九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

佐々木氏頼の弟直綱、(愛智川)四郎左衛門所直綱を名乗り足利尊氏のもとに仕える

2020-09-06 | 佐々木氏

佐々木直綱の兄氏頼は生誕 嘉暦元年12月2日(1326年12月26日)・死没 正平25年/応安3年6月7日(1370年6月30日)
である。下記の1396年というのは歿した年だろうか。

城郭探訪様より
愛智河直綱====1396六角時信子四郎左衛門道綱近江守護?奥州北方奉行貞治頃
   繁綱直綱子
   昌綱繁綱子
   秀綱昌綱裔水沢入道将監
   信綱秀綱子豊前文明頃


http://joukan.sakura.ne.jp/joukan/iwate/mizusawa/mizusawa.html

こちらに重要な情報が書かれていた。東北城館魂様より


水沢城の創建時期は明らかではないが、葛西氏の家臣・蜂谷氏が築いたとされる。

-佐々木氏の入部と躍進-
応永15年(1408)、足利4代将軍・義持に仕えていた佐々木将監繁綱は、葛西氏を頼って奥州に下向した。繁綱は葛西氏により胆沢郡に知行を与えられ、水沢城を居城にしたといわれる。
また、繁綱の弟・宗綱も幕命により北方奉行に任じられ、斯波郡に居住したと伝えられる。二人は母方の縁故により葛西氏を頼って下向したものと思われる。

===*===
そして東浅井郡志と上記の情報をプラスしてみるに、





佐々木愛智川四郎左衛門尉直綱は、渋川中務大輔直頼と共に足利尊氏方として観音寺を守っていたことになる。


その後間があいて、応永十五年(1408年)、息の二人は母方の葛西氏を頼り東北へと赴き、そこで水沢城を拠点とすることになっていったようである。



そのあたりのことをwikipediaより
尊氏は佐々木道誉の謀反を名目に近江へ、義詮は赤松則祐の謀反を名目として播磨へ、京の東西へ出陣する形となったが、佐々木や赤松の謀反の真相は不明で(後に彼らは尊氏に帰順)、実際には尊氏はむしろ直義追討を企てて南朝と和睦交渉を行った。

この動きに対して直義は京を放棄して北陸を経由して鎌倉へ逃亡した。尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、これを正平一統という。この和睦によって尊氏は南朝から直義追討の綸旨を得たが、尊氏自身がかつて擁立した北朝の崇光天皇は廃されることになった。そして尊氏は直義を追って東海道を進み、薩埵峠の戦い (南北朝時代)(静岡県静岡市清水区)、相模早川尻(神奈川県小田原市)の戦いなどで撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した

直義は、正平7年/観応3年(1352年)2月、高師直の一周忌に急死した。『太平記』の物語では、尊氏による毒殺の疑いを匂わせるように描かれた。尊氏は直義の死後病気がちになり、以後政務は義詮を中心に執られることになった。

足利尊氏は生誕1305年・死没1358年である。
1352年の氏頼は26歳、直綱はもっと若い。
直綱の息が50歳代で、葛西氏を頼って北へ赴いたことになる。

https://chibasi.net/rekidai211.htm


上記の葛西氏によると直綱は尾張守であったことがわかる。
そこを手掛かりに進むと
少しわかってきた。

佐々木尾張守直綱は、尊氏に仕えた後に斯波氏に仕え1358年奥州北方奉行人として幕府から派遣され4年後には京に戻っている。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 佐々木六角直綱なのか、片岡... | トップ | 片岡氏と佐々木氏の三つの接... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

佐々木氏」カテゴリの最新記事