前回ご紹介したブログで気になったのは、古代史探訪さんの記事の中にあった「和邇氏と東大寺山古墳」の中の一文だった。
「対馬では今でも、大型の舟を「ワニ」、小型の舟を「カモ」と言い、「ワニ・和邇氏」というのは大きな船を持って遠洋航海できる氏族という意味なのか。それに対して「カモ・鴨氏」は小さな舟で沿海や川を利用していたか。」であった。
対馬と大型の舟の「ワニ」 これはリアリティーあり!
更に今回登場する予定の【朱智神社】もとても気になる存在。
迦邇米雷王は開化天皇の曾孫で神功皇后の祖父で、垂仁天皇御代にこの地を治められて、その子孫は朱智姓を名のった。
…という事は、神功皇后の祖父は大和の国にいたことになるのではないだろうか?
(本貫が近江の坂田付近となるのはいつからなのだろう。)
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調べてみると、
場所は…
当社はもと此地より西方三町余りの所にあり、仁徳天皇の六十九年に、社殿を建てて、朱智天王と号しました。
迦爾米雷王は、開化天皇の曾孫で神功皇后の祖父に当られ、崇仁天皇の御代にこの地を治められて、その朱智姓を名乗られました。
綴喜郡(つづき・ぐん)にあり、この地は古代息長氏一族に関連深い地である。
この辺は息長氏の本拠地
そして、神功皇后の陵 朱智神社とは遠くない場所にある。
息長氏は近江国坂田郡が本拠地ではなく、もしかするとこの辺りだったのかもしれない。
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和邇氏に戻ろう。
坂橋隆司氏の「丸邇氏の伝承」第二節 宇遅和紀郎子物語考 ――末子相続譚を通して―― を底本として今度は宮主矢河枝比売の息「宇遅和紀郎子」についてである。
この末子相続譚は、宇遅和紀郎子だけではなく初代神武天皇から三十三代の推古天皇までの表があり、長子相続が12人・次子相続が4人・末子相続が16人・女帝が推古…となっていた。
つまり三十三代までの天皇のうち16人は末っ子を天皇としたことになる。理由は、天皇である父の指示で、抗争をしたのちに、兄が戦死したために、弟に手柄があったために、抗争の後譲り合って、などさまざまである。
海幸山幸神話(抗争のあと)・神武天皇説話(兄の戦死)・綏靖天皇前紀(弟の手柄)・宇遅和紀郎子物語(抗争の後譲り合い)・顕宗天皇前紀(譲り合い)となっており、最後の顕宗天皇(山部)以外は伝承者はすべて「海部」となるのだそうである。
反対に、長子相続をしている天皇は偶然かもしれないが…と断りが入っているのだが、いずれも【師木系】なのだそうだ。
(例外:綏靖天皇:『古事記』の綏靖天皇の大后の名前は「師木県主の祖(おや)、河俣毘売(かわまたびめ)」となっているが末子相続である。)
ここでは比較で第二節は終わり、
この末子相続譚にも隠れた部分があり、どうも丸邇氏と葛城氏の争いがあったのではないか…ということで、第三節に突入していく。
コメントにもご示唆いただいていた「葛城氏」の登場である!
和爾とは関係無いですが、平城駅は1度行きました。
競輪場の隣に、秋篠と地名が有りますよね。秋篠寺と言う古い寺が有ります。そこに初秋に行きました。そこの受付の方に「今日は雨が降ったから来ました」って言ったらいぶかしがられました。秋篠の西行の時雨の歌が好きだった。西行と同じ風景が見たかった。
ついでに、神功皇后陵も行きましたが、秋篠から見える生駒の印象が強すぎました。
人それぞれの観光地が有りますね。kunori様の滋賀のように。
拙句
しぐれたら電車に乗って傘の寺
秋篠寺は私も行きました。そして、そこは私の母が好きで訪れていた場所で、母が亡くなった後にその仏像を見に行ったのです。
何だか色っぽい仏像だった記憶が…私は渋い方が好みでした。
奈良の旅は、社会人一年目の初一人旅でした。
私にとっても懐かしい場所でした!
あのあたりもとっても素敵な地なので行きたいです。この辺りと関係あったらかなりすごい民族ですよね。
で天王って地名が多いですね!私気付いたんですけど皇子は王子が好きで天皇より天王のが好きかもしれません。こだわりもありそうですね。
あとなんだっけ朱智というキーワードですけど、お守り頂いた事あるんですよ、場所奈良じゃないはず探してから調べてみます。たしか朱鷺トキの関係だった気がします。多分鳥も関係してきますよ、ワニだけじゃなくきっと。7591
王子・天王の「王」って、王仁も「王」。
なにか氏族の以前の国にも関係があるのかな?
なぜか王の上に白が付くと「皇」となる。
新羅の「しら」??
何かしら違いに意味が隠されているのかもしれません。