九里 【九里】を探して三千里

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出雲・隠岐にいた「九里」

2017-03-11 | 日記
不思議なこともあるもので、購入した本の中に「九里」を見つけてしまいました。
松江城の中で売っていた本です。

出雲大社で時間がかかってしまい、夕方お城が閉じてしまうかどうかの瀬戸際のような時間帯に松江城に入った私たち。

階段を全部上って降りて・・・は厳しいかな~と思い、私は入り口付近でうろうろ。側に置いてあった本を購入しました。
「出雲風土記」ともう一冊は「京極忠高の出雲国・松江」西島太郎氏の著書です。(松江市教育委員会)

佐々九郎兵衛のことは、佐々木哲氏のメルマガでその名前と松江にいたことはわかっておりまして、その出典が松江歴史館の出版本であることもわかっておりました。

佐々氏が養子として入ってきている「九里」ですので、とても気になっていたのです。
(佐々九郎兵衛のことは、わが九里に養子となって入ってきてくれた佐々の系と関係があるかどうかはわからない状態ではありますが。。。)


ホテルに戻ってから、ページをめくるとそこに「九里」の名前が! 嬉しいですね~~~* 

「京極忠高の出雲国・松江」p.98
『(2)近江出身者の多い家臣団
千田・柏原・山田・多賀・多胡・井口・磯野・山岡・塩津・赤尾・尼子・万木(ゆるぎ)・九里・安養寺・三田村・穴生(あのう)・朽木・国友・八田・布施などは…』とありました。

安養寺は後に「沖」という苗字になったそうです。安養寺氏種とも関係があると思います。

京極忠高の父が京極高次ですので、以前見たことのある分限帳にこの家臣団のメンバーが書かれていたかもしれず、もう一度確かめたく思っています。

wikipediaより関係のありそうな部分を拾ってみると、

京極時代
結局、堀尾氏に代わって寛永11年(1634年)若狭小浜藩より京極忠高が入部した。京極氏は戦国時代に守護代の尼子氏に支配権を奪われる以前の出雲守護であり、故地に復帰したことになる。24万石の領地に加え、公儀御料の石見銀山、石見国邇摩郡・邑智郡の計4万石を預かることとなった。

しかしわずか3年後の寛永14年(1637年)忠高は死去した。死に臨み末期養子として甥の高和を立てたが認められず改易となった。しかし、高和は同年、祖先の勲功を理由に播磨龍野藩6万石の大名に取り立てられた。この時点で隠岐は公儀御料となった。

龍野藩
寛永14年(1637年)、末期養子が認められなかった外様大名の京極高和が出雲国松江藩より6万石で入封した。高和は万治元年(1658年)、讃岐国丸亀藩[1]に転封となった。龍野領は3度目に幕府領となり、龍野城も破却された。

~~~*~~~

松江藩の九里の内一名は、たぶん佐々氏が津軽に配流される事件があった際、共に配流された人で、津軽藩の記載の中に出てくる九里と思われます。


そして、松江藩は京極時代のあとに松平時代へとなり、結城氏とのかかわりが出てきます。ということは、長年謎だった我が家の文書。
【下野国壬生城ニ御座候…】とつながってくると思います。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/c/314222252f03f7a614a8b1e9ee2ab2fb

すごい成果! 足を運ぶって、取材をするって、すごいことなんだと実感! たったの一行のなかにあった「九里」がこうしてつながってくるとは、本当に感動的です。

しかし、その後はどうなっていったのだろう?そして、大和宇陀松山藩・柏原藩にいた九里とどのような関係なのだろうか~と新たな疑問もわいてくるのです。



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