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豊浦庄 相伝「経秀」とは、どなたであろうか?

2017-04-22 | 雑記

【国名】 近江
【郡名】 蒲生
【荘園名】 豊浦庄
【フリガナ】 トイラ
【重複コード】
【参考市町村】 蒲生郡安土町
【市町村コード】 25381
【明治村字名】 上豊浦・下豊浦・高木・須田・石寺
【史料村郷名】
【領家・本家】 薬師寺領・興福寺領
【初見年和暦】 承暦四年
【初見年西暦】 1080
【出典】 興福寺文書・猪隈関白記・東鑑・御挙状等執筆引付
【遺文番号】 カ4792・カ15590
【記録類】 『水左記』承暦4,8,27・同閏8,6・『猪熊関白記』建仁元,8,14・『東鑑』安貞元,9,22・嘉禎元,7,7・『大乗院寺社雑事記』文明16,8,5
【関係文献】 無
【地名辞典】  角川地名=輿地史略に佐々木庄の北=安土町北部一帯=天平感宝1聖武が薬師寺に施入した100町の水田が荘園化、薬師寺領=建仁1賀茂社と日吉社の相論
【備考】  読みは中世、現在ともにトイラ、『荘園志料』の読みトヨウラを改む・東鑑=安貞1佐々木信綱に佐々木豊浦羽爾堅田両庄等の地頭職を給与、承久合戦の恩賞=嘉禎1佐々木信綱宇治河勧賞豊浦庄の替として尾張長岡庄地頭職に補任

(近江国坂田郡史)
「經秀代々豊浦庄の知行を相傳す,撟本の合戰に討死し、其の子又太郞成遠、長じて足利義詮に仕へ、後光胺院、雜を近江にへられ、始めて此の地に移住し、常樂寺村(絵れ)を本據どす,氏成、建武元年八月、遠州子氏成は彥三郞ど稱し、正虔二年ョほ父の軍功」とgooglebooksそのままコピーしてみた。

経秀〰成遠(常楽寺村が本拠)=遠州?~氏成=彦三郎 

この「経秀」波多野経秀? どなたかご存じないでしょうか~~

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2 コメント

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Unknown (りひと)
2019-03-18 19:34:37
完璧じゃないかな?豊浦ってずっと探って来たけど、父関係だと思っていなかったんですよ、てっきり主人関係だと。なんだ重なってくるのかも?
薬師寺関わるの?
蒲生ってのも安土ってのも完璧ですね。
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豊浦は神功皇后がいた長門にも。 (kunorikunori)
2019-03-18 21:04:48
りひとさま
webの情報からですが、
忌宮神社と豊浦宮

仲哀天皇と神功皇后の船は「豊浦津」で合流し、皇后は海中で「如意珠」を得たという。
また宮室の「豊浦宮」が置かれた所が、今の長府、古代の豊浦の地であった。

ここから豊浦の名前は来ていると思うんです。

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