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新しく出てきた紀伊の九里系図に拠る発見(3) 小堀氏と浅井氏の関係 そして「平家琵琶」

2018-08-25 | 九里【只今の状況・まとめ】

小堀氏と浅井氏の関係について調べてみた。

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%B0%8F#masaaki011

この中↑の小堀正房の室が浅井氏で、その息が「小堀正次」
正房の情報はあまりないのだが、「正次」はコトバンクに記載があった。

1540-1604 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
天文(てんぶん)9年生まれ。小堀正房の子。小堀遠州の父。浅井長政,豊臣秀吉につかえ,ついで徳川家康にしたがう。関ケ原の戦いののち大和(奈良県)などの旧領のほか備中(びっちゅう)(岡山県)松山1万石をくわえられ,1万4460石の大名となった。慶長9年2月29日死去。65歳。通称は新助。名は政次ともかく。

さらにweblioから
天文9年(1540年)、小堀正房の長男として近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)に生まれ、出家したが還俗して磯野員昌の娘と結婚した。員昌が浅井家から離反したことにより再び出家するが、またもや還俗して羽柴秀長に仕えることになる。最初は1,000石の知領だったが、秀長・秀吉の元で政治手腕を買われて、主に紀伊国や大和国の検地代官を務め(紀伊や大和は寺社勢力が多く、検地が容易でない事からも、その手腕を買われていた事がわかる)、次第に加増して5,000石に達した。秀長の没後は秀吉に仕えて大和・和泉・紀伊の郡代に任ぜられている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、会津征伐に従軍。戦後、備中松山に1万4,000石を与えられ、備中における天領の管理も任された。また、備中や近江における幕府の検地などにおいても、大いに功績を挙げ、慶長6年(1601年)には、伏見城の作事奉行も務めている。

慶長9年(1604年)、江戸へ参勤に向かう途上、藤沢で急死した。跡を長男の政一が継いだ。

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主君 磯野員昌→豊臣秀長→秀吉→秀頼→徳川家康 とあり、浅井氏の一番の家臣であった磯野氏の配下にいたようである。
小堀政一の母はその磯野員昌の娘であった。

この坂田郡がとても気になる。

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さて、政一の息「政尹」は=小堀権十郎である。

以下はweb情報

美術人名辞典の解説
小堀権十郎
江戸前期の茶人。徳川幕府の旗本。名は政尹、号は篷雪。小堀遠州の三男。はじめ母方の姓浅井氏を名乗るが、のち小堀氏となる。父の後を承け、千石を領した。茶道・書道を父に学び、また画・狂歌にも秀でた。元禄7年(1694)歿、70才。
小堀権十郎
江戸前期の茶人。徳川幕府の旗本。名は政尹、号は篷雪。小堀遠州の三男。はじめ母方の姓浅井氏を名乗るが、のち小堀氏となる。父の後を承け、千石を領した。茶道・書道を父に学び、また画・狂歌にも秀でた。元禄7年(1694)歿、70才。

1625-1694 江戸時代前期の武士,茶人。
寛永2年生まれ。小堀遠州の3男。正保(しょうほ)4年近江(おうみ)(滋賀県)小室藩主となった兄正之(まさゆき)から1000石を分与される。父に茶道,書をまなぶ。山水画や陶芸にもすぐれた。狂歌師の半井卜養(なからい-ぼくよう)と親交があった。元禄(げんろく)7年8月4日死去。70歳。通称は権十郎。号は篷雪。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
世界大百科事典内の小堀政尹の言及
【遠州流】より

…小堀遠州を流祖とする茶道の流派の一つ。古田織部のあとをうけて将軍家光の茶道師範となった遠州が,大名茶全盛の時代に台子を中心とした〈きれいさび〉の茶法を開いた。それは古典美を発揚した茶室,鎖の間,書院を一体化する建築にあらわされ,その茶法は藤原定家を敬慕するところから出た王朝趣味にもとづいている。また大名茶を推し進めていくなかで,茶の湯の道は人倫の道に通じるとする精神は,《書捨(かきすて)の文》に表現されている。…

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そしてもう一つ重要なポイント(ココが紀伊とつながるのでは…と思う箇所)

小堀遠州は「平家琵琶」を学んでいた!
「国立歴史民俗博物館」のリポジトリ薦田治子氏の論文より一部を紹介すると

検校は当道座の琵琶法師(盲人音楽家)の官位である。
当道座の音楽家は,平家琵琶は演奏するが雅楽琵琶は演奏しない。

文殊丸についても,付属文書にかつて「都下瞽師中野某家」にあった旨記されるが,「瞽師中野」と京都の波多野流の平家奏者中野検校のことであろう。

武蔵野は,島根目録によると,「小堀遠州御部屋様御蔵差上」とある。
小堀遠州は千利休とともに平家を学んだともいわれている。

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上記の文殊丸・武蔵野とは、琵琶の名前である。

このことと、熊野本宮の近くにある「大智庵」(そこに九里の墓がたくさんある。)とつながってくるのである。

大智庵は、平家琵琶の琵琶法師と関係が深いのである。
http://www.mikumano.net/setsuwa/heike0.html

上記の「み熊野ネット」熊野の説話によると、

…『平家物語』は、盲目僧形の芸人、琵琶法師によって琵琶に合わせて語られましたが、熊野本宮大社の近くにある今は無住の大智庵というお寺が、かつて全国の琵琶法師の総本山とされていたと伝えられます(中世以後、幕府公認で、盲人により組織された団体「当道(とうどう)」の根本史料『当道要集』を後に考証した『当道秘訣』巻下に記載された「熊野本宮光神山天夜尊御旧跡縁起」による)。…

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これは偶然の一致ではなく、熊野の「大智庵」と「小堀遠州」は縁があったと思われる事項である。

さらに前回も書いたが、大和宇陀藩の頃か丹波柏原藩の頃か、九里政道の娘が嫁いだのが「浅井伊尹」で、小堀政尹の関係ではないかと思われる人物であること。(小堀政尹葉浅井政尹と名乗っていた時もある為)

坂田とも縁のある九里氏!

九里の紀伊系図の中の「小堀氏」は、小堀遠州繋がっていると思う。



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