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佐々木六角直綱なのか、片岡(山田五郎左衛門尉)直綱なのか、山内判官直綱、法名中寛とは…

2020-09-05 | 片岡氏

佐々木六角直綱:佐々木系図作信詮舎弟。
四郎左衛門尉。
山内判官〔系図纂要〕。
法名中寛 佐々木系図による。
https://geocity1.com/okugesan_com/sasaki.htm

佐々木六角義信
正平4年/貞和5年(1349年)、六角氏頼の嫡男として誕生。

観応の擾乱で進退に窮して正平6年/観応2年(1351年)6月25日に出家した父から家督を譲られた。しかし幼少のため叔父・山内信詮(定詮)が近江守護となり、その定詮が直義方につくと代わってもう一人の叔父である直綱が近江守護になった[1]

[1]の註
六角定詮(山内信詮)が氏頼に代わって守護となり正平6年/観応2年の8月段階に在任していたことが足利尊氏の御教書から判明するが、9月に発生した近江国内の攻防には攻撃側(直義陣営)に「佐々木五郎左衛門尉」(『天正本太平記』)が、守備側(尊氏陣営)に「当国(近江)守護氏頼舎弟」(『園太暦』観応2年9月11日条)がいたことが判明する。佐々木五郎左衛門尉は六角定詮の別名であるために彼が「当国守護」であることはあり得ない。このため、9月段階では『天正本太平記』に「佐々木四郎左衛門尉」の名前で登場して尊氏陣営による佐々木城(観音寺城)の防衛に参加している氏頼のもう一人の弟である直綱が守護に補任されていたと考えられている(下坂守「近江守護六角氏の研究」(初出:『古文書研究』12号(1978年)/所収:新谷和之 編著『シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻 近江六角氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-144-8))。

===*====

下記の記事につながってくる事項と思う。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/201a3eed51aad84a63103ff41c9436d5

五郎左衛門尉は「山田五郎左衛門尉」であり、上野国片岡に住んでいた人物「直綱」となる。

しかし、片岡系図の中の直綱は年代が違っている。
  |片岡左衛門尉 應永18年(1411)12月築城
(54)直綱(  -1427) 於土佐國吾川郡徳光庄而
   |       是曰徳光城亦曰片岡城矣

この直綱は、醍醐源氏である。
【醍醐源姓 片岡氏系図】
【始祖】片岡盛保  【本貫】上野國片岡郡

【世系】片岡氏は、醍醐天皇の苗裔醍醐源氏に出づ。

【歴史】源盛保、上野國片岡郡を貫するに依て片岡を称号す。片岡盛経は、元弘兵乱の時、官軍に属し殉難す。 片岡直綱、應永18年(1411)12月、始めて土佐國吾川郡徳光庄に移り一城を築く。是「徳光城」と云ふ。又片岡城とも云ふ。 これ土佐片岡氏の祖なり。さらに黒岩に城を築き、吾川・高岡の両郡を領す。家紋「揚羽蝶」を用うと云ふ。 片岡下総守光綱、長曽我部に仕ふ。豊太閤、南征さるる節、伊予にて軍役を勤め討死す。 片岡祐光は、土佐郡本川郷大藪村住人大藪紀伊守祐宗の孫にして伊賀左馬允の男なり。 土佐藩主、祐光に命じて 片岡氏の養子となさしめ遺跡を治めせしむ。延宝8年(1680)3月8日卒。 祐光の子孫世世、庄屋職を相続す。片岡孫五郎直英は、夙に勤皇の志篤く、元治元年(1864)長州に奔る。のち贈正五位なり。 直英の長男直輝、二男直温は貴族院議員を務む。

※土佐藩にはこの他にも片岡健吉などを輩出した土佐藩士 片岡家がある。

===*===

何故片岡氏は佐々木六角氏の中に「直綱」を置き、そこから繋がるようにしたのだろうか?
六角佐々木氏頼の弟であった…という伝承があったのだろうか?

同じ直綱がいたので、ただ、間違ったのであろうか? 
しかし、山内という名とは土佐国でも関係があるので、間違えて…ではないのかもしれない。

もっと遡ってみると、片岡氏の始りである醍醐天皇(885-930)の母は、藤原高藤女胤子で、 宇多源氏に続くので、全く関係ないわけではないのだが…

父親 藤原高藤
母親 宮道列子

宮道弥益と大宅氏出身の母の間に生まれる。『今昔物語集』(後述)によると、鷹狩の雨宿りとして弥益の屋敷を訪れた藤原高藤に嫁いだ。高藤との間に生まれた胤子が宇多天皇女御となり、その子(源維城)が後に醍醐天皇になると、列子は天皇の外祖母として従三位に叙せられた。『宇治郡名勝誌』によると、907年11月30日(延喜7年10月17日)に亡くなったとされ、勧修寺栗栖野に葬られたという。同年12月9日(旧暦10月26日)に正一位が追贈された[1]。また、のちに父の弥益や夫の高藤らとともに宮道神社に祀られるようになった。


===*===

山内氏  
鳥羽氏  六角氏の一族鳥羽氏が鳥羽・江部両庄の地頭であった。
永原氏
山田氏
片岡氏

が絡んでいるようなので、ひとつずつ調べていこう。

直綱は陸奥国に逃れていき、水沢氏になったようである。


佐々木氏は近江源氏と称しているが、実際は近江国土着の狭々山氏の後裔とい われる。 ... 陸奥国水沢の佐々木氏も一族1357年に佐々木直綱が奥州に下向 し、その子の繁綱が水沢城を本拠地として水沢佐々木氏の祖になり葛西氏に仕え た。

https://chibasi.net/rekidai211.htm
葛西氏
幕府は六角時信の子・佐々木左衛門尉直綱を奥州に派遣して斯波満家の補佐をさせているが、直綱の妻は葛西高清の娘と伝わる。高清と直綱の間には何らかの関わりを持っていた可能性がある。と書かれている。

===*===

そういえば、出雲佐々木氏の義清の息泰清の妻は葛西清重の嫡男である清親の娘であるそうだ。

接点は充分にありそうな「葛西氏」である。

葛西氏と出雲佐々木氏。ここと六角の直綱とつながってくるとなるとは。
さらに調べてみることで、片岡氏との関係も何か見えてくるかもしれない。



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