不思議な偶然なのだが、原主水の「主水」は主の水(聖水)であり、「主水」の音である「モンド」はイタリア語で「mondo 」=世界 となる。
つまり【ヨハネの世界】である。ここでの深読みは禁物であろう。
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原胤信は下総国(現在の千葉県)臼井城主の子に生まれた。
この胤信の父は胤義のことと思う。(胤栄と同一人物ではないか…という。)
この胤栄の父は胤貞で、母が高城上総守胤辰の娘。
この高城氏の家臣に「粟飯原氏」がいる。
また、高城氏は遡ると二階堂氏でもあり、工藤氏でもある。
このことを考えるにやはりこの「原氏」は「良峯姓 原氏」と関係があるかもしれない。
そして胤信の叔父である勝胤は、土岐 原長頼と同一人物かもしれない。 同じ隠岐守で、長頼はたくさんの名前を持っていたのだが、その中の一つに「勝胤」が入っているのだ。本巣郡花木城(中野城)の城主である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E9%95%B7%E9%A0%BC
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父は北条氏に従って小田原の合戦に参戦。秀吉に敗れ、父は江戸にて切腹。
幼少の胤信は、三歳であったという。
其の後解放され、徳川家康の小姓に召され、主君に伴い伏見に移った。
千葉氏のHPさんの「原氏」に詳しい。https://chibasi.net/hara15.htm#tanenobu
原 胤信(1587-1623)
幼名は吉丸であったが【吉丸は若くして信濃国高遠に四百石の知行を受け、鉄砲組頭に就任した。しかし慶長5(1600)年、キリスト教に密かに入信し、洗礼を受けてヨハネと改称している。】13歳の時である。
また、web情報では
https://tokyo.catholic.jp/wp-content/themes/catholic-tokyo/doc/diocese/edo_j_guide.pdf
【1603年、「背高く、勇猛な武士」は 2 0歳で走衆(将軍警護役)の頭になり、3 0人を預かって 15 0 0石を賜たまわるに至った。やがて、家康に従い駿府城に移った。】とある。
着々と昇進していた胤信なのだが、伏見にいた時代なのだろうか大坂でイエズス会のモレホン宣教師に出会いキリスト教に入信する。
ペドロ・モレホン
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/senk37.htm
1612年 切支丹への締め付けが厳しくなってきた折、行方知れずとなる。
千葉氏さんHPより
「旗本のキリシタン詮議が行われるに及んで胤信は転教を拒否し、当時在勤していた駿府を出奔。高力右近忠房の城下町、武蔵国岩槻にいた親類の粟飯原氏を頼った。
しかし、慶長19(1614)8月、「かねて原主水と姦通」していた「駿城後閤の女房」が、原主水の追放を恨んで「大逆を企し事顕はれ」て処断され、さらにその兄の野尻彦太郎も押し込めとなった。その後、捕えられた胤信は駿府に護送されて額に十字の焼印を押された上、安倍川河畔に曳きだされて、両手足の指と両足の腱を切られて放置された。その後、助けられた胤信は、駿府郊外の耕雲寺の住職に匿われて生活を送ることとなった。」
後には、この耕雲寺の住職も罰せられ亡くなっている。
1614年、ヨハネ原主水胤信にとってはつらい年となってしまった。
では、ジローラモ・デ・アンジェリスの1614年はどうだったのであろうか。