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良峯氏と土岐氏の接点

2023-01-21 | 中原氏バラバラ情報

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%B8%AD%E3%83%BB%E6%9C%AB%E6%9C%9F%E4%BB%A5%E9%99%8D%E3%81%AE%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%83%A1%E3%80%80%E8%89%AF%E5%B3%AF%E5%AE%B6%E3%80%85%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E3%82%92%E9%80%9A%E3%81%97%E3%81%A6.html

 

「良峰一族の原高直が 1204( 元久元 ) 年に伊勢で起きた平氏の反乱に関係して所領没収され、ついで1216( 建保4)年に立木田高光が丹羽郡司を退任後、その職は子孫へと伝承しなかった。そして、稲木庄も良峰氏の手を離れ、美濃の土岐光行の一族がはいることになった。」

( http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/1460.pdf 参照 )

 

ちょうど富木常忍が生まれた年(1216年)である。原氏と関係のある良峯・立木田高光ののち稲木庄は土岐一族の手に渡ってしまう。稲木庄は、良峰氏の一族・立木田高光が長講堂領として寄進して成立した荘園だそうである。

上記の良峯氏に詳しいページよりここに留めて置くと、


『… 更にそうした経緯について、上村喜久子著「尾張の荘園・国衙領と熱田社」 第1部 荘園・国衙領と在地勢力 第2章 尾張「良峰氏」考 P、77にも、

「頼朝から高春が安堵された地頭職は子高直に継がれたが、何らかの事由により元久年間(1204~1206)以前に収公されている。

二宮高直跡は、池田新次郎行重 子息 為行と中務丞国盛が競望したが、池田為行は、高直に同意し勘当を
蒙ったという理由で退けられ、国盛に与えられた。

建保4(1216)年 後鳥羽院西面の武士であり幕府御家人でもある土岐光行は、池田新次郎子息追討の功賞によって左衛門尉に任ぜられている。(出典 尊卑分脈 3 P.147)(中略)

先に高直に同意したという為行の今回の行動に、高光ら「良峰氏」一族が加わった可能性もあるのではないか。」と記述されている。

元久以後、小弓荘代官と地頭 中務丞国盛の地頭代により、大縣社領の散在する小弓荘内の地は、管理されていく。』

 

*****

 

上記は難しく、良くは理解できなかったが、良峯姓の原氏周辺に、土岐氏が登場した。

(押領のようで、あまり良い形ではないかも知れないが、婚姻関係など何かあったかもしれない。)

なぜかというと、富木常忍が【土岐】とも書かれていたり、何か混乱しそうなことがあったかもしれない。

 

『小弓荘代官と地頭 中務丞国盛の地頭代により、大縣社領の散在する小弓荘内の地は、管理されていく。』とあるが、山縣国直(美濃国山縣に住み山縣を称す)―国政ー国時ー国盛ー の国盛だろうか。

山縣氏と近江国佐々木系木村氏が関係があったが。

(源国直妻 宇多源氏佐々木党 木村兵部大輔定通女

 

 

山縣国直(美濃国山縣に住み山縣を称す)―国政ー国時ー国盛ー 

の国盛だとすると、なおさらに繋がりそう!

なんせ、我が家の家伝「先祖は佐々木、神社の方…」がある。

 

記憶にないが、昨年の10月に書いた記事につながる。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/8b905959a49fb531a0591edc122ff48b

清和源氏で山縣先生国政の孫原四郎頼忠に始まる原氏が知られる。

国政は頼政の養子である。

孫が原頼忠。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/51-60/hara.html

 

この原氏はどの原氏なのだろうか?

原頼常にも似ているが。

 

 


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