仮定ばかりで恐縮だが、
まず、藤原実明の息蓮乗を公雅(1183-1148)とする。
その公雅の息が実任であり、妻が佐原盛連の娘である。
その二人の子どもが公名である。時連(真野次郎左衛門尉)
つまり、佐原盛連の娘の兄弟には、以下の六名がいるのである。(公名の叔父たち!)
猪苗代経連
比田広盛
藤倉盛義
蘆名光盛
佐原盛時
佐原時連(真野次郎左衛門尉・新宮氏祖)
藤原実任の義理の兄弟となる。
~~~*~~~
公雅の女(娘)は藤原経任に嫁いでおり、息は爲方(1255-1307)である。
実任の叔母である。
この経任・爲方は中御門家である。。藤原北家勧修寺流、勧修寺庶流となる。
一条能保も中御門流である。一条家(いちじょうけ)は、藤原北家中御門流の庶流である公家。「御堂関白」藤原道長の子右大臣頼宗の玄孫である一条通重を祖とする。
藤原通基 ―― 通重 ―― 一条能保
通基の娘が実明の母であるので、能保の父親と兄弟姉妹の関係である。(能保の叔母)・・ということは、実明と能保は従兄弟である。
おまけに、能保の母親は徳大寺公能の娘で、北家閑院流である。実明も北家閑院流である。西園寺と徳大寺は、もともとは、兄弟である。
~~~*~~~
能保を入れて数えて六代目が一条実遠となる。
どのような人だったのだろう。
一条前左兵衛督藤原実遠
一条新少将 弘安7年11月17日 勘仲記 確認してみた。コマ24(国立国会図書館デジタル)
勘中記とは藤原北家日野流広橋家の広橋兼仲の日記である。
広橋 兼仲(ひろはし かねなか)は鎌倉時代後期の公卿。
『民経記』の著者広橋経光の次男。勘解由小路 兼仲(かでのこうじ かねなか)の名で知られている。日記『勘仲記』の著者。
(嘉暦元年7月24日)
一 通 阿 祢 々 譲 状 案 右 、 両 名 者 、 一 条 左 兵 衛 督 実 遠 卿 後 室 < 真 野 左 衛 状 案 右 、
両 名 者 、 一 条 左 兵 衛 督 実 遠 卿 後 室 < 真 野 左 衛 門 尉 宗 連 先 妻 ・・・
~~~*~~~
以上の事から見て、佐原真野と藤原の北家 閑院流・中御門流とのつながりがあることが判った。
佐原盛連以降なのかどうかまではわからないが、これから探していこうと思う。
九里の祖蓮忍と蓮乗のあたりの記事をまた再掲したいと思う。
まず、藤原実明の息蓮乗を公雅(1183-1148)とする。
その公雅の息が実任であり、妻が佐原盛連の娘である。
その二人の子どもが公名である。時連(真野次郎左衛門尉)
つまり、佐原盛連の娘の兄弟には、以下の六名がいるのである。(公名の叔父たち!)
猪苗代経連
比田広盛
藤倉盛義
蘆名光盛
佐原盛時
佐原時連(真野次郎左衛門尉・新宮氏祖)
藤原実任の義理の兄弟となる。
~~~*~~~
公雅の女(娘)は藤原経任に嫁いでおり、息は爲方(1255-1307)である。
実任の叔母である。
この経任・爲方は中御門家である。。藤原北家勧修寺流、勧修寺庶流となる。
一条能保も中御門流である。一条家(いちじょうけ)は、藤原北家中御門流の庶流である公家。「御堂関白」藤原道長の子右大臣頼宗の玄孫である一条通重を祖とする。
藤原通基 ―― 通重 ―― 一条能保
通基の娘が実明の母であるので、能保の父親と兄弟姉妹の関係である。(能保の叔母)・・ということは、実明と能保は従兄弟である。
おまけに、能保の母親は徳大寺公能の娘で、北家閑院流である。実明も北家閑院流である。西園寺と徳大寺は、もともとは、兄弟である。
~~~*~~~
能保を入れて数えて六代目が一条実遠となる。
どのような人だったのだろう。
一条前左兵衛督藤原実遠
一条新少将 弘安7年11月17日 勘仲記 確認してみた。コマ24(国立国会図書館デジタル)
勘中記とは藤原北家日野流広橋家の広橋兼仲の日記である。
広橋 兼仲(ひろはし かねなか)は鎌倉時代後期の公卿。
『民経記』の著者広橋経光の次男。勘解由小路 兼仲(かでのこうじ かねなか)の名で知られている。日記『勘仲記』の著者。
(嘉暦元年7月24日)
一 通 阿 祢 々 譲 状 案 右 、 両 名 者 、 一 条 左 兵 衛 督 実 遠 卿 後 室 < 真 野 左 衛 状 案 右 、
両 名 者 、 一 条 左 兵 衛 督 実 遠 卿 後 室 < 真 野 左 衛 門 尉 宗 連 先 妻 ・・・
~~~*~~~
以上の事から見て、佐原真野と藤原の北家 閑院流・中御門流とのつながりがあることが判った。
佐原盛連以降なのかどうかまではわからないが、これから探していこうと思う。
九里の祖蓮忍と蓮乗のあたりの記事をまた再掲したいと思う。