昨夜、金原常義を見つけたことで、夢中になっていたが、肝心の年代はどうだろうか。
と、今朝見直して撃沈している所である。
もう一度検証してみよう。
千葉常胤(1118-1201年)は千葉常長(1024-1108年)の曾孫、千葉常兼(1045‐1126年)の孫、千葉常重(1083-1180年)の息。
昨夜の千葉氏HP円城寺氏の系図
これを見る限り、この常義は千葉常胤と同年代か、もしかしたら息の年代にもかぶりそうなのである。
系図だけでは確かな年もわからないので、今回はこの千田荘の常益の息に金原常義がいるという私的発見で留めて置こうと思う。
千葉氏HPの粟飯原氏
粟飯原家常の箇所に以下のようにあった。
昨夜の記事の続きで、従 夫金原の庄司常能は家常の兄であることがわかった。
千田庄司常益の五男。通称は五郎。家常から「粟飯原」を称している。兄は金原庄司常能。なお常能は「金原庄」の庄司ではなく、本拠を千田庄金原郷(多古町金原)に置く千田庄司であろう。
この人物も常能と書いて【つねよし】と読めることに気が付いた!!
系図での常義と同一人物と思われる。五郎の兄なので、四郎かもしれないので、千葉常胤の六男とはならないような気がする。
【千葉氏と千葉・東葛】
http://www.matsugasakijo.net/kai/rekiraku/201201chibashi.pdf
千葉常胤は上総介平広常が頼朝によって誅されると、その領地をも併合し、有力な鎌倉御家人としての地位を確立した。
千葉氏の本拠地は、もともとは大椎であったが、今の千葉市中心部に進出し、千葉庄を根拠とした。常胤の子らは、下総の各地に散って多くの子孫を残していった。
太郎胤正は宗家として千葉庄、千田庄などの下総の所領を継承したほか、上総介広常
の上総の遺領や北九州の小城などを伝領した。
相馬次郎は相馬御厨を継承し、奥州行方郡などを領して子孫は奥州相馬氏となった。
武石三郎は千葉の武石郷と陸奥の宇多・伊具・亘理の三郡を、
大須賀四郎は下総香取郡大須賀保と陸奥岩城郡などを領した。
国分五郎は葛飾郡国分郷、香取郡大戸庄などを領し、
東六郎は香取郡木内庄、立花庄、三崎庄などを領した。
東氏の子孫は美濃郡上郡にも領地をもち、移住して美濃東氏となった。
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では、千田荘とはどのあたりにあるのだろうか?
そしてそれはもしかすると千葉常胤の六郎であった東頼胤の領した場所に入っているのではないだろうか?
それで、六郎…と出てきたのではないだろうか?
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尾張国二宮からやってきた原大夫高成・高春
そことつながる線が見えてきた。
それは、千田荘の千田親通・親盛・親正のラインである。
親通の娘が頼盛の妻、親盛の子親雅(政・正)は忠盛の娘を妻、娘二条内侍は重盛の妻
原高春→母が上総介広常の妹(高成妻)
→叔父が平忠度(忠盛の息)・忠度の母が良峯高光の娘ヵ・・と言われているので、
上の説があっていることに仮定すると、
良峯高光(原高春の甥)の娘が平忠盛の妻となり、高成が原と称し、上総介の妹の夫となっている。
(原高成の娘が忠盛妻となる…の方が年代的に合っているようにも思えるが。)
(原氏と熊野別当家と藤原南家巨勢麻呂家との接点ともなる。)
中原親盛とあるので、もしかすると藤原親通の娘が嫁いだ先は内蔵助中原頼盛の可能性もあるのではないだろうか?
中原頼盛は、中原有安の父(養父中原師元・実父清原祐隆と言われているのだが)とも言われている人物である。
もしも「中原頼盛」だとすると、中原氏と千田・原氏とつながってくるのである。
阿波守 ↓ 補任 (このころ平頼盛は15歳…幼いが平=中原もあり得る??)
久安4(1148)年 | 中原頼盛 |