
いま、私の頭の中は、以下のようになっている。
はじめは久利清原氏として石見国よりで、出羽国に赴いて、鎌倉時代には佐々木氏と共に近江国に入り、近江国からまた石見国に戻った(というか佐々木氏につき従って)という一派もあるのではないか。・・・である。
久利氏に、吉川の養子となった吉川経安という人物がいる。生まれたのが、九里滅亡の年、1525年である。またの名を久利余七郎。
吉川氏といっても、安芸・播磨・石見・境・出羽などいくつもの系があるようなので、詳しくはわからないが、
目加田氏の吉川(毛利)氏に入っていた事実は、九里にも同じような人もいたのではないかと思わせる力がある。
本当のところは、どうなのですか?とご先祖様に突っこんでみたい。
まさか、とは思うが、「橘久利」と書かれている文書があり、これが転じて、「きっくり」から「吉川」になったのだろうか???
うーーーん。
この看板というか由緒書?を読んだ時に、九里が石見国から出たのか、あるいは近江国から佐々木氏と共に赴いたのか・・・もう一度考えようという気になった。
果たして、真実はどうなのだろうか。
近江国での、初めての城であろう久里城・そして初見の文書 久里次郎左衛門。
両方ともに【久里】という漢字になっている。
石見国の方ははじめは久利であり、途中から久里、混在のようである。
いま、私の頭の中は、以下のようになっている。
はじめは久利清原氏として石見国よりで、出羽国に赴いて、鎌倉時代には佐々木氏と共に近江国に入り、近江国からまた石見国に戻った(というか佐々木氏につき従って)という一派もあるのではないか。・・・である。
久利氏に、吉川の養子となった吉川経安という人物がいる。生まれたのが、九里滅亡の年、1525年である。またの名を久利余七郎。
吉川氏といっても、安芸・播磨・石見・境・出羽などいくつもの系があるようなので、詳しくはわからないが、
目加田氏の吉川(毛利)氏に入っていた事実は、九里にも同じような人もいたのではないかと思わせる力がある。
本当のところは、どうなのですか?とご先祖様に突っこんでみたい。
まさか、とは思うが、「橘久利」と書かれている文書があり、これが転じて、「きっくり」から「吉川」になったのだろうか???
うーーーん。
それは、それは、気にかけてくださって、とてもうれしいです。九里九馬さんというのも聞いたことがございます。
ああ、どなたか現れてくれないかしら~~系図をお持ちの九里さん~~と願っております。