この1614年以前にヨハネ原主水とジローラモ・デ・アンジェリスは出会っている可能性がある事がわかった。
「家康の殿中にも一群の熱心なキリシタンがいて、その中心人物が家康の旗本 原主水(ジョアン)であった。
彼らは駿府にも神父常駐の布教所を置くことを求め、伏見にいたイエズス会神父ジェロニモ・デ・アンジェリスが命を受けて、
駿府に布教所を開設したばかりであった。
家康は自身の周辺のキリシタンを追放することからはじめ、駿府居住の家臣団を10人1組に分けてキリシタンか否かを検問し、
3月11日頃15名ほどを検挙した。」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~aki141/nanbannjin.pdf
1612年3月21日、天領の駿府、江戸、京都に禁教令を布告して、キリシタン教会の破壊を命じ、以後教えを説くことを禁止した。
ヨハネ原主水もこの時は逃げたのだが、デ・アンジェリスも逃れることができたようだ。
1614年1月27日、駿府にいたデ・アンジェリスは、長崎に逃れた。
目立たぬように宣教師の服を捨て、日本人と同様の服をまとって生活していたという。
1615年、上司の命令で青森の津軽に移動し布教活動を行なった。(1621年までは北日本にいたそうである。)
では、津軽ではどのような活動を行っていたのだろう。
「大追放の際に京都や大坂にいた日本人キリシタンたちは、津軽地方に流罪に処せられることになった。
京都から47人、大坂から24人、計71人の、多くは身分ある武士や町人とその家族が集められ、慶長19年(1614年)3月に京都を発ち、琵琶湖を船で渡って敦賀で乗船し、1カ月の船旅の後に津軽に到着した。
時の津軽藩主信牧(2代藩主)は、少年のころ父為信(初代)とともに京都に滞在していた時入信し、ヨハネの教名を受けていた。家康の時代に入って信仰を捨ててはいたが、キリスト教に対する理解があり、流刑者らに土地を与えて開墾に従事させた。彼らは流刑地での苦しい生活に耐えながら信仰を守ったが、宣教師との接触を断たれ、聖体拝受の機会を失ったことがそれ以上に苦しかった。
パードレの来訪を待ちわびていた彼らキリシタンの要望に応えて密かに東北地方に下ったのが、イエズス会の宣教師ジローラモ・デ・アンジェリスやディエゴ・カルヴァリョらで、とくにこの二人は東北から蝦夷地(北海道)にまで渡ったことで知られている。」
彼らは待ちわびていた宣教師から話を聞き、共に祈るという生活に充実を感じることができたのではないだろうか。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~aki141/nanbannjin.pdf
そして、津軽からとうとう 1618年、蝦夷に到着した。
初めて蝦夷に渡った欧米人となった。
ヨーロッパでは、当時、蝦夷は(本州と?)樺太島・大陸につながっている土地と考えられていた。
しかし、デ・アンジェリスは蝦夷が海を隔てて存在するということを、北海道の地図を作成し欧米にその存在を知らせた。
二回に及ぶ蝦夷報告書は北海道に関する地理を描いた最も古い文献の一つであった。
以下のアドレスの資料には、その当時の地図がたくさん載っている。
北海道が変わった形になっていて、その時の認識の様子がわかって面白い。
https://core.ac.uk/download/pdf/223208332.pdf
1623年、江戸でデ・アンジェリスから布教を受けた人物が、その存在を密告された。
デ・アンジェリスは、その人物を解放してもらおうと、代わりに名乗り出た。
1623年12月4日、行動を共にしていたシモーネ・イエンポと共に火刑に処された。
その中にヨハネ原主水もいて、同じく刑に処されたという事である。
次回は、蝦夷地での活動を調べつつ進めてみたい。