何年か前にこの人物を調べることとなったのは、知り合いから「外国の人は蝦夷のことを何と呼んでいたの?」という質問があったためだ。
イタリア(ポルトガル語?)古文書にその名が書き記されていたのが、ジローラモ・デ・アンジェリスの「蝦夷国報告書に就いて」【RELATIONE del Iezo】 であった。最後の「Iezo」がイェーゾ、すなわち蝦夷のことである。
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ジローラモ・デ・アンジェリスは1567年にシチリア島カストロ・ジョバンニ生まれた。日本の永禄十年である。
18歳の時、兄弟であるピエトロと共に、法学を修めるためパレルモ市に移った。
1586年、1月16日 イエズス会の神父と出会い、入信を決めた。
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イエズス会とは、16世紀の宗教改革の時代に、1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志が始めた会である。イエズス会では、日本の歴史の教科書にも必ず出てくるフランシスコ・ザビエルが有名である。
ザビエルは1541年にインドのゴアへ赴いた。
ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要拠点地であった。
ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、偶然出会った日本人ヤジロー(アンジロー?)の話から日本文化に興味を覚えて1549年に来日し二年ほど滞在した。
16世紀のイエズス会士たちはその後、中国と日本への宣教の拠点としてマカオを利用した。
【天正遣欧少年使節】を計画したのも、イエズス会であり、アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。
この人物が、日本にキリスト教を大きく定着させたように見える。
信長が歿したのが1582年。
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デ・アンジェリスは1586年に入信してから約十年間の修行を積んで、その間に日本という国を知り、いつしか日本に渡って布教をしたいという気持ちが大きくなり、志すこととなった。
しかし、天正15年(1587年)日本では豊臣秀吉の時代となりwikipediaによると「ポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたことが発覚し、秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し問い詰めた上で、博多においてバテレン追放令を発布した。しかし、この段階では事実上キリシタンは黙認されていた。」というような時代となっていた。
アンジェリスが憧れていた時代、はじめに耳に入ったようなバテレン好きの信長の時代はすでに終わりを告げていた。
アンジェリスは1596年4月10日、インドのゴアへ向かう船に乗船した。(この時に同じ船に乗っていたイタリア人宣教師のカルロ・スピノラは1622年に長崎で火刑に処された。)
途中、台風、船の修理、新たな台風に遭遇、等々あった。さらにその後イギリス海軍に拿捕され、ロンドンに連行されかかった
が、ピエトロとジローラモはイタリア人ということもあり、解放された。…という数々の受難に合いながらも、その志は堅かった。
この頃、日本ではサン・フェリペ号と下記にwikipediaから引いてきた【二十六聖人の処刑】という事件が起こっていた。
「翌慶長2年(1597年)、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。」
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アンジェリスに話を戻そう。
1598年、ポルトガルのリスボンに到着し、リスボンで神父となった。
1599年3月、アジアに向かって出航。この船旅にも数々の困難が襲いかかった。
1600年、マカオに到着。
マカオにて一年足らずだが、日本語の勉強をした。
1602年、長崎に到着。
上司より京都の伏見に行くことを命じられる。
伏見で8年間布教活動をし、次に、静岡の駿府行きを命じられた。
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家康の時代となった始りは「鈴木かほるの研究によれば、秀吉の没後、家康が五大老の筆頭として表舞台に立ったとき、どの国よりもいち早く対外交渉をもったのは、当時、世界最強国と称されたスペインであったという。その目的はスペイン領メキシコで行われている画期的な金銀製錬法であるアマルガム法の導入であり、スペイン人を招致するため浦賀湊を国際貿易港として開港し、西洋事情に詳しいウィリアム・アダムス(三浦按針)を外交顧問としたという。」とある様に西洋の知識を吸収するために積極的にスペインとの交渉を行っていたようである。
ところが、その蜜月は長くは続かず、一転して宗教を日本に入れないという約束のオランダと手を結ぶこととなったのだ。
1613年 伴天連追放之令 となった。
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1614年1月27日、駿府にいたデ・アンジェリスは、将軍からの禁教令により、長崎に逃れた。
目立たぬように宣教師の服を捨て、日本人と同様の服をまとって生活していたという。
そして、同じ1614年、ヨハネ原主水胤信にもその迫害の手が伸びていた。
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ヨハネ原主水胤信 の話に続く。