「良峰一族の原高直が 1204( 元久元 ) 年に伊勢で起きた平氏の反乱に関係して所領没収され、ついで1216( 建保4)年に立木田高光が丹羽郡司を退任後、その職は子孫へと伝承しなかった。そして、稲木庄も良峰氏の手を離れ、美濃の土岐光行の一族がはいることになった。」
( http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/1460.pdf 参照 )
ちょうど富木常忍が生まれた年(1216年)である。原氏と関係のある良峯・立木田高光ののち稲木庄は土岐一族の手に渡ってしまう。稲木庄は、良峰氏の一族・立木田高光が長講堂領として寄進して成立した荘園だそうである。
上記の良峯氏に詳しいページよりここに留めて置くと、
『… 更にそうした経緯について、上村喜久子著「尾張の荘園・国衙領と熱田社」 第1部 荘園・国衙領と在地勢力 第2章 尾張「良峰氏」考 P、77にも、
「頼朝から高春が安堵された地頭職は子高直に継がれたが、何らかの事由により元久年間(1204~1206)以前に収公されている。
二宮高直跡は、池田新次郎行重 子息 為行と中務丞国盛が競望したが、池田為行は、高直に同意し勘当を
蒙ったという理由で退けられ、国盛に与えられた。
建保4(1216)年 後鳥羽院西面の武士であり幕府御家人でもある土岐光行は、池田新次郎子息追討の功賞によって左衛門尉に任ぜられている。(出典 尊卑分脈 3 P.147)(中略)
先に高直に同意したという為行の今回の行動に、高光ら「良峰氏」一族が加わった可能性もあるのではないか。」と記述されている。
元久以後、小弓荘代官と地頭 中務丞国盛の地頭代により、大縣社領の散在する小弓荘内の地は、管理されていく。』
*****
上記は難しく、良くは理解できなかったが、良峯姓の原氏周辺に、土岐氏が登場した。
(押領のようで、あまり良い形ではないかも知れないが、婚姻関係など何かあったかもしれない。)
なぜかというと、富木常忍が【土岐】とも書かれていたり、何か混乱しそうなことがあったかもしれない。
『小弓荘代官と地頭 中務丞国盛の地頭代により、大縣社領の散在する小弓荘内の地は、管理されていく。』とあるが、山縣国直(美濃国山縣に住み山縣を称す)―国政ー国時ー国盛ー の国盛だろうか。
山縣氏と近江国佐々木系木村氏が関係があったが。
(源国直妻 宇多源氏佐々木党 木村兵部大輔定通女)
山縣国直(美濃国山縣に住み山縣を称す)―国政ー国時ー国盛ー
の国盛だとすると、なおさらに繋がりそう!
なんせ、我が家の家伝「先祖は佐々木、神社の方…」がある。
記憶にないが、昨年の10月に書いた記事につながる。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/8b905959a49fb531a0591edc122ff48b
清和源氏で山縣先生国政の孫原四郎頼忠に始まる原氏が知られる。
国政は頼政の養子である。
孫が原頼忠。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/51-60/hara.html
この原氏はどの原氏なのだろうか?
原頼常にも似ているが。