九里 【九里】を探して三千里

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一条実遠は、一条能保の家系

2016-05-24 | 九里【只今の状況・まとめ】

姓氏家系大辞典によれば「一条」という名前には19流がある。

その中の一つに一条能保がいる。

この本では持明院流のなかにいる。 wikipediaでは、一条家中御門流の中に系図がある。

wikipediaより

父方の祖母は後白河法皇の同母姉・上西門院の乳母・一条で、能保は後白河法皇や上西門院に近い立場にあった。また、母は当時の宮中で勢力を保っていた閑院流の流れを汲む徳大寺公能の娘であった。

3歳で父が死没し[1]、以後は祖母に育てられ、後にその一条室町邸を譲り受けた。仁平3年(1153年)上西門院御給により叙爵、保元2年(1157年)11歳にして丹波守に任官される。しかし僅か一年で任を解かれ、暫くの間は国司に任官されなかった。

その後は母方の縁に連なる徳大寺家出身の太皇太后・藤原多子に太皇太后宮権亮として仕え、この時期は徳大寺家や上西門院に近い存在であったが、官職には恵まれていなかった。この間に源義朝の娘で源頼朝の同母姉妹である坊門姫を妻に迎えている。なお、頼朝及び坊門姫の母方・熱田大宮司家も同様に上西門院に近い存在であることが指摘されている。

治承4年(1180年)、治承・寿永の乱が勃発。乱の初期においての能保の動向は明らかではないが、京が木曾義仲の勢力下にあった寿永2年(1183年)頃、その圧迫を逃れて東国に下ったとされ[2]、また元暦元年(1184年)には平頼盛などとともに鎌倉に滞在していたという[3]。

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昨日の記事の伊香郡今西庄というのも、一条能保室領となっていたので、近江との関係もあったようである。

そこで、真野宗明がこれらの一条実遠の所領を巡り巡ってもらえることになった。

それ以外に、九里にも関係があるのが一条家なのである。

能保の父=通重 の姉妹が藤原公通の妻である。そして子供は、藤原の実宗と実明である。

その実明の息に蓮乗がいる。


私の考えでは、以下のように、

蓮乗~蓮忍(九里太郎=蓮忍入道)となる。本当に血がつながっているかどうかはわからないし、もしかすると宗教上の師弟かもしれない。

しかし、九里が真野であると仮定することで、よりこの説に近づいてきたようにも思えるので、嬉しい。

その蓮乗の本名はわからないので、これも仮説だが、もしも蓮乗の本名が公雅ならば、息実任の嫁が佐原盛連の娘ということとなる。





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