https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/3315daad0a00ee2214d1aabe3b81c63a
高向利春は「武蔵守」になっている。 藤原利仁や藤原秀郷も同じ職についているが、それよりも高向利春の方が前の事のようである。(918年)
小野美材は、小野篁の孫である。
小野牧という国家が直営する勅旨牧があったので、その周辺と関係が深い。
詳しいHPがあったのでご紹介したい。
https://yogidempseyalotofthings.blogspot.com/2018/11/3.html
昨年、叔父の最後に間に合うようにバスに乗っていた際に通っていたあたりになると思う。
車窓から「小野神社」の案内板を見たように記憶している。さて、二つあるので、どちらの小野神社だったのだろう?
一宮とあったように思うが…
羽田からの高速バスで、多摩センターに行く途中のことである。
===*===
さて、前回の「渕名氏」と「小野氏」の地理的距離が近い事が気になっている。
そんな時に、このHPがとても助けになる!
https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7%E6%B5%81%E4%BD%90%E8%B2%AB%E6%B0%8F%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6
上記のページには、重要なことが書かれている。
『秀郷の子孫(秀郷流藤原氏)は、11世紀前半の頼行・行範兄弟まで中央軍事貴族・摂関家賢して活動し、千常・ 文脩・兼光・頼行は次々にに鎮守府将軍に起用ざれた。』
『清和源氏が摂関家家人・中央軍事貴族として台頭する中、十一世紀後半には秀郷流藤原氏でも頼行の子兼行・行尊は在地領主化を指向するようになったと考えられる。』
『兼行は「渕名大夫」の呼名から上野国佐位郡渕名(伊勢崎市境上渕名・下渕名)に土着し、行尊(頼行の甥行高と同人か)は「太田大夫」の呼び名から武蔵国太田荘に土着したと考えられている。』
===*===
という事は、小山氏の行尊ですね。この行尊は武蔵国太田荘であったことがわかり、少しすっきり!
源頼政と関係のある世羅ではなかったことになるのか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E6%B0%8F
太田氏の行尊!
しかも行高とも。中原行高もいる。(中原の時代は治安三年1023年から万寿四年1027年あたりに記述があり活動期である・・・合わないかも。。?)
そして【行範】これは、佐々木氏の系図に出てくる行範かもしれないだろうか?
気になっているmemo
藤原秀郷の母は大宮司鹿嶋氏。妻は秦氏。
勅撰作者部類とあったのですが、百人一首の本を読んでいて、たぶん「作者部類」と書いてあるんだろうな〜と思いつつ、確認すべく方法も無い所だったのですが、貴blogにあったので、自信を持てました。
どうも漢字が苦手なのに、漢詩を読んでいて時間ばかり掛かります。
まあ、間違っていても、自分が書きたいblogなのでと取り敢えず書いて、図書館が開けば修正しようと。
又お邪魔しますね。
川越もここ20日間新規発生が無く、90歳代の方が回復とのこと。90歳よりは若い小生ですから、なんとなく希望が持てます。
意外な箇所でお役に立てて、うれしいデス。
一体どこにその「勅撰作者部類」が書かれていたのか?を思わず探してしまいました。
そして、「小野美材」がここでは「野美材」になっていることを発見。
通称はそのように「野美材」であったようです。
「野大夫」は大内記小野美材という記述も見つけました!
情報が増えました。ありがとうございました!